遠藤周作のレビュー一覧

  • 十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。

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    ヒョンなことから何冊か読んでる遠藤周作、面白いんだよなぁ。みんな読めばいいのに。
    この本に関して言えば,今言われてるようなことって大体何十年も前から言われてるんだなぁ,なんてことをフレーズに引用した。

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    2018年12月26日
  • 眠れぬ夜に読む本

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    『沈黙』を読んで次に何を読もうかと物色していた時にこの本に出会った。
    タイトルがいい。
    しかし、内容の時代感、遠藤周作自身の価値観が思いの外軽くていい。
    特に非合理的なものに惹かれるという話と準備をしなければ遊びにならないという話は好きな話だ。

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    2018年12月09日
  • さらば、夏の光よ

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    遠藤周作に限らず、例えば井上靖にも共通して感じるところですが、こういう恋愛小説を書かせると途端に時代を感じさせるというか、多分将来読まれないと推察される作品になってしまう良い作家が結構いるというのは結構興味深い現象だと当方思っております。
    悪くないんですけどね、でも深くないんですよね、正直。そういう意味でこの手のジャンルがその後に深掘りされていると言えるのかもしれず。

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    2018年11月24日
  • 王妃マリー・アントワネット(上)

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    王妃マリー・アントワネットの華やかで孤独な宮廷での生活が、マルグリットという架空の最下層の娘の暮らしと対比されます。ノストラダムスやサド侯爵など同時代の有名人もたくさん出てきます。

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    2018年11月07日
  • 聖書のなかの女性たち

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    宗教に生きるってどんな感じなんだろう?
    ほんの少しだけ垣間見ることができるエッセイかな。
    ともかく色んな教養が無いと内容が理解し切れないことだけはよく分かりました。

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    2018年10月13日
  • 父親

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    まぁ普通の小説と言いますか何と言いますか。
    当方の勝手な感想ですが、この作家は分かりやすい構図を好んでいるようです。そこは全く問題ないけれども、そこから如何に曖昧さを描きこむかがその小説の質に繋がるんだと思います。残念ながら、本作は分かりやすいままに終始しているかなぁ。
    世代の感覚の違い、それは間違いなくあるんでしょうが、そこで留まっているだけではなぁ、、、

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    2018年09月30日
  • 死について考える

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    もう少しで還暦を迎える身となり、そして亡くなった友人の噂を聞くたびに自らの死を考えるようになりました。私は、死は全てを無に帰すものだと考えていますが、著者が書いているように大事な人や愛した人愛してくれた人が待ってくれている世界があるかもしれないと考えると漠然とした恐怖が少し和らいだ気がします。

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    2018年09月30日
  • 妖女のごとく

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    こういう作品も書くのか、というのが第一印象。あまり好意的でない感想ではありますが。
    簡易な設定と言って差し支えないでしょうが、まぁ時代ということかと。その意味で読み継がれる作品では決してないと断言可能かと思われ。

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    2018年09月21日
  • キリストの誕生

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    ネタバレ

     イエスの生涯の続編とでも言おうか、キリストの誕生という本書。単純に、何が違うのかと思ったが、読み進めるに従い、きちんと、イエスとキリストを使い分けて題名にしていたことに気付いた。

     いわずもがなだが、イエスは個人のことで、キリストは救世主という意味で使っている。本書は、イエスが十字架にかかって後、キリスト教が起こるまで、どのような騒乱などがあったか、ということだ。単純に、イエスが死んで直ぐにキリスト教が起こったわけではなく、既存宗教であるユダヤ教との確執など、大きな動乱があったことは思い浮かぶ。

     さて、イエスは死の直前、「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」という言葉を叫んでいるが、特に、ここの部分は、イエスといえども神に絶望したのか、と早合点してしまいがちだ。しかし、この解釈は、当時のユダヤ人の習慣を知らないために生まれたものであると著者は言う。この言葉は、詩篇二十二篇の「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」の悲しみの訴えであるが、詩篇を読んだ人は、この悲しみの訴えがやがて「我は汝のみ名を告げ、人々のなかで汝をほめたたえん」の神の賛歌に転調していくことを知っている。この言葉は、決して絶望の言葉ではなく、神を讃美する歌の冒頭部なのだ。事実、ルカの福音書によると、イエスがこの言葉の後しばらくして、「主よ、わが魂をみ手に委ねたてまつる」という詩篇三十一篇の祈りを口にして息を引き取るが、それはイエスが「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」から始まり、
    われ わが魂をみ手に委ねたてまつる
    主よ まことの神よ
    汝は我をあがなわれたり
    の三十一篇の祈りまでを苦しい息の中で祈っていたことをはっきり示しているのだ。つまり、十字架上で人々に語りかける力を失ってからもイエスは朦朧とした意識のなかで詩篇の1つ1つの祈りを唱えていたのであろう。

     生前のイエスは、ユダヤ教徒としても恥ずかしからぬ日常生活を守ったが、心のこもらぬ宗教規範や、義務だけのための宗教生活を重視しなかった。イエスはそうした形骸化したものよりも、人間の哀しみと愛だけに最も価値を置いた。「人が安息日のためにあるのではない。安息日は人のためにあるのだ」という言葉や「人の作った神殿の代わりに、私は三日のうちに別の神殿を建てるだろう」という発言は、彼がユダヤ教徒が何よりも大事にした律法やエルサレム神殿を人間の哀しみや愛よりも問題にしなかったことを示している。にもかかわらず、初期の使徒たちは、イエスを次第に人間以上のキリストとして崇めながらも、相変わらず、律法や神殿を重視する生活を続けていた。イエスの従兄弟ヤコブは敬虔なユダヤ教徒だったからこれらの二つを冒瀆するなど夢にも考えなかったろうし、慎重なペトロは、イエスの精神をしっていながら、表向き神殿と律法を尊重する態度を見せた。そこにステファノを中心とする「ギリシャ語を話すユダヤ人たち」がこうした使徒たちに不満を持ったとしても不思議ではない。ステファノたちはイエスをユダヤ教のすばらしい改革者だと考えていた。イエスはエルサレム神殿も律法も愛よりは低いことを人生をかけて教えたからだ。そのイエスの改革の精神は使徒たちに受け継がれていない。更にこの「ギリシャ語を話すユダヤ人たち」はかつて異邦人、つまり、ユダヤ教ではない外国人とも多く接触していたから使徒たちのように閉鎖的ではなかった。しかし使徒達はユダヤ教の枠の中で異邦人を仲間に使用とは夢にも考えなかった。ステファノたちはこのへんに不満を持ったのだろう。ステファノはこれらの使徒達と袂を分かち、独自にイエスの教えを伝え、広めていこうとするが、当然にして迫害に遭う。迫害の代表的な者はソウロという者だ。キリストの教えに同調する信徒たちは逃亡し、ステファノは石打ち刑にあう。しかし、信徒はこの迫害や逃亡によって、くじけるどころか、逆にその信念を強固にしていった。迫害によって、かえってイエスをキリストと頼む気持ちとイエスの再臨を信じる心は深くなっていた。

     ソウロは、信徒が迫害の苦しみに耐えてまで、なぜイエスの再臨を待っているのか、なぜ、彼らは神殿を否定しながら生き生きとした信仰をもっているのか、考えさせられたのは当然であろう。ソウロから見ると、彼らはイエスと呼ぶくだらぬ男をキリストと仰ぎ、その再臨を信じているのだ。

     我々日本人には理解しがたいが、当時、ユダヤ人の六百十三の律法のなかで最もきびしく守らねばならないのが、割礼と安息日の二つであった。割礼をユダヤ人たちはたんなる民族的風習とは決して考えていなかった。それは彼らの祖先に神が教えた神聖な契約の徴だった。割礼を行うのは神に選ばれた証明であり、神の民となった記号でもあったのだ。
     神はアブラハムに言われた。「男子は皆、割礼を受けねばならぬ。これは私とお前たち、及び後の子孫との契約であって、お前たちが守るべきことなのである」(創世記 十七の9~10)
    「割礼を受けぬ男子、すなわち前の皮を切らぬ者は私との契約を破るゆえ、民のうちから断たれるだろう」(創世記 十七の十四)
     この神の契約の徴をユダヤ人たちは行う。だが、異邦人たちは行わない。異邦人とはユダヤ人にとって割礼-神との契約をむすんでいない人間達のことなのだ。

     割礼と共に彼らが重視したのは安息日の厳守である。安息日とは週に一度、我々の暦の金曜の夕方から始まり、土曜の夕方に終わる。この間は今日でもエルサレムの店は閉じ、ホテルでさえ飲酒、喫煙は旅行者に許されぬ時もある。イエスの時代は更に厳格であり、エッセネ派では安息日に信者が排泄することも許されなかった。ラビ(教師)たちはさまざまの不可解な禁止事項を作ったが、たとえばその中にはランプを消すこと、綱を結び解くこと、二つの文字を書くことも許さぬというような常識を超えた項目さえある。我々には滑稽で不可解なこれらの禁止事項は、しかし安息日の神聖をあくまで貫こうとする信念から生まれたと考えれば、理解することができる。割礼も安息日もその根底には選ばれた民がユダヤ教の純粋を徹底的に保持しようとする意志のあらわれなのだ。それは観念などではない、血肉化された彼らの歴史であり、現実であった。割礼を行わざる異邦人を仲間にすること、それは、ユダヤ人たちにとって歴史を冒瀆することであり、神の神聖を犯すことであり、自分たちを裏切る行為だった。彼らはユダヤ教の会堂に異邦人が話を聞きに来ることは拒まなかったが、自分たちの共同体に入れることは拒んだ。もしそれに加わる意志があれば、割礼と安息日の義務を厳しく要求した。

     安息日と割礼の重要性。これを無視して我々は聖書をそのまま読むことは出来ない。あるいは、使徒行伝を軽々しく読むことも出来ない。たとえばイエスが「人は安息日のためにあるに非ず、安息日こそ人のためにあるなり」と発言したとき、それはたんに人間性の重視などという単純な問題ではなく、ユダヤ教が守った神聖に対して、愛の神聖さで挑んだ危険きわまる発言だったのだ。同時にまた、初期のキリスト教徒が異邦人に布教を試みるとき、いかに烈しい抵抗とためらいが教団の中でもあったかを考えねばならぬ。後世、キリスト教は、異民族に布教する時、その異民族の信仰と対立せねばならなかったが、イエスの死後十四年、原始キリスト教団がその母体であるユダヤ教を超えるためには、この割礼の障壁を破らねばならなかった。

     ただ一つの神以外のいかなうものをも信仰することを厳しく禁じたこのユダヤで、一人の男が神格化されることはほとんど不可能に近い。モーゼやダビデも神格化されなかった。なぜ、イエスだけがキリストに高められたのか。それを高めたのは弟子達と原始キリスト教団との信仰である。彼らの意志によってイエスは人間を超えた存在に神格化されていった。イエスは人の子といわれ、神の子となり、メシヤと呼ばれ、キリストになった。

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    2018年09月18日
  • 母なるもの

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    作者の信仰感を垣間見るような短編集。多くの作品で過去と現在を対比させながら展開する構成を採っており好ましく感じた。自分の母親を想わずにはいられない「母なるもの」、執筆当時でまだキリスト教が侮蔑されていたという驚くべき事実の「小さな町にて」、4人の留学生の紀行に興味を覚える「学生」、キリストの最後の地を訪れるまさに聖地巡礼「ガリラヤの春」、矢代という主人公に作者のある意味歪んだ考えを語らせている「巡礼」、幕府に屈して転ぶ伝道師とその召使いの強い宗教意識と過酷な運命「召使いたち」、小鳥と宗教の不思議な因縁「犀鳥」、ローマ法王謁見の機会に考える、見ないでも信ずることを諭す「指」。
    キリスト教のみならず宗教観について考えさせられる機会となった。
    安っぽい、下手ななど乱暴な意見が気になったが、そこは本音で書かれている内容なのかと理解しておいた。

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    2018年09月10日
  • ぐうたら社会学

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    狐狸庵先生のエッセイは昔は大好きだった気がするのだが、今読み返してみると、それほど面白いものではないなぁ。まあ、「手軽な批評」は『酔談』の中でも厳に戒められているところなので、控えておこう。

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    2018年09月09日
  • ぐうたら社会学

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    遠藤周作の「ぐうたら」ものは初めてだったが、「クスリ」「ウフフ」となってしまう話がたくさんあった。ただし「主婦と生活」寄稿の一連の「女」論に関していえば、ムカついてばかりだった。当時のユーモアなのだろうが、現代では「アウト」!遠藤氏には「ムキニナルなよ〜」とか言われそうだが。

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    2018年09月06日
  • 眠れぬ夜に読む本

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    これまた可もなく不可もなく、ただ現在なら炎上モノの内容多々ありのエッセイであります。ただエッセイって作家の本性を露わにするものとも言い切れないのかもしれませんなぁ。『沈黙』の作家だと言ってもピンと来ないですもの。

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    2018年08月29日
  • 死海のほとり

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    ネタバレ

     著者のイエスの生涯もよかったが、本書も良書である。
    イエスを主役とするイエスの時代の物語と、著者が現地で感じたことについて対談形式で進む物語と、章立てが交互に進んでいく。

     旅の中で、著者はイエスの時代に起こったことが聖書に書かれているが、それが本当にあったことなのか、それとも現実ではないのか、など友人に語りかけたりしているが、それは、著書”イエスの生涯”における、事実と真実という書き方に置き換わるのだろう。

     本書を読みながら、前に読んだ(見た)三浦綾子氏の”イエス・キリストの生涯”の美術画を片手に読み進めると、なおよいと思う。

     『神よ、なぜ、私を見棄てられました』と十字架の上で声をあげるが、それがなぜだったのか、まだ私にはわからない。色々、まだ読んでみようと思う。

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    2018年03月29日
  • 何でもない話

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    『沈黙』があまりに素晴らしかったので遠藤さんの他の作品を読んでみたくて中古本を買ってみたけどこっちはあんまり…。テーマが被るような話もあったり。
    一番よかったのは、短編『爪のない男』。
    話に無駄がなくて、小気味良いホラー。好き。

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    2018年03月14日
  • 王妃マリー・アントワネット(下)

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    パリ行きの飛行機の中で何とか読み終わりました。
    彼女に関してはいろいろ逸話がありますが、こちらは良い人に描かれています。
    時代背景も興味深く、生まれたときから運命づけられたかのような翻弄された人生は切ない気持ちになりました。
    個人的にはこの本の通り、魅力的な人だったんだろうなと思います。

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    2018年01月20日
  • それ行け狐狸庵

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    氏の好奇心旺盛な一面を存分に味わえる書。現代の視点からすると、前時代的な印象を持つ箇所もなくはないが、昭和のよき時代の側面と捉えればそれでよいのかもしれない。

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    2018年01月05日
  • 王妃マリー・アントワネット(上)

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    フランス革命に消えたフランス・ブルボン家の女王マリー・アントワネットを描く物語。マリー・アントワネットがオーストリアからフランスへと嫁ぐ場面から始まる。そしてそれを恨めし気に眺める、パン屋の奉公少女マルグレット。この2人を軸にストーリーが展開してゆく。
    マリー・アントワネットは、まだあどけない少女ながら宮廷政治に大きな影響を持つ立場となり優雅な暮らしながら自由も何もない。時には孤独を感じることも。ルイ15世の愛人デュバリー夫人との対立など、トラブルも起こす。
    マルグレットは、パリに出てきたものの、娼婦となりその日暮らし。自らの世話をしてくれた兔のおばさんの逮捕をきっかけに、王家や貴族への恨みをますます深いものにしてゆく。物語のアクセントの存在として、サド侯爵がいる。遠藤周作の『留学』という短編集におさめられた、「汝も、また」という短編はサド研究者の話であった。サド伯爵が破廉恥罪で投獄されたり、活躍(?)したのはこの時代だった。

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    2018年01月05日
  • キリストの誕生

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    見捨てたイエスが処刑されるも弟子達を許してくれとかいってるし、すごく悪いことをしたなぁと。これはきちんと考えなきゃいけないぞと弟子達は恥じ、悔しく思った。誤解していた師を再発見したことで、イエスは人の中に復活した。こうして徹底的に考えたものがのちのキリスト教の母体となる。けどユダヤ教の枠を出ず、そのためか異教であるとはみなされずに容認されていた。けどちょっとずつユダヤ教に疲れた人たちにキリストが広まっていったので、あるとき弾圧されたもんだから逆にエネルギーが強まり、キリスト布教活動が本格化する。けどその後グループに亀裂が入る。異邦人相手に布教してもいいんじゃないかという派閥と、異邦人はやめようぜという慎重派。推進派のステファノが神殿よりも愛でしょっていったイエスに倣って、ユダヤ教が崇拝する神殿否定を行なったためにボコボコに殺される。殺しに参加したのがのちに出てくるボーロ。離散派とエルサレム残留派に完全に分かれていくが、離散派はどんどんユダヤ教以外の異邦人に浸透していく。その離散派にことごとく影響を受けたのがボーロ。彼はステファノ殺しに参加したが、それら はユダヤ教が重んじる律法主義に限界を感じでいたから、それを戒めるためにステファノに石打を食らわせたのだった。イエスか律法かと問われたかれはついに改宗し、異邦人布教活動の急先鋒となる。

    その頃エルサレムでは事件が。暴君カリグラが即位し、自分を神として礼拝しろと言ってきた。もちろん反対したユダヤ人がカリグラの銅像を壊したところ、カリグラは軍隊を派遣しユダヤ人殲滅に動き始めた。世の終わりに近い終末観の中で、キリスト教は多くの改宗者を獲得していく。キリスは見捨てないと。カリグラ暗殺など諸所ありユダヤ教は難を逃れる。

    なぜ、エルサレムの慎重派やユダヤ教が異邦人嫌うかというと、ユダヤ人は律法に定められている割礼と休息日を守っているから。それによって神に選ばれたものだと信じているから。それをしない異邦人は受け入れられない。それでも異邦人布教を続ける離散派にとのあいだに、とうとう会議が開かれることになった。これがエルサレム会議。離散派急先鋒のボーロは、かつてユダヤ教信者であったゆえにユダヤ教の律法の限界を考え抜いた末に感じていた。律法の限界とはつまり「私の欲している善はしないで、欲していない悪を行なっているのだ」とのこと。キリスト以前のイエスに焦点をあてていたエルサレム慎重派(弟子派)と、イエスではなくキリストとしての復活に興味があるボーロ。ボーロは律法の限界から人間を解放してくれ、神は人間とを和解するものとしてキリストを地上に送った。罪もない彼を人間の身代わりとし、人間の全ての罪を彼に負わせ、死を与えることで、救いの道を開かせた。ユダヤ教の枠を超えて布教しようとしたのだ。かたや弟子派も、そもそもユダヤ教から改宗したものも多い。それはそもそもユダヤ教は異民族に国土を蹂躙されてきた歴史があり、そのため常に異邦人を意識しなければならず、改宗したのもキリストこそがそのユダヤ人の苦しみを理解してくと信じだからであった。会議の結果、妥協点として異邦人達がいくつかの条件付きなら教団に入れようと決着した。

    その後外で布教を続けたボーロも弟子派のいるエルサレムも滅亡するが、外に布教活動を続けた結果、西アジアやギリシャ、ローマ帝国の各地へ広がっていき、信仰は守られ続けていると。

    成り立ち、仕組みが手に取るようにわかった。神の沈黙への課題はそれぞれどう昇華しているのかわからん。昨日飲んだ中山さんがクリスチャンだったのは驚いたけど酒の席とはいえこの手の話はご法度なので、わきまえて調べていきたい。

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    2017年12月27日
  • 反逆(下)

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    ネタバレ

    光秀の信長への複雑な思いを、自分が疎かにされてきた恨みだけでなく、世を正す義憤のみでなく、また美学でもなく、“恋する男の歓心を獲た女心に似て”いるものとして描いたのは、他作品と違っていて面白い。
    小説としては秀吉の天下統一の喜悦にあふれた場面で終わるが、主題としてはやはり人間の弱さを描くことであったと思う。歴史小説というよりは「遠藤周作の小説」だなあという印象。

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    2017年07月07日