歴史・時代小説 - 学研の検索結果
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<大坂の陣>大坂方敗北のワケ/幸村の影武者現る
大坂の陣、大量の兵力が動員された合戦は、秀吉自慢の巨城をしだいに削り取っていった。しかし。兵力の差以上に、大坂方には決戦に敗北する決定的な理由が存在した。そして、大坂の陣に出没した三人の真田幸村の謎とは。せまる大坂の陣、最終決戦。 -
<大坂の陣>「城内における真田幸村」「真田幸村の遺児」
ついに勃発した大坂の陣。元大名や浪人などが大坂城に集まった。その中に真田幸村もいた。軍師として迎えられたはずの幸村だが、そこで内部抗争の渦へと巻き込まれていく。また幸村の遺児たちはその後どうなったのか。真田幸村、大坂の陣を巡る2篇を収録。 -
大坂の陣・人物列伝「大野治長・治房・明石全登」
大坂方の総軍総司令官、大野治長。その弟・治房。生涯相合わぬ兄弟の鬱積はついに、大坂の陣中にて爆発する。一方、キリシタン大名明石全登は、十字架を掲げ、彗星の如く、大坂入城を果たした。大坂に集った多様な顔。大坂の陣をとりまく人々。 -
大坂の陣・人物列伝「片桐且元・徳川秀忠・阿茶局・常高院」
片桐且元、豊臣方からの訣別の理由。失敗続きの徳川秀忠が持っていた、将軍の資質。家康の側室から秘書官的存在にまでのぼった、阿茶局。東西の融和の橋渡し的役割を果たした、常高院。四人の登場人物から、歴史的合戦・大坂の陣にせまる。 -
大坂の陣・人物列伝「金地院崇伝・板倉勝重」
奇謀奇略を駆使した辣腕の政僧で「黒衣の宰相」と呼ばれた、金地院崇伝。元禅僧で、幕府の最前線機関京都所司代の任についた、板倉勝重。徳川幕府を陰から支え続けた、二人は大坂の陣において、どのような役割を果たしたのか。 -
大坂の陣・人物列伝「後藤基次・木村重成」
筆太にまっすぐひかれた士魂とその優れた人柄で、大坂方の精神的支柱とも呼べる名将、後藤又兵衛基次。凛とした美丈夫で壮絶なる最期を遂げた、大坂の陣の「花」、木村重成。歴史的合戦・大坂の陣を美しく彩った二人の武将にせまる。 -
大坂の陣・人物列伝「真田昌幸・真田幸村」
生涯、徳川家康にとって疫病神であった真田昌幸・幸村親子。稀代の横着者として、乱世を泳ぎ切った父・昌幸と、言葉少なにして柔和な幸村。親から子へ、すべては大坂の陣へと収斂していく。真田家の真髄。親子がたどった大坂の陣への道。 -
大坂の陣・人物列伝「伊達政宗・上杉景勝・松平忠直」
勝利を手にしながらも心境複雑な、伊達政宗。名門復活を望んだ、上杉景勝。戦功をあげてなお報われなかった、松平忠直。単純な勝者と敗者では、括り切れない三人。彼らにとって大坂の陣とはなんだったのか。歴史的合戦・大坂の陣を形づくった人々にせまる。 -
大坂の陣・人物列伝「福島正則・加藤清正と秀吉恩顧大名」
生え抜きの「秀吉子飼い」であり、賤ヶ岳七本槍の一人でもある福島正則や、秀吉によって理想的武将として育てられた加藤清正は、関ヶ原合戦・大坂の陣と、大坂方の敵として振る舞った。その理由は何か。歴史的合戦・大坂の陣を形づくった人々にせまる。 -
<大坂の陣>壮烈に散った大坂の七将
大坂の陣にて奮戦し、壮烈に散った豊臣方の七人の大将――木村重成、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登、塙直之、薄田兼相を紹介! 味方を鼓舞し、敵方から畏敬された猛将たちの最期の煌めきを堪能する一冊! -
大坂の陣の実像を解読する
戦国史上最大の合戦、大坂の陣。戦場では実際に何が起こっていたのだろうか。壮大な防衛構想「大坂城浮き城化計画」、豊臣・徳川両陣営の動員力比較、包囲網と迎撃戦の詳細、勝敗を左右した大砲解説など、多数の図表を駆使して、大坂の陣を視覚的に徹底解析。 -
大坂の陣までの軌跡「家康、将軍就任の真意」「秀忠、二代将軍となる」
将軍任官の資格のなかった徳川家康は、力づくでその資格を手に入れた。しかし、そこまで固執した将軍職を、異例ともいえるスピードで、三男秀忠に譲ってしまう。徳川の威光を示す、将軍就任そして代替わりの儀式の裏にあった、家康真の狙いを推理する。 -
大坂の陣までの軌跡 「家康、駿府移転の狙いは何か」「戦国最後の実戦城郭の建設に着手」
遠くない将来、豊臣方との一戦を想定していた家康は、大坂包囲網を計画する。駿府城への移転・大修築を含め、各国で築城を推し進める家康は、遂に実践城郭の完成形ともいえる名古屋城の建設に着手した。築城にみる、家康大坂包囲網の実態とは。 -
大坂の陣までの軌跡「巌流島の決闘」「方広寺鐘銘事件発生」
宮本武蔵と佐々木小次郎が剣技を闘わせた巌流島の決闘と、徳川家康が突如として持ち出し、大坂の陣開戦の発端となった方広寺鐘銘問題。一見、縁遠い二つの出来事は、大坂の陣という補助線によって結ばれる。歴史の細部からせまる、大坂の陣への道程。 -
大坂の陣までの軌跡 「関ヶ原の敗戦武将のその後」「方広寺大仏殿再建地鎮祭」「“大御所”家康と秀頼が初会見」
関ヶ原合戦で西軍側についた武将に、厳しい処分が下ったときから、大坂の陣勃発は必然であったのかもしれない。豊臣秀頼のカリスマ性を恐れる家康は、大坂方の弱体化を謀って、莫大な数の寺社の造営や修復を奨励した。大坂の陣へといたる長き行程をたどる。 -
大坂の陣をとりまく人々
あらゆる身分、あらゆる思惑が渦巻き、激流のごとく流れぶつかり合った合戦、大坂の陣。徳川譜代・外様大名。豊臣直臣や浪人。茶人、商人、僧侶に公家。果ては農民までが結集した戦国史上最大の合戦を、それぞれの視点から描ききる力作論考。 -
<太田道灌と戦国時代>英雄たちの邂逅 太田道灌と北条早雲
同時代を生きた武人、太田道灌と北条早雲は戦乱の関東で一度だけ対面している。名将として世に知られた道灌と、虎視眈々と飛躍の時を待つ早雲。一瞬の邂逅にふたりは何を思ったのか? 後の世に語り継がれる英雄たちの出会いとその後の対照的な人生を追う! -
<織田信忠と神戸信孝>憤死!覇王の継承者/潰えた「四国管領」の夢
天正十年、本能寺に宿泊中の信長を明智光秀が急襲した。父を救うべく動きだした信長の嫡子織田信忠だったが。織田一門のなかでも、その地位が決して高くなかっ神戸信孝。国持になる夢を実現せんと四国渡海の行動にでるが。信長の二人の息子にせまる。 -
<織田信長と浅井長政>長政は何故信長に叛旗を翻したのか
破竹の勢いで勢力を拡大する織田信長の前に立ちふさがる反信長包囲網。その発端となったのが、当時信長と同盟関係にあった浅井長政の“裏切り”だった。旧来からあった朝倉氏との親交のためなのか。今一度検証することで分かった、長政叛旗の理由とは何か。 -
<織田信長と浅井長政>二者択一に迫られた長政の決断
近江国北部三郡にその領国を展開した浅井氏。浅井三代の一人、長政の時代、浅井氏は急成長をとげ、遂に尾張の織田信長と同盟を組むにいたった。ところが、足利義昭と信長の対立が思わぬ事態を呼びよせる。信長の片腕にもなりえた長政“裏切り”の必然性とは。 -
<織田信長と浅井長政>信長の婚姻政策とお市の運命
戦国一の美女、織田信長の妹お市。近江の大名浅井長政に嫁いだお市だが、その結婚年次については諸説ある。そしてその時期の違いは、織田・浅井同盟の意味を、大きく左右するのであった。お市の婚姻と同盟の意義を、当時の状況と史料から再検討する。 -
<織田信長と元亀争乱>四面楚歌での苦闘
元亀年間の四年は、織田信長にとって朝倉・浅井氏との戦い、本願寺一向一揆そして足利義昭との対立など、反信長連合に包囲され、まさに四面楚歌の状態であった。しかし、信長はその状況を打破し、覇者の座へ大きく前進する。信長「元亀争乱」の苦闘。 -
<織田信長と戦国時代>いざ!本能寺 信長と光秀四日間の動向
天正十年五月二十八日から本能寺の変勃発の六月二日までの四日間、織田信長と明智光秀は何をしていたのか? 天下を瞠目させた史上空前のクーデターに至る軌跡を詳細に解説! 教養人にして武辺者? 光秀の武術に関する記事も同時収録! -
<織田信長と戦国時代>織田信長の人格・思想・行動分析
家臣だけでなく身内にも厳しく、思考の柔軟さと合理性を合わせ持ち、圧倒的な力で「天下布武」を推し進めた織田信長。しかし、信長の人格・思想・行動パターンの内に潜むあることが、明智光秀を本能寺へと走らせた。信長、自壊の原因を探る。 -
<織田信長と戦国時代>快進撃の舞台裏 信長の懐柔策
織田信長の快進撃は、武力だけを頼りにしたものではなかった。派手な合戦の裏では、無駄な衝突を避けるために、強大勢力との交友や、敵将への寝返り工作などあらゆる手を尽くし、自分に有利な状況を演出した。信長の硬軟自在な懐柔策を分析する! -
<織田信長と戦国時代>家臣操縦術は両刃の剣?
凄惨極まる骨肉の争いを経験した織田信長は、いかに人心が移ろいやすいかを痛烈に感じたことだろう。故に、能臣は重用する一方、不要とあらば老臣さえも切り捨てる実力主義を徹底したのも頷ける。しかし、その家臣操縦術が軍団に暗い影を落とすことになる…。 -
<織田信長と戦国時代>外国人が見た信長
同時代人の眼から織田信長を描いた、太田牛一による『信長公記』。しかし本当の信長像を伝えるには物足りない。アビラ・ヒロン『日本王国記』や、ルイス・フロイスの『日本史』、ヴァリニャーノの『日本巡察記』を紐解くことで見えた、織田信長の真の姿とは。 -
<織田信長と戦国時代>元亀争乱を鎮めた多角的戦略
信長最大の危機、元亀争乱勝利の秘密を分析! 戦線が拡大するに従い、領国を離れての転戦を余儀なくされた織田軍。安心して最前線で戦うため、信長は後方戦略にも注力する。 激情家・信長の、冷静な司令官としての一面に光をあてる一冊。 -
<織田信長と戦国時代>国内トップの鉄砲生産力を誇った経済都市・堺
大量の物資が集まる経済都市・堺は、「天下布武」を標榜する信長にとって重要な町だった。鉄砲の生産、硝煙の輸入において国内トップクラスを誇っていたからだ。堺攻略から支配体制まで解説。 -
<織田信長と戦国時代>佐々成政と織田軍の鉄砲活用
鉄砲部隊を率いた佐々成政は、二段撃ちなどの工夫によって金ヶ崎の退陣や長篠の戦いで軍功を上げた。その戦歴を中心に、織田軍の先進性の象徴、鉄砲活用について考察する! 成政も出陣し、上杉謙信に挑んだ手取川の夜戦の解説も同時収録。 -
<織田信長と戦国時代>西上の野望を粉砕! 織田信長の対武田戦略
信玄の西への野心が燃え上がったとき、織田家と武田家の蜜月は終わりを告げ、長篠の戦いへと至る抗争が勃発した! 稀代の戦略家・信長がとった作戦とは? 同盟締結から決戦までの経緯を解説! また、信長の戦術に欠かせない鉄炮についての考察も同時収録! -
<織田信長と戦国時代>他大名と何が違った?信長の鉄炮運用法
戦国時代、鉄炮の威力に着目した織田信長であったが、それはなにも信長に限ったことではなかった。しかし、合戦における信長の鉄炮の運用は、他の大名とは幾つかの点で異なっていた。短期間のうちに他大名を圧倒するに至った信長の、鉄炮運用法にせまる。 -
<織田信長と戦国時代>大苦戦を強いられた野田・福嶋の戦い
畿内にて挙兵した三好党を討伐するべく、軍勢を率いて戦場に向かった信長。しかしその背後からは石山本願寺と朝倉・浅井が迫っていた。金ヶ碕、滋賀の陣に次ぐ信長の三大苦難の一つ、野田・福嶋の戦いの全貌を明かす! -
<織田信長と戦国時代>天下統一の鍵 織田信長の国人衆支配術
下剋上の戦国時代、上昇志向が強く叛服常無い国人衆は大名たちにとって両刃の剣だった。国人衆の統率という課題に対し、勢力拡大を目指す信長が導き出した答えとは? 信長の没後、秀吉と家康が天下を争った「小牧長久手の戦い」についても同時収録! -
<織田信長と戦国時代>「天下布武」への戦略
織田信長による「天下布武」の宣言は、単なる武断主義ではない。それは信長による、より大きな国家構想の宣言であったのだ。あの豊臣秀吉でさえ継承できなかった「天下布武」構想の実像と、それを実行に移せた信長のバックボーンをあぶりだす。 -
<織田信長と戦国時代>天皇・将軍対策/播磨神吉城攻め
新興勢力であった織田信長は、既存勢力である天皇・将軍権威にどのような態度で臨んだのだろうか。圧倒的な火力を見せつけた、織田方攻城戦のひとつの到達点でもある、播磨神吉城攻めにせまる一編を合わせて収録。 -
<織田信長と戦国時代>統治者信長 模倣と独創
「戦国の風雲児」と形容されるように、旧秩序の破壊者・改革者という印象が強い織田信長。しかし、その統治政策には、既存のシステムや先人の知恵も、うまく取り入れられているという。模倣者か? 変革者か? 統治者として信長の実像に迫る! -
<織田信長と戦国時代>なぜ好機を逃したのか?朝倉・浅井の限界
織田信長と反織田勢力の四余年に渡る争い、いわゆる「元亀争乱」。反織田勢力の中心であった朝倉・浅井勢は信長打倒を目前にしながら、なぜその息の根を止める事ができなかったのか?朝倉・浅井側からみた「元亀争乱」。反織田勢の限界を探る。 -
<織田信長と戦国時代>信長が寵愛した八人の側近たち
身辺警護から政務処理までをこなす役回りの「近習」。信長の「近習」として仕えた者には、前田利家、佐々成政など後の重臣たちの名もある。ここでは、桶狭間の戦いで今川義元の首を取った毛利新平ら個性的な八人を紹介。 -
<織田信長と戦国時代>信長生誕から本能寺の変までを完全網羅
得意の俊敏な機動力と内応工作により、今川義元、武田信玄、石山本願寺らの宿敵を制圧した織田信長だったが、本能寺の変により天下統一の夢は果たせず最期を迎えてしまう。常に死を覚悟しながら生きた男の四九年の生涯を辿る。 -
<織田信長と戦国時代>信長と叛将たち 裏切りの理由
武将たちの裏切りは時に歴史を大きく動かした。織田信長も、その恩恵と被害を受けた一人である。美濃攻略戦では、敵方の西美濃三人衆の引き抜きに成功した一方、天下統一目前に重臣・明智光秀の反乱で命を落としている。叛将たちの裏切りの理由を徹底解説! -
<織田信長と戦国時代>信長の革新性・七つのキーポイント
織田信長は、硬直しきった中世世界を、比類なき先見と独創精神によって打破した。なぜ信長だけが唯一、世界を変えることができたのだろうか。他の武将との比較で鮮明になる信長の革新性を、七つのキーポイントで総点検する。 -
<織田信長と戦国時代>信長の懐刀 朝山日乗
初期織田政権を支えた外交僧、朝山日乗を紹介! 他勢力との調停に力を発揮した日乗は、朝廷や将軍に対する窓口として活躍。織田家の京都支配に大きく貢献した。同じ外交僧として著名な安国寺恵瓊をして、油断のならない切れ者と言わしめた日乗の正体に迫る! -
<織田信長と戦国時代>信長を勝利に導いた付城と機動戦術とは?
有名な長篠の戦いや姉川の戦いなど、信長は敵軍勢よりも圧倒的な兵力をもって戦果を挙げることを好んだ。兵力の大量集中を可能にした大規模な付城と電光石火の機動戦術とは? 信長の勝利の秘密を暴く! -
<織田信長と戦国時代>覇業優先主義 信長の宗教政策
比叡山焼き討ちや本願寺との抗争によって、無神論者というイメージが強い織田信長。だが、一方で神社への寄進やキリスト教の容認といった保護政策も行っている。そこには、覇業達成を第一に考える合理的な信長の判断があった! 宗教政策の裏と表を解説! -
<織田信長と戦国時代>「方面別撃破作戦」を命じられた名将六人
天下統一にあと一歩まで近づいた信長。その偉業を可能にしたのは方面別軍団という独創的な組織編成だった。知略を駆使することで戦わずして勝つ豊臣秀吉など、各軍団を率いた名将六人の戦いぶりと生きざまを紹介する。 -
<織田信長と戦国時代>本能寺の変前夜 家臣団の動向
わずかな近臣とともに本能寺の変に滞在した織田信長、天下統一は目前に思えたが…。本能寺の変前夜、豊臣秀吉ら織田家臣団の動向を検証! 5つの軍団を編成し、各地を転戦していた織田軍団。有力部将たちはどこで、何をしていたのか? -
<織田信長と戦国時代>本能寺の変を紐解く二四の史料を徹底検証
明智光秀が主君信長に対して謀叛をおこした本能寺の変。この日本史上最大のクーデターには数多くの史料が残されているが、その内容は本当に信憑性が高いのか? 明智光秀や豊臣秀吉らが書いた書状など二四の史料について徹底検証する! -
<織田信長と戦国時代>幻に終わった信長のビジョン
天下統一目前に、本能寺で没した織田信長。もし彼が生存し、政府を樹立していたら日本はどう変わったか? 歴史ファンなら誰しも一度は想像をめぐらせた幻の政権構想を、生前の行動から大胆に推測! 日本を飛び越え、世界を見据えた信長のビジョンとは? -
<織田信長と豊臣秀吉>秀吉の人材登用と組織活性化の秘訣
思い切った人材抜擢が、信長を天下の覇者にした。その人材登用を目の当たりにした豊臣秀吉は、それをさらに推進する。「槍働き」中心の「勤務評定」から、新たな評価基準へと踏み込んだ秀吉の、家臣登用と組織活性化の推移を追う。 -
<織田信長と長篠の戦い>再検証 「鉄砲戦術」の有効性
長篠の戦いでの織田信長軍、鉄砲三〇〇〇挺三段打ちの定説は近年、批判的な再検証がなされている。しかし、長篠の戦いにおいて「鉄砲」の意義がまったくなかったわけではない。定説に対する異論をふまえながら、信長「鉄砲戦術」の有効性の再検証を試みる。 -
<織田信長と本能寺の変>生真面目な逆襲
「主殺し」明智光秀。本能寺の変をきっかけとして、狡猾さをもった謀叛人というイメージが先行するようになった光秀だが、実際の明智光秀はどんな人物だったのだろうか。目的なき謀叛に見える本能寺の変の裏にあった光秀の真意とは何か。 -
織田信長の浅井・朝倉殲滅戦
「武」をもって統一を目指す織田信長にとって、旧権力の支配を認めながら自身の支配を拡大していく、浅井・朝倉氏は目障りな存在であった。元亀元年の金ヶ崎の戦いから続く姉川の合戦、一乗谷・小谷城攻略まで、信長対浅井・朝倉氏の全記録。 -
織田信長の上洛戦・桶狭間合戦
快進撃を続ける織田信長だったが、その進軍に不安がないではなかった。上洛時の拙速な動きが、のちの不安材料を残す結果となった、対六角上洛戦。ある代償を支払うことで、乾坤一擲の奇襲作戦をものにした桶狭間合戦。2つの戦いからみた信長軍の強さと脆さ。 -
<加藤清正と戦国時代>愚直一徹の虎 加藤清正
身丈六尺二、三寸、片鎌槍を振り回し戦場を駆けた加藤清正は、賤ヶ岳合戦をはじめとした数々の戦で功を挙げ、秀吉の天下統一に貢献。若くして肥後半国を領する青年大名に駆け上がる! 愚直一徹、秀吉への忠義を貫いた猛将加藤清正の生涯を解説。 -
<家督相続と戦国時代>上杉謙信の死と相続問題
生涯妻を娶らず、側室もいなかった上杉謙信には、実子はなく、四人の養子がいるだけだった。そのため謙信の急死によって家督を巡る相続問題が発生した。他の戦国大名の後継問題を参照しながら、上杉家の相続問題の背景を探る。 -
<川中島の戦い>信玄の不安と謙信の胸中
武田信玄と上杉謙信が、五回に渡って激突した川中島の戦い。戦国時代のハイライトのひとつである一方、結果的にはお互いにとって消耗が多かったのも事実である。名将二人が合戦を続けた理由とは何か? 当時の両将の支配体制を検証し、その謎に迫る! -
「関東・東北連合」を瓦解させた「人たらし秀吉」の神髄
徳川家康、伊達政宗、北条氏政・氏直は、秀吉の天下統一を阻止せんと、「三派連合」とよぶべき、関東大連合体を成立させた。秀吉と互角に戦える同盟だったが、秀吉の「人たらし」はその結束を凌駕するものだった。三派連合対秀吉の全記録。 -
黒田官兵衛、一世一代の大博打「九州の関ヶ原」徳川家康との虚々実々
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い。豊前中津にいた黒田官兵衛は、自身の夢に向かって大博打を打つべく、九州平定を開始した。密かに臨んだ天下取り。しかし、徳川家康の眼は、その魂胆をも見抜いていた。家康と官兵衛、腹の探り合いのエピソード。 -
黒田官兵衛と同じ時代を生き、別々の道を歩んだ「石田三成」と「加藤清正」
「才槌頭の青二才め」「瘡かき頭の老ぼれが」。石田三成と黒田官兵衛。異能の者同士、二人の仲は悪かった。しかし一方、勇猛の将・加藤清正と官兵衛は、互に好意と畏敬を表す関係だった。正反対のベクトルを持った二人の武将と、黒田官兵衛の人間関係。 -
黒田官兵衛に育てられた「後藤又兵衛」
桶狭間の合戦の年に生まれ、戦国最後の戦いで散った生粋の武人、後藤又兵衛。地侍の子として生まれ、黒田官兵衛孝高に養育されることとなった又兵衛は、黒田家出奔を経て、大坂夏の陣での討死にいたる。「槍の又兵衛」の生涯を貫く誇りとは一体何だったのか。 -
黒田官兵衛の軍師としての能力
軍師には一体どんな能力が必要だったのだろうか。戦国武将に読まれた、中国伝来の七つの兵法書『武経七書』を読みこなし、戦国時代流にアレンジを加えた、天才軍師黒田官兵衛。官兵衛の「稀な才能」を分析することで見えてくる、戦国軍師の必須条件とは。 -
黒田官兵衛の臣下 「黒田二十四騎」随一、黒田節のモデル「母里太兵衛」・「豊臣秀頼」天下人の後継者
酒席の歌「黒田節」のモデル、母里太兵衛。名槍を操り、黒田二十四騎として官兵衛に仕えた男の救出作戦にみる、侠気とは。また、天下人秀吉の後継者として溺愛され、温室で育った豊臣秀頼の「かしこさ」とは、何だったのか。二人の真の実力にせまる。 -
黒田官兵衛の素顔
「智謀の策士」という印象の強い軍師黒田官兵衛。実は、その他にも多くの顔を持っていたことは、あまり知られていない。脇に徹し、時に大きく賭ける。戦国の世を泳ぎ切った官兵衛の素顔に、「謀」「脇」「賭」「游」「信」5つの視点から迫る。 -
黒田官兵衛のすごさを知る名将「小早川隆景」
即断の官兵衛と熟慮の隆景。豊臣政権下、その両輪として働いた黒田官兵衛と小早川隆景は、心通ずる仲だった。また、戦の名人であり、似た陰影をその身に宿す二人は、互いの泣き所も見極めていた。官兵衛を語る上で欠かせない人物、小早川隆景のエピソード。 -
黒田家との深い宿縁で結ばれた「後藤又兵衛」
黒田官兵衛の長男、長政の家中精鋭「黒田八虎」。その中に後藤又兵衛基次がいた。深き宿縁で結ばれた黒田家から、又兵衛はなぜ出奔しなければならなかったのか。そしてその後の運命とは。数々の勇猛なる戦いぶりと大言壮語、最後の武人、後藤又兵衛の生涯。 -
軍師黒田官兵衛を知る「戦国大名と法令」
戦国時代における議会や経営戦略会議「衆儀」や「評定」は、戦国大名の家法・分国法に、深く関与するものであった。主君と同等の発言権をもっていた「衆儀」「評定」の場とは、一体どんなものだったのか。『相良氏法度』『六角氏式目』等にみる戦国法令。 -
軍師黒田官兵衛を知る「戦国の“軍師”とは?」
「軍師」とは一体いつの頃からいるのだろう。武将に招かれその吉凶を占っていた陰陽師は、時代を経るなかで多様化し、およそ5つのタイプの「軍師」へと変化した。黒田官兵衛・直江兼続・天海僧正……。戦国を語る上で欠かせない「軍師」の系譜を徹底解剖。 -
軍師黒田官兵衛を知る「戦国武将と軍配者」
占い・祈祷をおこない、当主から軍配をあずけられた呪術者たちは、しだいにその姿を変え、軍事作戦にも進言し、武将に召し抱えられていく。生死のかかった戦国期、マジカルな習慣を信じる戦国武将たちに寄りそった、軍配者という仕事の変遷をたどる。