岡本太郎のレビュー一覧
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『今日の芸術』から読んだほうが理解度が上がると思いますが、別に読んでなくても問題ないです。こちらもベースになるのが芸術の”いやったらしさ”のすばらしさについて。タロウの言う”いやったらしさ”とは?!?!きっと巨匠本人ですら適切な日本語がない故にややこしことになっているんでしょうが、ともかく適切な言語や適切なデフェニションがないのでどうしようもないですが、個人的に無理クリに理解するところは、魂が激震するような憧憬嫉妬、ともかく「いやったらしい」んですねぇ、どうしようもないです。本書では縄文土器、光琳、中世の庭について語られます。同じものについて考察するのにもこのアングルの違いってほんまにおもろいですねぇ。賛同するところもあり、全く異なる意見もあり、タロウ氏が今、このころの感性を維持したまま2017年現在のデジタル芸術を見たらどう語るか、という想像をしてしまう。
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Posted by ブクログ
・沖縄の古典舞踊は、べた褒め。日本舞踊や歌舞伎をお座敷芸の影響を濃く受けてゆがんで発達したと批判的。
・入浴文化論。日本人が大の入浴好きなのは、身体をきれいに保つという実用的な意味だけではなく、多分に精神的でマジナイ的。毎日ミソギをやっているのだ。というのは面白い。
・久高島の風葬。
沖縄には日本の原始宗教、古神道に近い信仰が未だに生きている。のろは、その神秘的な女性の司祭、つまりシャーマンである。古い時代、沖縄では神と交わるのは女だけの資格であり、直接神事に関する一切は男はタブーだった。
すぶのシロウトにも子供にだってグンと訴えかけてくるようなものでなくちゃ仕様がない。(136頁)
身を守る最低の手段として、美しさ、みえなど考えてもいないのに、結果は偶然に美しいのだ。(65頁)
文化とは何だろう。土地の風土によって、、根をはったものが本当だと考える。その土地を耕すことによって生成するもの。その土壌とは、民衆の生活以外にはない。、、やがて貴族や特権層によって、形式の洗練をほどこされ、余剰の富と力の象徴、虚飾的な美となる。いわゆる高度な文化を誇ることになるわけである。(203頁)
・ひめゆりの塔〜異様な記念塔が構えている。デカデカと相当の金をかけたものばかりだ。ああ、ここに代表された無神経日本。聞けば地方選を控えて、昨年後半あたりにぞくぞくと建ちだしたのだという。(225) -
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ネタバレ岡本太郎の著作を5つのテーマに編集した著作集の第一部。テーマは対極と爆発だ。芸術はどうあるべきか、彼の芸術家としての立場はどのようなものか、芸術に対してどのような心構えや想いで望むか、そういったことについて綴られている。対極という考え方は、青年期から10年あまり過ごしたパリで生まれた。当時、アブストラクトアートとシュールレアリスムがパリの画壇でもてはやされていた。これらの絵はそれぞれ抽象と具体を突き詰めていったもので、芸術史上まさに対極に位置する。この相反する立場を、弁証法的に捉え直したのが、岡本太郎の対極主義だ。しかし、ただ合わせるのではない。片方に極端にかけることによって、はじめて激しいぶつかりが生まれ、新しいものが生み出されると太郎は言う。彼の爆発の概念は、戦後生まれたようだ。日本人は原爆を落とされた被害者だという認識が、彼には強い。その主体者意識が大事だと言う。ごっそり、えぐりとられたあの瞬間を問い、考える。そして、新しい日本を作る意志と情熱の中にあの瞬間が爆発し続けなければならないと述べる。この爆発は生き方ひいては芸術のあり方について突いている。芸術は爆発だという言葉は有名だが、岡本太郎は対極にかけることを通して生命を爆発させるような生き方をしたのだ。
なにかにかける、その瞬間に、私は二の足を踏みがちだ。仕事を引き受けること、他人に関わること、日常の些事のなかにも小さな選択がある。これをしたらどうなるだろうと、リスクが頭をよぎり思考停止状態に陥る。そして、そのことは後回しにし、そのまま日常の中で忙殺され、いつしかそんなアイディアがあったことすら忘れてしまう。たしかに、岡本太郎の生き方には憧れる。だが、その方向に進むのは怖い。彼のような生き方をしようとしても、できる自信がない。果たして、この怯えはどこから来るのだろうか。方や、岡本太郎は、ダメでいいと開き直っている。この開き直りはどこからくるのか。上手い必要はない、美しくあればいいと芸術論の中で彼は言っている。当時ではへっぽこ絵描きと見なされていたセザンヌを例に出し、絵画の歴史は職人的な技巧を極めることを志向するところから、たとえ下手であっても芸術的な感性やセンスがあればいいという時代に入ったと言っている。会社人間という言葉に象徴されるように、仕事もその組織で評価される技巧を極めることが求められたりする。そして、それが巧くできない人は使えないと言われ、白眼視される。しかし、実は芸術も仕事も同じではないか。経済が行き詰まり創造性が求められる時代に、巧くある必要があるのか。むしろ、美しくあることの方が大事だ。美しさは新しさであり、人間性に根付くものだ。人間性に根付くものは普遍性がある。そこから出てくるものは、人の心を打つ。巧く生きる必要はない、美しく生きればいいのだ。
ところで、美しさという時に第一に思い起こすのは、容姿の美しさだ。百田直樹さんがモンスターという小説で美を追求する女性を描いたが、現代は美に対する執着が強い。人は見た目が9割という人もいる。しかし、ここで言われている美しさは、その時代が決定した基準をもとに言われている。自分自身もその美しさを目指して、髪型を整えたり、洋服を買ったりしている。これは、岡本太郎の言う、上手に書こうという意識と共通するものがある。どちらも、他人の期待に応えようという意思が働いている。本当の美しさは整えら形作られたものではなく、うちから溢れだすものだ。
しかし、どうしてうまくあろうという思い込みがあるのだろうか。これは、他人の期待に応えようという刷り込みだと思う。たとえば、学校教育の中で、与えられた課題を忠実にこなす訓練をするうちに、それが思考の習性になってしまったのだ。問題意識を持ち、自分の頭で考えることが足りない。容姿もモデルや俳優の綺麗さやかっこよさが流行りになり、人々はそれを追いかける。作られた基準、答えに正確に答えることが正しいとされる。模倣能力が価値とされているのだ。
しかし、
この行き詰まりを見せる社会で、大事なのは個々の創造性だ。そして、創造的に生きている人は、美しい。創造的に生きるということは、伝統と対決し、新しさを作るということだ。だから、美しさは、実は思考能力と表裏一体の関係にあるのではないだろうか。課題を見つけ、本質を見極め、自分の考えを持つという、小さい頃には誰しも持っていた素直な感覚も持つべきだ。ただ、子供が手にしている保証された自由と、大人が手に入れるべき獲得くる自由は違う。 -
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芸術家岡本太郎が、何をどう見るか?ということは、興味ふかい。
岡本太郎の三原則がある。①芸術は、きれいであってはいけない。②うまくあってはいけない。③心地よくあってはいけない。
岡本太郎は、芸術において、美しいということを拒絶する。心を動かすような激しい芸術を求めている。芸術は、あくまでも人の魂を激しく揺さぶるものである。どれだけ強烈に、毒のような刺激を与えるのか?
岡本太郎は、パリのソルボンヌ大学で、フランス民族学の父とも称されるマルセル・モースのところで民族学を修めている。それは、アフリカの民族の原始美術が、衝撃を与えたからだ。岡本太郎の三原則に当てはまっていた。アフリカでなぜ?が岡本太郎の疑問だった。「抽象と具象がぶつかり合い、引き裂かれたところに人間の本当の存在がある」と思った岡本太郎の想いがアフリカの原始美術の中にあったのだ。
そして、東京国立博物館で縄文土器を見たときに、またしても衝撃を受けるのだった。縄文火炎型土器の造形美、四次元的な空間性にある世界観が原始美術の中にあったことだった。それは、火炎型でありながら、深海をイメージさせるものと岡本太郎は思った。縄文文化のすごさを認めたのは、岡本太郎であり、自らのアートに縄文文化を取り入れて、蘇生させた。
「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線文、これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感、しかも純粋に透った神経の鋭さ、常々芸術の本質として超自然的激越を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである」
その岡本太郎が、日本復帰前の沖縄に行って、またしても衝撃を受けるのだった。
その衝撃を表現したのが、本書『沖縄文化論』である。
「私を最も感動させたものは、意外にも、まったく何の実体も持っていない―といって差支えない、御嶽だった。御嶽―つまり神の降る聖所である。この神聖な地域は、礼拝所も建っていなければ、神体も偶像も何もない。森の中のちょっとした、何でもない空地。そこに、うっかりすると見過してしまう粗末な小さい四角の切石が置いてあるだけ。その何にもないということの素晴らしさに私は驚嘆した」と岡本太郎は書く。
『何もない』という空間が、御嶽だった。表現者である岡本太郎の存在さえも脅かす。沖縄の文化はそこから始まっているのだ。ゼロを発見したインドの人のように、祈りの表現としての『空』を岡本太郎は発見したのだ。
「沖縄の御嶽でつき動かされた感動はまったく異質だ。何度も言うように、なに1つ、もの、形としてこちらを圧してくるものはないのだ。清潔で、無条件である。だから逆にこちらから全霊をもって見えない世界によびかける。神聖感はひどく身近に、強烈だ。生きている実感、と同時にメタフィジックな感動である。静かな恍惚感として、それは肌にしみとおる」
沖縄文化論を通じて、岡本太郎は言う、日本は沖縄に返還されるべきだと。
沖縄の生活の中に美を見出し、踊り、紅型の色彩などに惹かれる岡本太郎。芸術を受け入れることは、根元に立ち向かうしかないのかもしれない。