源実朝には子どもがなく、将軍後継問題を抱えていた。北条政子は上洛して親王を後継将軍に迎える交渉を行った。この時は朝廷側に好意的に受け入れられた。これは実朝そっちのけで政子が動いたように考えられておいた。しかし、実朝に朝廷の権威を利用した政治構想があったとする立場からは、実朝の意を受けて政子が動いたと
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政子は後鳥羽上皇の乳母の藤原兼子と交渉した。東西どちらも女性が代表者になった。慈円は『愚管抄』で女性同士が交渉して政治を動かす「女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ」と評価した。大仏の目を書き入れることは一番大切な最後の仕上げである。それを日本国では女性が行っていると好意的に評価する。
『愚管抄』では神功皇后が政治をとっていたことを踏まえて、「男女ニヨラズ天性ノ器量ヲサキトスベキ道理」(男女の性別よりも天性の才能を先とすべき)とも主張している。二一世紀人から見ると慈円は進歩的な人物に見える。
とはいえ二一世紀的な意味での男女同権思想家と言えるかは別問題である。慈円は藤原摂関家の出身である。摂関家は天皇の生母を出すことが権力基盤であった。故に女性を重視しており、女人入眼を正しい政治のあり方と評価する。
これに対して院政は天皇の父親であることが権力基盤になる。家父長制的な体制である。慈円は後鳥羽院の側近であったが、実は院政に批判的であった。逆に鎌倉の将軍家が天皇に仕える体制は、天皇と摂関家による統治体制を補完するものとして評価していた。このギャップは承久の乱における後鳥羽院とのギャップになる。『愚管抄』自体が鎌倉との戦争に傾斜する後鳥羽院を諫めるために書かれたものであった。