長谷川宏のレビュー一覧
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「しかし、言葉を発するとは誰かに語りかけることであり、誰かのために思うことである。この誰かは、つねにその人と特定された誰かであり、一般化された誰かとして耳だけをもつのではなく、口も具えているのだ」。本書を読んでいるあいだ脳裏に去来したのは、ここに引いた、ローゼンツヴァイクが「新しい思考」のなかに記したこの言葉である。言葉は伝達の手段として機能するばかりではない。言葉は、誰かへ向けて発せられ、その誰かとの関係を取り結んでいく。そうした生きた働きのうちにあるものを掘り下げることなく、言葉そのものを問うことはできない。このことを銘記しながら著者は、言語が人と人のあいだで語られるという出来事を、「言
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カントより後代の哲学者でありながら、思索を突き詰めることで理性批判に達したカントに対して、理性にもっと大きな希望と期待を寄せた哲学者ヘーゲル。
ギリシャ芸術とプロテスタントに傾倒し、知と個に対する揺らぎ無き信念を持ち続けたその思想は、確かに当時代的で楽観的なインテリの雰囲気も感じられる。その後の近現代思想家達の批判の対象となったことも止むを得ないのかもしれない。
それでも「理性と知こそが現実である」という意見には、現代の人間も殆ど失いつつある、知性への自信を取り戻させてくれるような魅力を感じずにはいられない。時代が繰り返すのであれば、もしかしてもう一度、そんな理性と知の時代が来るのかもしれ -
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いわゆる〈初期マルクス〉の拠点となっている草稿。
経済体制に関する世界の批判が頓挫したあと、
注目されたのは、『資本論』に結実するような、物の価値と流通=経済の論考ではなく、
ヘーゲル哲学徒として出発した初期マルクスの、主体論であった。
それは、ルソー→ヘーゲルの流れのある、
自身の生が自己によっては充実しない=他律的な近代的人間の状況に関するものである。
また、それは初期の吉本隆明がマルクスを意識して使ったと思われる〈関係の絶対性〉という状態でもある。
搾取を論じるより、自己疎外を論じる方が、現在には性にあっているかもしれない。
資本主義社会が生きづらい社会であることをわかっていつつ、そ -
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名高い「経哲草稿」の長谷川宏による新訳である。マルクスの著作にはこれまでほとんど親しんでこなかった手前、彼の思想について立ち入ったことは述べられないが、まだ若いマルクスが、資本主義社会のなかで働くことのうちにあまりにも深く巣くってしまっている矛盾を、その思考がどこか割り切れていない分いっそう鮮烈に浮き彫りにしている印象を受ける。この矛盾が今なお、いや今日ますます苛酷に働く人々を苦しめていることは言うまでもない。この草稿に示されるマルクスの思考が割り切れていないように見受けられるのは、ヘーゲルに見られる抽象的に理想化された労働観や、彼に先立つロマン主義者たちの土地信仰とも結びついた自然との一体
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長谷川宏著「新しいヘーゲル」講談社現代新書(1997)
*「理性とはおのれば全存在をつらぬいている、という意識の確信である!」
*普通は、種が芽を出す。というところをヘーゲルはあえて、「種が否定されて芽となる」と「種の否定が芽である」とか、持って回った言い方をする。否定の動きをぜひとも強調したいのだ。その対立や変化が運動の原動力となると考えるのが弁証法の基本だからだ。
*何もない無や空虚におわる懐疑主義には、そこから先への前進は望み得ず、なにか新しいものが外からやってくるのを待ち構えて、それを相も変わらず空虚な深淵へと放り投げるほかはない。が、本当の経験のうちにとらえる結果は、否定的なものと -
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[ 内容 ]
社会を矛盾と対立のるつぼととらえ、そのむこうに統一と秩序を見通した哲学者。
壮大で華麗な思考の躍動を平易な日本語で説きつくす。
[ 目次 ]
第1章 ヘーゲルはむずかしいか?―弁証法入門
第2章 『精神現象学』―魂の遍歴
第3章 世界の全体像―論理・自然・精神
第4章 人類の叡知―芸術と宗教と学問と
第5章 近代とはどういう時代か―日本と西洋
第6章 ヘーゲル以後
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まず文章が硬すぎる。アリストテレスを道学者風などと批判的に分析するが、著者もそれに劣らず、といった感がある。おそらく最後に検討したラッセルに依拠して、人の幸せとは、地味でひかえ目で身近な穏やかな生活を隣人と片寄せあって過ごすこと、というのが著者の「幸福観」であると思われる。その帰結から、古代、近代、20世紀の西欧哲学者の幸福論が論断されていて、全体に客観的な記述ではない。
勿論、いいたいことはわかるし、間違っているとは思えないが、個々人が他者との共存を守る範囲では、派手で目立つ華やかな生活を送ろうとすることも、個人の自由であるし、その人の「幸せ」であることは否定しえないように思う。国との -
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『精神現象学』などのヘーゲルの著作を、わかりやすい日本語に訳したことで知られる著者による、ヘーゲル哲学の入門書です。
本書では、ヘーゲルを「近代」という時代の思想家として位置づけています。教会の権威を否定して、神の前に立つ個人としての信仰者のすがたを打ち出したルターの宗教改革に象徴されるように、個人の形成と自由な主体の確立が、「近代」という時代を特徴づけているということに著者は目を向けています。
ヘーゲルは近代的な個人を、みずからの内の理性に絶対の信頼を寄せる者として理解しました。そうした個人は、現実の中で出会うさまざまな困難と格闘しつつ、否定をくぐり抜けて「絶対知」へと進んでいくたくまし