遠藤周作のレビュー一覧
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ネタバレ著者のイエスの生涯もよかったが、本書も良書である。
イエスを主役とするイエスの時代の物語と、著者が現地で感じたことについて対談形式で進む物語と、章立てが交互に進んでいく。
旅の中で、著者はイエスの時代に起こったことが聖書に書かれているが、それが本当にあったことなのか、それとも現実ではないのか、など友人に語りかけたりしているが、それは、著書”イエスの生涯”における、事実と真実という書き方に置き換わるのだろう。
本書を読みながら、前に読んだ(見た)三浦綾子氏の”イエス・キリストの生涯”の美術画を片手に読み進めると、なおよいと思う。
『神よ、なぜ、私を見棄てられました』と十字架の上で声をあげるが、それがなぜだったのか、まだ私にはわからない。色々、まだ読んでみようと思う。 -
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フランス革命に消えたフランス・ブルボン家の女王マリー・アントワネットを描く物語。マリー・アントワネットがオーストリアからフランスへと嫁ぐ場面から始まる。そしてそれを恨めし気に眺める、パン屋の奉公少女マルグレット。この2人を軸にストーリーが展開してゆく。
マリー・アントワネットは、まだあどけない少女ながら宮廷政治に大きな影響を持つ立場となり優雅な暮らしながら自由も何もない。時には孤独を感じることも。ルイ15世の愛人デュバリー夫人との対立など、トラブルも起こす。
マルグレットは、パリに出てきたものの、娼婦となりその日暮らし。自らの世話をしてくれた兔のおばさんの逮捕をきっかけに、王家や貴族への恨みをますます深いものにしてゆく。物語のアクセントの存在として、サド侯爵がいる。遠藤周作の『留学』という短編集におさめられた、「汝も、また」という短編はサド研究者の話であった。サド伯爵が破廉恥罪で投獄されたり、活躍(?)したのはこの時代だった。 -
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見捨てたイエスが処刑されるも弟子達を許してくれとかいってるし、すごく悪いことをしたなぁと。これはきちんと考えなきゃいけないぞと弟子達は恥じ、悔しく思った。誤解していた師を再発見したことで、イエスは人の中に復活した。こうして徹底的に考えたものがのちのキリスト教の母体となる。けどユダヤ教の枠を出ず、そのためか異教であるとはみなされずに容認されていた。けどちょっとずつユダヤ教に疲れた人たちにキリストが広まっていったので、あるとき弾圧されたもんだから逆にエネルギーが強まり、キリスト布教活動が本格化する。けどその後グループに亀裂が入る。異邦人相手に布教してもいいんじゃないかという派閥と、異邦人はやめようぜという慎重派。推進派のステファノが神殿よりも愛でしょっていったイエスに倣って、ユダヤ教が崇拝する神殿否定を行なったためにボコボコに殺される。殺しに参加したのがのちに出てくるボーロ。離散派とエルサレム残留派に完全に分かれていくが、離散派はどんどんユダヤ教以外の異邦人に浸透していく。その離散派にことごとく影響を受けたのがボーロ。彼はステファノ殺しに参加したが、それら はユダヤ教が重んじる律法主義に限界を感じでいたから、それを戒めるためにステファノに石打を食らわせたのだった。イエスか律法かと問われたかれはついに改宗し、異邦人布教活動の急先鋒となる。
その頃エルサレムでは事件が。暴君カリグラが即位し、自分を神として礼拝しろと言ってきた。もちろん反対したユダヤ人がカリグラの銅像を壊したところ、カリグラは軍隊を派遣しユダヤ人殲滅に動き始めた。世の終わりに近い終末観の中で、キリスト教は多くの改宗者を獲得していく。キリスは見捨てないと。カリグラ暗殺など諸所ありユダヤ教は難を逃れる。
なぜ、エルサレムの慎重派やユダヤ教が異邦人嫌うかというと、ユダヤ人は律法に定められている割礼と休息日を守っているから。それによって神に選ばれたものだと信じているから。それをしない異邦人は受け入れられない。それでも異邦人布教を続ける離散派にとのあいだに、とうとう会議が開かれることになった。これがエルサレム会議。離散派急先鋒のボーロは、かつてユダヤ教信者であったゆえにユダヤ教の律法の限界を考え抜いた末に感じていた。律法の限界とはつまり「私の欲している善はしないで、欲していない悪を行なっているのだ」とのこと。キリスト以前のイエスに焦点をあてていたエルサレム慎重派(弟子派)と、イエスではなくキリストとしての復活に興味があるボーロ。ボーロは律法の限界から人間を解放してくれ、神は人間とを和解するものとしてキリストを地上に送った。罪もない彼を人間の身代わりとし、人間の全ての罪を彼に負わせ、死を与えることで、救いの道を開かせた。ユダヤ教の枠を超えて布教しようとしたのだ。かたや弟子派も、そもそもユダヤ教から改宗したものも多い。それはそもそもユダヤ教は異民族に国土を蹂躙されてきた歴史があり、そのため常に異邦人を意識しなければならず、改宗したのもキリストこそがそのユダヤ人の苦しみを理解してくと信じだからであった。会議の結果、妥協点として異邦人達がいくつかの条件付きなら教団に入れようと決着した。
その後外で布教を続けたボーロも弟子派のいるエルサレムも滅亡するが、外に布教活動を続けた結果、西アジアやギリシャ、ローマ帝国の各地へ広がっていき、信仰は守られ続けていると。
成り立ち、仕組みが手に取るようにわかった。神の沈黙への課題はそれぞれどう昇華しているのかわからん。昨日飲んだ中山さんがクリスチャンだったのは驚いたけど酒の席とはいえこの手の話はご法度なので、わきまえて調べていきたい。 -
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テーマは日本と海外におけるキリスト教の違い。キリストの存否である。\n鎖国、切支丹弾圧下にある日本での布教を行う司祭を描いている。\n描写が繊細で情景が目前に現れるようだった。\nまた、弾圧におけるエグさをただただ血生臭い描写で感じさせるのではなく、拷問される切支丹の切迫とそれを行う奉行所の人間の平穏とで対比することにより、相対的にエグさを描写していた。\nこの小説の中ではキリストの存否を取り扱っていた。島原の乱以降、切支丹に対して非道な弾圧を行う幕府がある中で、それでも神は沈黙を守るということに対する絶望があった。\n現代でも同じ神を崇める同じ信徒が殺しあっている。イスラム教徒のテロがそうである。無宗教が根底にある日本人の感覚では神のために死ぬことや神のために殺すことは到底理解出来ない。しかし、現実世界はそれらが数多ある。この小説はその理解の手がかりになると考える。この中の登場人物はまさにそれらを実行しているのだから。
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ネタバレ今度、東南アジアのタイへ行くのでタイを舞台にした本ということで読んだ。
主人公は山田長政という実在の人物。
江戸時代初期に日本からタイ(当時はアユタヤ朝)へ渡り、日本人傭兵として王室に仕え、権謀術数渦巻く中、将軍まで登りつめた男の出世物語。
と同時に、ヨーロッパへ渡りキリスト教神父になったペドロ岐部(実在)という無私無欲の人物の目を通して、山田長政やタイ王室の権力争いを見ることで、「山田長政の成り上がりストーリー」というよりも、「権力を求めることの虚しさ」の方が、読者には強く伝わってくる。
小説自体はそんなに面白いとは思わなかったけど、タイへ行った時、400年前にタイで活躍した日本人がいたんだ、と思い感慨にふけることができると思うので、読んでおいて良かった。