長谷川宏のレビュー一覧
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ダンス、装飾、詩、雄弁、音楽、演劇、建築、彫刻、絵画、デッサン、散文。以上の創作活動について、体系的な位置づけや意義について詳細に論じている。ただし、この体系は一般的なものではなく、あくまでもアラン先生独自の理解と解釈に基づく。上記の順番にも意味があり、動的な芸術から静的な芸術に至る連続性を保った位置づけを展開。ここが非常に興味深いところで、あらゆる分野の「体系」や「分類」といった考え方一般への興味も奮い立たせてくれるものだ。第一次世界大戦兵役中に書かれたこともあって、人生論的な内容もみられるが、これと芸術との関連性も大きな読みどころである。「幸福論」のように短い形式というわけではないが、難しい表現が少なく読みやすい。趣味であれ仕事であれ芸術に関わっている人ならば有益な考え方に触れることができるだろう。
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長谷川さんの良心を感じた。市井の学者っているんだな。感慨深い。学問的な意味での哲学ではない。最初はなんだかなぁ、と思いながら読んでいたが(我見に過ぎないのではないかとの疑念ありつつ)、読み終えてみると、よい意味で裏切られた感じ。こころが暖まるエッセイだった。
・平等と対等。
・人柄への関心。
・共同精神と死。個の精神と死。
・死者と精神的につながることによって共同の世界が深みのあるゆたかさを獲得しえているとすれば、そのゆたかさは死の悲しさと寂しさをくぐりぬけ、悲しさと寂しさを包みこんではじめて可能となるゆたかさだ。
・芸術的な美を楽しむには、いったんは信仰心や知識に背を向けるようにして自分の感覚に磨きをかけなければならない。
・容易に答えの得られぬ問いをかかえつつ、現実肯定と現実否定のはざまをいきることは、精神の強さのあかしなのだ。
・子どもとの意志の疎通がうまくいかないとき、ことばづかいを分かりやすくしたり論理を緻密にしただけではどうにもならない。子どもの日常世界をなにほどか共有し、子どもの知と思考を、観念的にもせよ、自分のうちに取りこまねばならない。 -
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「しかし、言葉を発するとは誰かに語りかけることであり、誰かのために思うことである。この誰かは、つねにその人と特定された誰かであり、一般化された誰かとして耳だけをもつのではなく、口も具えているのだ」。本書を読んでいるあいだ脳裏に去来したのは、ここに引いた、ローゼンツヴァイクが「新しい思考」のなかに記したこの言葉である。言葉は伝達の手段として機能するばかりではない。言葉は、誰かへ向けて発せられ、その誰かとの関係を取り結んでいく。そうした生きた働きのうちにあるものを掘り下げることなく、言葉そのものを問うことはできない。このことを銘記しながら著者は、言語が人と人のあいだで語られるという出来事を、「言語場の成立」、「表現の構成」、「伝達の構成」という三つの観点から解き明かそうとしている。そのような著者の議論のなかで注目されるべきは、言葉が沈黙のなかから表現として立ち上がってくるという事態を、詩的な表現の豊富な例を引きながら、あるいは「空談」としての日常言語の批判を背景にしたハイデガーの言語論を解釈しながら論じている点であろう。そのなかで、ベンヤミンをはじめとする思想家も述べているように、言葉が表現となるなかで受動性と能動性が一体となっていること、すなわち言語そのものが、伝達手段である以前に媒体であることを指摘していることは、特筆されるべきと思われる。このような議論が、すでに1978年に現われていたのだ。それを忘れたまま、いわゆる「言語哲学」は、言語の機能性にのみ目を奪われていたと言えるかもしれない。こうした重要性を著者の言語哲学に認めないわけにいかないと思う一方で、著者が言語を絶えず共同性と結びつけようとしている点には、疑問を拭えないのも確かである。著者の議論において、言語自体の象徴性が、わだかまりなく言語の語り手の共同性への参入につながってしまっているように見えるのだ。むろん、それによって、言葉というものが、上から神話的に語られ、人を従わせるものでは断じてなく、むしろ対等な人々のあいだで語り交わされ、そのような人々の共同性を形成する媒体であることを示したいという意図はあろう。だが、デリダなどの議論を通過した見方からすれば、言葉の象徴性は意味の共有を保証するものではありえないし、むしろ沈黙に抗して言葉を発し、誰かに語りかけるのは、その誰かに伝わることの定かならぬ可能性へ向けてではないか。それゆえ、そこにあるのは祈りのようなものですらあるのではないだろうか。だからこそ、誰かへ向けて言葉を尽くすのであり、言葉を発する際にその「誰かのために思う」とローゼンツヴァイクは述べているはずである。言葉を語りかけるその誰かが、他者であることが省みられないまま、言葉を語り交わす関係が水平的な次元に収斂しかねない危うさも、本書の議論は含んでいるように思われる。
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カントより後代の哲学者でありながら、思索を突き詰めることで理性批判に達したカントに対して、理性にもっと大きな希望と期待を寄せた哲学者ヘーゲル。
ギリシャ芸術とプロテスタントに傾倒し、知と個に対する揺らぎ無き信念を持ち続けたその思想は、確かに当時代的で楽観的なインテリの雰囲気も感じられる。その後の近現代思想家達の批判の対象となったことも止むを得ないのかもしれない。
それでも「理性と知こそが現実である」という意見には、現代の人間も殆ど失いつつある、知性への自信を取り戻させてくれるような魅力を感じずにはいられない。時代が繰り返すのであれば、もしかしてもう一度、そんな理性と知の時代が来るのかもしれない、という期待を感じずにはいられない。
そんな風に思いました。
この本自体についても非常にわかりやすく無駄なく綺麗にまとめられていて読みやすくて好感が持てました。 -
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いわゆる〈初期マルクス〉の拠点となっている草稿。
経済体制に関する世界の批判が頓挫したあと、
注目されたのは、『資本論』に結実するような、物の価値と流通=経済の論考ではなく、
ヘーゲル哲学徒として出発した初期マルクスの、主体論であった。
それは、ルソー→ヘーゲルの流れのある、
自身の生が自己によっては充実しない=他律的な近代的人間の状況に関するものである。
また、それは初期の吉本隆明がマルクスを意識して使ったと思われる〈関係の絶対性〉という状態でもある。
搾取を論じるより、自己疎外を論じる方が、現在には性にあっているかもしれない。
資本主義社会が生きづらい社会であることをわかっていつつ、それは自己の問題にすぎないと、この社会自体は肯定してしまっている態度のためである。
この経済体制と主体の関係は、相互に絡み合っている。どちらに重点を置くにせよ、この2つは切り離して語ることはできない。
ただ、この草稿自体は未完であり、
数々の引用が大分の割合を占めている(特に第1草稿において)。
この引用を分け入って、彼の意を汲んでいく作業は億劫であるかもしれない。 -
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名高い「経哲草稿」の長谷川宏による新訳である。マルクスの著作にはこれまでほとんど親しんでこなかった手前、彼の思想について立ち入ったことは述べられないが、まだ若いマルクスが、資本主義社会のなかで働くことのうちにあまりにも深く巣くってしまっている矛盾を、その思考がどこか割り切れていない分いっそう鮮烈に浮き彫りにしている印象を受ける。この矛盾が今なお、いや今日ますます苛酷に働く人々を苦しめていることは言うまでもない。この草稿に示されるマルクスの思考が割り切れていないように見受けられるのは、ヘーゲルに見られる抽象的に理想化された労働観や、彼に先立つロマン主義者たちの土地信仰とも結びついた自然との一体性の安易な理想化を批判して、産業社会のなかに人間の新たな自然を見届け、「産業の生みだした自然こそが、疎外された形を取ってはいても、真の人間的な自然なのだ」として、それを準備した自然科学の活動は、「人間の生活を改革して人間の解放を準備するものとなっている」と述べる──そのことに潜む「進歩」信仰が後にベンヤミンによる批判の対象となる──一方で、この新たな自然のなかで人間どうしの、あるいは産業の手前にある自然と人間の生き生きとした交流を回復し、人間が社会的存在として自己を解放し、実現することへの──もしかするとロマン主義者よりも──強烈な憧れが、この時期のマルクスのなかにあるように思えてならないからだ。それはとくに貨幣批判に表われていよう。また、そこから取り出される技術と労働の省察を、ベンヤミンの「第二の技術」やE・ブロッホの「同盟技術」の概念と絡めつつ検討することも、今日それこそ生産的かもしれない。それは今はともかくとして、若きマルクスの具体的な──あるいは「唯物論的」と形容すべきだろうか──解放への憧憬が、資本主義社会における労働の矛盾を鋭く抉り出している点は、今とくに若い人々にあらためて読み直されてよいのではないか。「人材」という言葉が示すように、「労働者としてかろうじて存在する人間にとって、人間としてのさまざまな特性は、自分の外にある資本が認めるかぎりでしか意味をもたない」。そのように疎外された人間は、「自分の生産する富が大きくなればなるほど、自分の生産活動の力と規模が大きくなればなるほど、みずからは貧しくなる」。こうして「使える」人間は、資本そのものによって使い尽くされ、使い捨てられるのだ。そのような「安価な商品」へと人間を追い込むものとして、マルクスがこの草稿で当時の「国民経済学」の禁欲主義的道徳を挙げている点も、注目に値しよう。彼によると、「それが真の理想として掲げるのは、禁欲的だが欲張りの吝嗇漢と、禁欲的だが生産に励む奴隷なのだ」。これらを美化する「国民経済学者」を、「ネオリベラリスト」と呼び換えてもほとんど違和感がない。もしかするとマルクスが解放と呼ぶものは、ニーチェがそれこそ「奴隷道徳」と呼ぶその禁欲主義的道徳に取り込まれる前に、それを指弾しうるこの草稿のマルクスにもある「若さ」をいかに取り戻すかにかかっているのかもしれない。では、その回路を、師走の訪れとともに始まった「就活」の手前でいかに見いだせるのか。この「草稿」は、教育に携わる者に重い問いを投げ掛ける一冊とも言えよう。訳文は非常に読みやすいが、やや読者に媚びて、その分原文から離れていると思われる箇所があるのは惜しまれる。
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長谷川宏著「新しいヘーゲル」講談社現代新書(1997)
*「理性とはおのれば全存在をつらぬいている、という意識の確信である!」
*普通は、種が芽を出す。というところをヘーゲルはあえて、「種が否定されて芽となる」と「種の否定が芽である」とか、持って回った言い方をする。否定の動きをぜひとも強調したいのだ。その対立や変化が運動の原動力となると考えるのが弁証法の基本だからだ。
*何もない無や空虚におわる懐疑主義には、そこから先への前進は望み得ず、なにか新しいものが外からやってくるのを待ち構えて、それを相も変わらず空虚な深淵へと放り投げるほかはない。が、本当の経験のうちにとらえる結果は、否定的なものとはいっても、その否定が限定的なものであり、その否定からただちに新しい形が発生する。つまり、否定のうちにつぎの段階への移行がおこなわれるのであって、こうして、さまざまな意識の形態を1つ1つ丁寧にたどっていく知の旅がおのずと進行するのである。
*ヘーゲルは、近代的な個の自由と自立を確立する上で、知の動きこそがもっとも基本的な要因をなすと考え、個の自由と自立をめざす「意識」の旅を自立した知への旅として描いてみせた。旅の終点をなす、「絶対知」が、高度な抽象性と対形成を備えた学問に直結するかに見えて、その実、近代社会に広く行き渡る知と思考を鈍化したものであるとすれば、「絶対知」への旅は、学問にたずさわる学者や知識人だけにとどまらず、近代社会に生きる一般市民が個として自由と自立を獲得していくために必要なものであるとした。
*「確信」という心のありさま、心の動きをそんなにも重視する。そして、確信の輪を広げ、その内容を深めていくことをもって、意識の旅の根本的な推進力とする。確信とは、個人が己にかえって、なにごとかを自分で自分に確かめるところに成り立つものであるし、一度得られた確信についても、これを維持するのか革変するのかを最終的に自分個人で判断することによって決めるしかない、精神の営みである。
*自己意識が理性になるとともに、これまでの他なる存在との否定的な関係が肯定的な関係へと転化する。これまでの自己意識は自分の自立と自由だけに関心をもち、自分の価値を否定するかに見える世界や地震の肉体を犠牲にして、自分だけを救い、維持しようとしていたが、自分の存在に自身をもつ理性は、世界に対してゆったりとして構え、世界の存在を容認することができる。というのも、理性的意識は、自分が物として存在することを確信し、現実の一切が自分と別のものではないということを確信しているのだから。世界がゆるぎなくあることが、意識自身の真実と現在をなすのであって、世界の中での経験がそのまま自己の経験であるのを意識は確信している。
*自他のうちにある非理性や反理性との戦いの中で、はじめて強靭な理性の光が輝く。挫折や敗北を通してこそ、知と思考に厚みと広がりが備わるのである。
*デカルトは、「われ思う、ゆえにわれあり」という自我宣伝を哲学の第一原理として上で世界全体の精神(思考するもの)が物体(延び広がるもの)によって構成されていると考えた。一方で、ベーコンは観察と経験に基づく帰納法を心理認識の原則として掲げ、学問の全体を記憶に基づく歴史、想像力に基づく芸術、理性に基づく哲学の3つに大きく分類した。このように世界の全体に向き合おうとする姿勢は、デカルトにもベーコンにも確実に認められるし、後続の哲学者たちにも受け継がれている。そして、その姿勢を徹底的につらぬき、比類を絶した壮大な体系を築き上げたのがヘーゲルである。「現実的なものは理性的である!」 -
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[ 内容 ]
社会を矛盾と対立のるつぼととらえ、そのむこうに統一と秩序を見通した哲学者。
壮大で華麗な思考の躍動を平易な日本語で説きつくす。
[ 目次 ]
第1章 ヘーゲルはむずかしいか?―弁証法入門
第2章 『精神現象学』―魂の遍歴
第3章 世界の全体像―論理・自然・精神
第4章 人類の叡知―芸術と宗教と学問と
第5章 近代とはどういう時代か―日本と西洋
第6章 ヘーゲル以後
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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まず文章が硬すぎる。アリストテレスを道学者風などと批判的に分析するが、著者もそれに劣らず、といった感がある。おそらく最後に検討したラッセルに依拠して、人の幸せとは、地味でひかえ目で身近な穏やかな生活を隣人と片寄せあって過ごすこと、というのが著者の「幸福観」であると思われる。その帰結から、古代、近代、20世紀の西欧哲学者の幸福論が論断されていて、全体に客観的な記述ではない。
勿論、いいたいことはわかるし、間違っているとは思えないが、個々人が他者との共存を守る範囲では、派手で目立つ華やかな生活を送ろうとすることも、個人の自由であるし、その人の「幸せ」であることは否定しえないように思う。国との関係では「大状況の色に染まらない、自分独自の幸福」というのは、その通りではあるが、著者の主張は、身の丈に合った慎ましい生活を甘受せよ、という押しつけ風にどうしても聞こえてしまう。
他方で、経済学の祖・アダム・スミスが共感の道徳を踏まえて、各人の差異に応じて、他人との取引・交換をするという社会活動こそが経済活動の根幹をなす、と考えていたという趣旨の分析は面白かった。また時代ごとの社会の変化・当時の思想潮流とを踏まえて、哲学史が検討されているのも参考になる。
それにしても、やはり全体として堅苦しさがあることは否めない。 -
Posted by ブクログ
『精神現象学』などのヘーゲルの著作を、わかりやすい日本語に訳したことで知られる著者による、ヘーゲル哲学の入門書です。
本書では、ヘーゲルを「近代」という時代の思想家として位置づけています。教会の権威を否定して、神の前に立つ個人としての信仰者のすがたを打ち出したルターの宗教改革に象徴されるように、個人の形成と自由な主体の確立が、「近代」という時代を特徴づけているということに著者は目を向けています。
ヘーゲルは近代的な個人を、みずからの内の理性に絶対の信頼を寄せる者として理解しました。そうした個人は、現実の中で出会うさまざまな困難と格闘しつつ、否定をくぐり抜けて「絶対知」へと進んでいくたくましさをもっています。本書ではヘーゲルの『哲学史講義』や『歴史哲学講義』、『美学講義』などを題材に、理性がたくましく前に進んでいくすがたがイメージ豊かにえがかれています。