宮城谷昌光のレビュー一覧

  • 重耳(中)

    Posted by ブクログ

    重耳の徳の行く末を、、期待。古代中国は本当に徳の高い人がたくさん出てくる。今の中国と照らし合わせて、極めて不思議。

    0
    2012年12月02日
  • 香乱記(三)

    Posted by ブクログ

    いよいよ楚漢戦争に田横も巻き込まれていく。
    楚漢戦争を別の視点から見てみると違う中国史が見えてきて面白くなってきた。

    0
    2012年11月29日
  • 重耳(上)

    Posted by ブクログ

    この時代の中華はちゃんと理解してないので、とても新鮮。今の中国人からは想像しづらいけど、当時から「徳」の高い人がたまに出てくるんですね。その辺りは人智を超えてる感じがしますね。

    0
    2012年11月28日
  • 新三河物語(下)

    Posted by ブクログ

    家康は天下人に上り詰めていく。大久保一族と家康配下の武将たちとの争いが描かれている。
    家康をずっと支えてきた大久保一族への仕打ちが非常に哀しい。信康を失った悲しみがあるのかもしれないが。

    0
    2012年11月03日
  • 新三河物語(中)

    Posted by ブクログ

    徳川家康が三河統一し、武田信玄との戦い、遠江攻略、長男の信康自害までを描く。
    家康は信康、築山殿を岡崎城におき、あまり構うことはなかった。今川への内通を考慮したのだろうが、父に構われない信康は粗野になり、結局自害することになる。

    0
    2012年11月03日
  • 新三河物語(上)

    Posted by ブクログ

    徳川家康の家臣、大久保一族の物語。上巻は家康が今川から独立し、一向一揆に立ち向かうところ。
    登場人物も多く、読み進むのに苦労したが、それを差し引いても、充分読み応えある作品。
    家康か天下人となった一因がよくわかる。

    0
    2012年10月26日
  • 花の歳月

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    時代は前漢王朝前期・呂太后の専制下、名家ながら没落した竇(とう)家の娘、猗房(いぼう)が、推されて漢の宮中に出仕することから話は始まる。
    貧しいながら助け合って暮らす家族と別れ、宮中に入るわずか十歳の彼女。
    彼女を支えていたのは、父が語ってくれた「老子」の教えと、兄の励ましの言葉。

    所々にみられる老子の教え。

    「上善は水の若し」-最上は水のようなもの。水は万物を潤し、争うことをしない。そして水は上から下へと流れる、即ち謙ることを表す。

    「高は下をもって基となす」-高いものは低いものを基本としている。

    「禍か福の倚るところ、たれかその極をしらん」-禍は福のもたれかかるところとなり、福は禍の潜むところとなる。誰一人としてその大本は分からない。

    なるほど、面白い。

    残される家族のことを懸念する、猗房に言った兄の言葉も良いですね。

    「こういうことは、たしかに人によって選ばれるのだが、その人を動かした天の神から選ばれたことになる。天の神から選ばれたのに、それを断れば、一生不幸になってしまう。おまえが不幸になって喜ぶ者は、うちには一人もいやしない」

    中国三大悪女の一人といわれた呂太后が、夫である劉邦(高祖)の死後、劉邦の専らの寵愛を受け、呂太后の実子を排そうと企んでいた戚姫を捕らえて、手足を切断させ、眼球をくりぬき、耳を焼き、声の出せぬよう薬を飲ませ、厠に据えて「人彘(人ブタ)」と罵っていたというところはグロテスクです。
    ここまでする実の母の姿を見て、皇帝になった恵帝はショックを受けて執政を放棄してしまう。
    まあ、そんな姿を見たら、トラウマになっちゃうでしょうね。

    猗房の幼い弟、広国が誘拐されて、奴隷にされてしまう話も切ない。
    同じ奴隷で姉のように可愛がってくれた藺(りん)が、殺されかけた広国を救うために、辱めを受ける場面もやるせない。
    奴隷には抗う術などないと思い知らされるシーン。

    ラストは綺麗に纏め上げられていて、少し物足りない気もしますが・・。
    司馬遷の「史記」をもとに描かれた作品。
    史実に基づいているだけに、怖いなと思う場面が印象的。

    かなり、簡潔な文章なので想像とかは膨らみにくい感が。

    余談ですが、最初に郷父老が猗房に会って、推するに相応しいか見定める場面。
    ---男女を問わず、人を鑑(み)るには、まず声だ。

    声の大小、明暗、澄濁は、生まれつきの品格であると郷父老は考えているというところに、興味を持った私。
    良い声はそれだけで、「徳」を備えているということか・・。
    羨ましい・・。

    0
    2012年10月05日
  • 晏子(四)

    Posted by ブクログ

    晏嬰が景公の側近となって、斉の国が誤った方向に進まずに済んだ。それにしても、紀元前500年の春秋時代の政変の生臭さはどうだろう。

    0
    2012年09月01日
  • 晏子(三)

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    1巻2巻に比べると格段に退屈だった。理由は明快。主人公晏子である子・晏嬰が、父・晏弱の喪に服すといって、3年間たてこもっている次期の物語だからだ。つまり晏子の痛快な戦略や説法、心意気といったものがなく、単に晏子以外の人々の政治勢力抗争が繰り広げられるだけだった巻である。次の最終巻に期待!

    0
    2012年08月27日
  • 新三河物語(下)

    Posted by ブクログ

    松平徳川家の覇権への道における柱石であった大久保一門の物語。三河物語とは大久保忠教(平助、彦左衛門)が記した記録。宮城谷昌光氏の作品を始めて読みました。個人の精神世界を語るのは司馬遼太郎が上?時代群像としての風景描写は宮城谷さんか?本多、酒井、井伊、榊原、鳥居、土井 家康から秀忠、家光に渡る徳川家の腹心達の群像描写はリアル。長子信康が信長に切腹を命ぜられる経緯を巡り、酒井、大久保一門を晩年の家康が糾弾する。依田信蕃がかなり好意的に描写されてもいる。

    0
    2012年07月26日
  • 重耳(下)

    Posted by ブクログ

     ストーリーはいたって平凡、歴史小説がすべてエキサイティングであるはずはない。中国春秋時代の晋の君主、在位紀元前636年 - 紀元前628年。姓は姫、諱は重耳のお話。全3冊を斜め読み。

    0
    2012年07月21日
  • 孟嘗君(5)

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    うーん。鶏鳴狗盗がクライマックスなのは充分分かってたのですが何なのでしょうか、この寂寥感は。他の方々のレビュー程楽しめませんでした。

    0
    2012年05月03日
  • 楽毅(三)

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    ・遠くにいる賢人を探す前に、まぢかにいる賢人に師事せよ。
    ・良将は、晴天に嵐を想うものだ
    ・目的がなければ努力しつづけにくい。が、人が目的を失った時に、目的を作るというのが、才能というものではないか。
    ・地に固執するのではなく、人に固執すべし。
    ・なぜという問いが実生活のなかから生じなければ、知恵は身につかない。
    ・

    0
    2012年04月30日
  • 中国古典の言行録

    Posted by ブクログ

    商(殷)の湯王が、宰相の伊尹にたずねた。
    「天下を得るには、どうすればよいか」
    伊尹は答えた。
    「天下を得ようとすれば、天下は手に入りません。得るとすれば、まず、自分を得るのです」
    このあと、『呂氏春秋』はこういうコメントを付している。
    「すべての根元は、まず、自分を治めることにある。自愛することである。新しい気を用いて、古い気は捨てる。皮膚の間から、精気と邪気とを、代謝させる。精気は日ごとに新しく、邪気はすべて排出される。これで、天寿はまっとうされる。これを真人という」

    内なる宇宙を修めることと天下を得ることとはひとしいのだ、そう肝に命じて鍼灸を努めようと思う私です。

    0
    2012年03月16日
  • 管仲(下)

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    春秋時代の斉国の宰相。自分が矢を射た公子小白(後の斉の桓公)に仕えて、富国強兵策で桓公を覇者とした。名言「倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る(そうりんみちてれいせつをしり、いしょくたりてえいじょくをしる)」は二千年以上前では先見性があったかもしれないが、今の日本人には当てはまらない気がする。

    0
    2012年03月10日
  • 新三河物語(上)

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    題名の一部となっている三河物語は,徳川家家臣の大久保忠教が,主に徳川家康の戦の記録を記した書である。本書はそれを,著者による独自の解釈や調査により歴史小説として仕立てたものである。
    家康は松平元康と言い,幼名は竹千代である。実家の岡崎松平家が西から伸張してきた織田家の勢力に耐えがたくなったとき,人質として今川家に送られることになったが,その途中に田原の戸田氏に拉致され,今川の敵方である織田信秀のもとに届けられた。その後,今川軍が信秀の子を捕らえ,人質交換が成立したため,竹千代は駿府へ移住した。それが八歳のころで,以後,人質の身分から解放されることなく,駿府にとどまり,妻帯し,男子を儲けた。それが竹千代十九歳の頃である。
    元康の父の広忠と祖父の清康は,信義と勇気に欠ける者を侮蔑したことはあるが,弱い立場の者をいじめたりさげすんだりしたことはなかった。岡崎松平家の家風は,情性にあたたかさとあわれみがある。それが政治の根幹であった。人は徳にしか頭をさげない-というのは中国的哲学である。強大な武力や権力に多くの人々は頭をさげて見せるが,それは上辺だけのことである,と元康は誰よりも知っていた。永井人質生活が教訓をさずけてくれたのであり,人とは何であるのかを熟考させてくれたのだろう。栄華のただなかにある今川義元に心服していない自分がある,というのがそうである。義元が討たれた時も,義元は信長に殺されたのではなく,自滅したのだと考えた。義元には徳がなかった。徳を失えば人が離れてゆき,孤独となる。人は独りでは生きてゆけない,というのが世の条理であるとすれば,独りになった義元は斃死せざるをえなかった。合戦がなくても,義元の死は必定だったのである。人質になって岡崎城を出たのは六歳であった。それから十三年後の元康は義元の死によってようやく自分を縛っていた綱が切れたとおもった。

    遅くなったが,ここで大久保氏のことについて触れよう。話は前になるが,元康の祖父清康が兵を率いて尾張に討ちいったとき,守山の陣中において家臣の安部弥七郎に斬られてしまう。弥七郎は清康に深い恨みを抱いていたわけでなく,妄想により凶刃をふるった。後に三河物語では,日本一の阿呆弥七郎メ-と最大限に罵っている。当然清康の死は家中を混乱させた。事態の収拾のために岡崎城に乗り込んだ桜井松平の信定は清康の叔父であり,清康の批判者でもあった。信定は清康の遺児の広忠を追放して強引に松平宗家の地位を得た。その地位を覆して,広忠を帰城させ,復位させたのが大久保忠俊である。この功により大久保家の名声は大きくなったが,今川をたのむ広忠の才徳は亡き父清康に及ばず,松平一門のなかで離反するものを抑えられず,西からくる織田家の侵攻を退けることも出来なかった。大久保一門は,本拠を上和田という岡崎城の南に置いている。この頃の大久保一門は,忠平,忠俊,忠次,忠員,忠久の5人兄弟からなっていた。宗家の当主は長兄の忠平がつくべきであったが,はなはだしい肥満で軍事に堪えられず,その座を次兄の忠俊に譲って隠遁した。大久保兄弟は他家の者が羨むほど仲がよい。それこそ財より優ると忠俊は常々言っている。いかなる名声と家産をもっていても,兄弟が争えば家は衰退する。また,大久保忠俊の三男忠員は,わが家には母は一人しかおらぬということを徹底していた。忠員の側室が子供を生んでも,母は三条西殿という忠員の正妻であると。これは,この家では子の生母の貴賎が問われることはなく,全ての子供が三条西殿の子であるとされるので,嫡庶の差別がない。そういった家風が忠員家におおらかさを与え,忠世,忠佐,忠教などを育み,後に大久保家の宗家となっていく。

    清康の横死以降,家中の争い,今川への臣従,信長の伸張など,長い間,三河衆は現世を悲観的に見ざるを得なかった。生きているのが苦痛であった。せめて死後はその苦痛から免れたい,そういう願いから浄土真宗の本義と合致した。が,家康の帰国とその後の躍進は,この世も捨てたものではないという情想を家臣たちに芽生えさせた。生に苦があり,死に楽があるという心理の定型を壊すほど,家康の存在は明るく大きかった。主君への忠がすべてを超えてゆくという武士道の創始は,宗教との格闘を経なければありえなかったということである。そういう意味では,家康が帰国後にすぐ起こった三河の国一向一揆は,家康にとって苦しくはあったが,臣下との関係を確固たるものとし,天下統一に向けた第一歩だったともいえよう。苦難を経ない者は大きくなれない。というより,傑出する者に天は必ず苦難を与える,と言った方がよいということだ。

    永禄九年,家康は姓を松平から徳川へ変えた。年の瀬も迫った12月29日だったと言う。また,同時に,家康は群臣の意識を改進させるため,三備という軍制を固めた。全軍を3組に分けて,家康の牙旗の元に,旗本という集団を置くのである。その3組のうち2組を率いるのが,酒井忠次,石川家成であった。その中の隊を率いる長を御旗本先手侍大将と呼び,大久保忠世もそれに任ぜられた。それに対し忠世の父の常源は,良将であろうとすれば,おのれを養牧する場は戦陣にあるのではなく,日常にあると思わねばならぬと,さとしたという。

    家康は,常に信玄の侵攻に晒されているが,三方が原の戦いで手痛く敗北する。しかしながら,徳川勢と干戈を交えた武田の将の馬場信春は,『日本国中で越後の輝虎と三河の家康を除いて剛の大将はいますまい。このたびの三方が原の合戦において,討ち死にした三河武者は下々まで戦わなかったものはひとりもいない。その証拠に,こちらに倒れた死体はみなうつむき,浜松の方に倒れた者は仰向きになっていた。家康に親密になり,家康を先陣に立てていれば,数年後には日本の全てを従えることが出来たでしょうに』と,信玄の外交の失敗を暗に批判したようなことを言った。家康は,今後も,三河武士の真髄を体現するような者を重用することになるが,菅沼定盈など,城は死ぬまで守り抜くといった気概の者を信用し,小笠原氏助のよう,金に目がくらみ武田方に開城するような者を怨んだ。大久保氏もそんな三河武士を体現するような家風であり,長篠設楽が原の戦いで功をあげた大久保忠世・忠佐兄弟にも目をかけ,特にこの戦で首功第一であった忠佐のことを,髯,髯と呼んで,可愛がっていくようになる。そして,それにあやかる様に,弟の平助も元服し忠教と名乗り,歴史の表舞台へと駒を進めて行く。

    平助が父忠員から学んだことに,寡欲であれということがある。忠員は勇気だけでなく才覚もある人で,欲が大きければその二つの才を前に出して本家と対等な家を作ることが出来たはずだ。が,そうすれば兄弟の親睦関係は断たれ,兄を失ったも同然となったであろう。”兄は愛し,弟は敬う”という言葉が春秋左氏伝にあるが,まさに忠世と忠員という兄弟はそれで,人の風景としてはもっとも美しいもののひとつであり,若い平助はそれを見て感動したのであろう。そんな寡欲を実践する平助は,誰も残りたいと手を上げない籠城戦で,忠世に知行を与えるから残ってくれと言われたとき,首を縦には振らず,ただ望みを捨てて命を捨てて残ってくれと言われたとき,すかさず頭を下げて諾と言ったという。著者が本書で書き残したかった場面と言うのはここではないだろうか。知行をちらつかされて残留するのはごめんだが,いかなる報酬もないが,ここで死んでくれと言われれば承知した平助の真骨頂というのはここにあり,三河物語を書いた人物の真髄はまさにここであると言うしかない。

    言葉が不滅の力を持つということは,読書家である平助は一番知っていた。平助は三河物語を記すのはそんな言葉の力を信じていたがゆえである。平助は戦については,邪であるとまでは言わないが,人を殺してゆく仕業であることは違いないと考えていた。徳は,小さな徳を積み重ねることで大きな徳となるが,戦は積み重ねるべきものではない。兵は詭道なりということばもあり,正しくないやりかたで,やむなく国を保つというのが戦である。それでも大きな戦に敗れれば,国を失う。ゆえに戦の数を減らし,乾坤一擲の戦には勝たなくてはならないのだ。

    年は進み,家康は秀吉と対立し,秀吉が没すると,事実上,家康の天下となったも同然となる。そんな家康にも,他の歴史で繰り返すことと同様に,だんだんと驕りというものが現れる。狡兎死して走狗烹らるのことわざにあるように,大久保一門も次第に家康に疎まれ,退けられていく。猜疑のかたまりとなった晩年の今川義元,織田信長,豊臣秀吉となんらかわりない。生殺与奪の権をにぎったものが過去の復讐をする。欲がおのれを滅ぼすもととなるのは分かりきったことであるが,恨みもおのれを滅ぼすもととなるのであろうか。家康のために尽くしてきた大久保一門の者が,なぜ,怨まれ,家康におびえなければならないのか。まさにそんな問いが,忠教に三河物語を著させるきっかけとなったのではないか。忠世の嫡男忠隣は,上意を得ずに婚姻を結んだと言う,半分言いがかりのような罪を本多正信にきせられ,改易され,家臣は追放された。ただ,二代将軍秀忠は,忠隣が昔,秀吉から自分を救ってもらったことを感謝しており,家康と正信の死後,無実の申し開きをせよと薦めてくれるのであった。が,忠隣は,『もしも,ご赦免となれば,ご公儀の誤りを顕すことになる。わが身を立てるために,ご政道を歪めてはならないのです。このまま生を終えるとも,わが忠誠は天がてらしてくれるでしょう』と断ったという。
    一方,平助は,家康の嫡男信康が信長の命により切腹するまで,懇切に接した事を家康は知っていた。大久保一門の中でただ一人平助のみを家康はゆるした。ゆるされた平助は筆をとる。やがて,愛読書の曾我物語から引かれた一節を冒頭に書く。『それ迷の前の是非は,是非共に非なり』と。これが三河物語の冒頭の文になった。迷う心で道義の有無を考えても,そこに浮かんだ正邪善悪はなんの意味も持たないと。
    三河物語は,忠教が著すが,それは家康や徳川家のために書いたのではなく,天に命じられて書いた。天子や君主の悪にも目をつぶらず悪としるし,例えそれで殺されても天職を汚さないという,不動の信念をもった史官あるいは歴史家が日本のどこにいるのか。中国にいるように,日本の真の史官として我は記すのだと言う信念で書かれたのが三河物語だ。これを読んだ3台将軍家光は,忠隣の孫である忠職を赦免した。たった一本の筆が大久保家を救ったのである。
    本書は中国古代史を専門としてきた著者の日本歴史小説である。中国古代では文献も少なく,著者の想像力が否応無しに発揮され,私は大好きだが,日本の歴史を書いた本作品は,主役となる忠教以外の大久保一門の人間についての説明など寄り道が多く,あの人は誰だったっけかなと,家系図を何度も見なくてはならず,読むスピードが上がらなかった。やはり宮城谷氏は中国歴史小説がよい。
    全3巻

    0
    2012年02月02日
  • 重耳(中)

    Posted by ブクログ

    まさに、大河。大河ドラマだ。
    話が壮大過ぎて若干ついていけない気もする。でもまぁ、これこそが中国の王朝の勃興なんだよなと感心しきり。そりゃ、島国住民には理解できないよな、大陸情勢は。

    0
    2015年07月14日
  • 重耳(上)

    Posted by ブクログ

    やはり歴史小説を読むのには慣れが必要である。
    司馬遼太郎ばかり読んでいると他の作家が読めなくなっているのだが、
    この作家で、中国史小説。上巻を通してようやく慣れてきた。
    物語は秦の始皇帝よりも前、
    考え方において現在の科学や、論理の位置に占いや伝統や習慣が多くをしめている時代のお話。

    0
    2015年07月14日
  • 晏子(三)

    Posted by ブクログ

    晏子〈全3巻〉 (新潮文庫)
    紀元前500年 斉の国を晏弱、晏嬰の父子が他の豪族達から守っていく。斉の公、国民からも愛されていた人物 崔氏の滅亡も理解しやすい

    0
    2011年10月15日
  • 戦国名臣列伝

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    古代中国春秋戦国期の名臣列伝

    よくこれだけ資料が残っているというのが、さすが中国。
    で、故事成語のもとになっているエピソードがいろいろある。
    中国の戦記舞台というとやはり三国志だが、どうにも、より自由で豊かだったのはこの時代のようだ。
    小国が多く、人の行き来も多かったようで、変遷が多く面白い。
    列伝であるので、同盟者であったり、敵であったりする人物が別章で取り上げられているのは面白い書き方。
    これまで知る機械があまりなかったが、確かに魅力的な人物たちで、それぞれの国の歴史は、うまく書くとやはりとても面白いものと思う。

    0
    2011年09月26日