野矢茂樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
これまで読んだ中で最も美しい哲学書。カントは時間や空間をア・プリオリであるとしたが、著者は記述ので形式を与えるものとして捉えようとした。要素命題のすべての可能性が真になる真理条件をトートロジー、すべての可能性が偽になるものを矛盾と呼ぶ。真理操作とは要素命題から真理関数を作る方法である。命題の本質を提示することは、あらゆる記述の本質を提示することであり、世界の本質を提示することである。しかし要素命題は名の合成であり、ア・プリオリに挙げることは出来ない。論理によって決定される問いは論理のみにより決定される。論理を理解するために私達が必要とする「経験」は「何かがある」というものである。私達の日常言語のすべての命題は、実際、そのあるがままで、論理的に完全に秩序づけられている。私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。思考し表象する主体は存在せず、世界に属さない。それは世界の限界である。ア・プリオリな法則は存在せず、一つの論理形式の可能性をア・プリオリに知るのである。永遠を時間的な永続としてではなく無時間性と解する時、現在に生きる者は永遠に生きるのである。答えが成り立つのは、ただ、何ごとかが語られうるところでしかない。生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気付く。かくして「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」。
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Posted by ブクログ
今年読んだ中で一番面白い本かもしれない。そんなこと考えて何か良いことあるの?てな感じの重箱の隅をつつきまくる議論なのだが、素人目線に立った解りやすい解説でどんどんページが進む。ジョンロックの一般観念論の行き詰まり、フレーゲの文脈原理と合成原理によるその打開、指示と意義による言葉の定義、ラッセルによる意義の否定と確定記述の概念導入。ここまでくると何が正解なのかわからなくなる。そして極めつけはウィトゲンシュタインの『論考』。なぜそうなのか?に答えることを放棄し、実世界のありようをそのまま認めるというコペルニクス的転回で、それまでのモヤモヤがすっきり腹落ちするというオチ。『論考』の議論から何故外国語の理解が難しいのかわかった気がする。要はそれぞれの単語の論理形式、つまりその語がどんな文に結合しうるかの可能性を理解していないから、文の分節化ができないという訳だ。哲学も役に立つではないか!
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Posted by ブクログ
これはきっと、通読することに大きな価値はないと思った。読むという一時の体験で終わる話ではないからだ。そうじゃなくて、持っておいて、時折開いて、見て、長く付き合っていくと、この本がボロボロになるのと比例して価値も大きくなっていくのだと思う。
問題を抱えて、揺さぶって、空っぽにする。そしてまた問題を抱えて…繰り返して途切れない。つまり、考えるということを通して、生きるということを問うみたいな、そんな身近にある壮大な話だ。
そして、沢山詰め込まれている絵には意味は無いけど大きな意味があるんだ。
言っている意味分からないけど、また、引き続きこの本と付き合っていきたい。
また、これは学生がまさに考えることに向かう時に読んでもいいが、たくさん考えてきた大人が読むことにも価値があるだろう。まさにはじめて考えるときの「ように」ね。
なんか、そんな意図はあるのかしらないけど、なんだか励まされるような、そんな不思議な力がこの本にはあるなって思う。 -
Posted by ブクログ
全6回構成でその主題は次の通りです。
第1回:チョムスキー以後の言語学史
第2回:認知言語学の意味論
第3回:プロトタイプ意味論
第4回:使役構文
第5回:メトニミー
第6回:メタファー
第3~6回は、言語学に興味があれば、そこだけ読んでも面白いです。
反対に第1、2回は、事前知識なしだとよく分からない話をしています。
そして、哲学寄りの話をしている第2、3回こそ、哲学と言語学の先生の対談にした意義が表れているのかなと思います。
全編にわたって大変面白い本です。
普通に読んでいたら素通りしてしまいそうなところでも、聞き手の野矢先生がバシバシ突っ込みを入れてくるのですが、そういう頭のいい人の考え方が覗けるのも興味深い。
ただ、体系的な理解ができる形式ではないので、本書を手に取るのは、言語学と言語哲学の入門書を読んだ後がいいのでしょうね。 -
Posted by ブクログ
ピエール・アド「ウィトゲンシュタインと言語の限界」後に再読。学生時代に1度、社会人のまだ若い頃に1度読んでいるが、今回改めて自分の読みの浅薄さを思い知らされた。丁寧に読むとかなりの時間を要する著作なのに、あまり読むのに苦労した記憶がないのだ。野谷茂樹氏の訳者あとがきに「『論考』という著作は妖しい光を放っている。読む者を射抜き、立ち止まらせ、うっとりさせる力を擁している。それはおそらくすばらしいことなのではあるが、危険でもある。うっとりしながら哲学することはできない。」とあるが、若い頃の僕はまさに『論考』の詩的かつキャッチーなセンテンスにうっとりし、それだけで何事か重要なものを把握したような錯覚に陥っていたのだ。それはもちろん僕だけではなかろう、本書からあの「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」という命題のみを形式的に取り出し、「未だわかっていないものについては結論を出してはならない」などという陳腐で卑俗な読み替えを適用し、それをもって本書の主題だとする例に数多出くわすのだから。
以前読んだ時は、クライマックスの命題6.4あたりからそれまでの理知的な論調から離れて、「倫理」「美」「神秘」「永遠」などの形而上学的な色彩の言葉が並ぶのに面食らい、なぜウィトゲンシュタインがそのような論理的なものから遊離した(と当時の僕には思えた)概念をこの段に及んで持ち出すのか、と訝しんだ記憶がある。だが上記「…と言語の限界」を経由した今ではそうは思わない。世界を「完結した総体」として「永遠の相のもとに」捉えると、そこには確かに論理では語り得ぬものが浮かんでくる。「倫理」や「美」「神秘」は、「物自体」のように全くリーチ不可能な形而上学的概念ではなく、言語の形式では表現できないが確かに我々に示されるものであり、だからこそ畏敬の念を伴って表されるものなのだ。