野矢茂樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
めっちゃ面白く読みました。
やはり何か新しい手ごたえが生まれてくる瞬間に立ち会うというライブ感(もちろん疑似的なものにすぎないわけですけれど)は、面白さを倍増させる気がしますね。
でも、この本を「面白い」と思うための条件は割と厳しいと思います。
まずこれまでに「「野矢哲学」に一度でも触れたことがあること。
そして大学2年生レベルの言語学についての基礎的な理解があること。
この2点をクリアできる人って、本当に大学でその分野を専攻している人に限られるんじゃないだろうか。
だから署名は『入門』じゃなくて『教室』なんだろうなあ。高校生が読んでもちょっと太刀打ちできないだろうと思います。
チョムスキーの生成文法は何か堅苦しくて好きじゃなかったけれど、その理由が自分なりに分かった気がして、その辺りもすっきりしました。 -
Posted by ブクログ
約20年前「無限論の教室」に出会って以来、著者の平易な語り口の虜になってしまい、以降全てではないものの同氏の著述を可能な限り追いかけてきた僕。そこではテーマは違えどいつも「世界とこの私」を巡る疑問が通底していた。本書は著者のライフワークといってもいいこの「他我問題」を、極めて平易な言葉で、しかし周到な注意を払いながら扱った労作。ついに著者の中で一つの区切りがつけられた感がある。
読み始めると、著者がなぜ、我々が世界を直接経験しているとする「素朴実在論」に拘泥するのか不思議に感じらるかもしれない。しかし安易にこれと対立する立場である「二元論」、即ち我々は世界そのものでなくその表象である知覚イメージを受け取っているのだとする立場に立ってしまうと、自分は自分の知覚していることしか知り得ないとする「懐疑論」を導入してしまい、果ては自分以外の主体は意識を持たない「ゾンビ」であるという極端な結論、即ち「独我論」を導いてしまう。これこそが著者が最も受け入れ難いものなのだが、そもそもこれがなぜ著者の言うようにグロテスクなものなのかが共有できないと、懐疑論を必死に叩き潰そうとする本書の試みが理解できないかもしれない。
しかし、少しでも懐疑論に違和感を感じる人ならば、第2部「理論」以降の展開は興味深く読めるだろう。著者はここで「眺望」と「相貌」という、世界からの「提示」を受領するための視座を導入する。グーグルマップのアナロジーで示されている通り、我々が「無視点的」な世界像を参照しつつ個別の視座から世界を眺めているというのは多くの人の実感にそぐうものではないか。そしてその「眺望」は公共的、つまり行為主体がいつでもそこに立ちうるという意味で、他者の知覚は知り得ないとする懐疑論を迂回することができる。面白いのは、唯物論的な立場では切り捨てられて然るべき「錯覚」や「幻覚」でさえも一つの「眺望」の下での世界のあらわれであるとし、一旦引き受けてしまうところ。極めて寛容で豊潤な著者の世界観がここに示されていると思う。その際、副詞的に立ち現れてくるとされる「感覚的眺望」の概念も直感的で諒解しやすい。
最も刺激に満ちた部分は終盤の「脳神話」との想定問答。著者は、感覚的眺望は脳や身体の問題だが、知覚的眺望は直接的な世界のあらわれであり脳とは無関係とする。また、世界のあらわれを脳に生じた知覚イメージとする脳神話論者の立場は、「世界の外側の脳」というシステム外の超越的存在を想定しなければならず、最早システム内では論ずる意味がないとする。実無限を否定する立場の著者としては、無限後退に陥るような想定は容認し難いのだろう。
なお著者の仮想敵は脳科学者でなく、世界の全ては脳内イメージの産物であるとする「脳神話論者」であることに注意(一部のレビュアーに誤解が見られる)。ただ唯物論的世界観にも魅力を感じる自分としては、脳科学者からの反論も期待したいところ。しかし、多種多様な眺望と相貌に幾重にも彩られ、有視点的な拡散と無視点的な収斂の相克に蠢きながら、それでも総体として大いなる秩序を保つ「世界」の姿は、僕にはとても豊かで心地良いものに思える。また、ウィトゲンシュタインの言語ゲームを引き合いに出し、物語が共有されている以上「完全なる他者」など存在しない、とする著者の見解には大いに共感した。 -
Posted by ブクログ
人間は言語を道具として操ることで他の動物にない進化を遂げた。とか何とかいうのは近代的な認識で、20世紀初頭の言語学の勃興以降、言語によって人間の認識が影響を受けるといった言語論的転回がおこり、極論すれば人間こそが言語の道具である、というのが現代思想であった。
しかし、学問というのは進歩するのではなく振動するものらしく、そうした言語中心主義も揺り戻しが来て、ふたたび人間の心理が言語に影響を及ぼしているという認知言語学が出てきた。本書は言語哲学の野矢茂樹が認知言語学の西村義樹に教えを請うという形の対談によって、認知言語学を解説したものである。茂樹と義樹、ふたつの樹が認知言語学に迫る。
一般には「認知」というと「ああ、俺の子だ」みたいな場合が人口に膾炙しているのかもしれないが、学問の世界では「認知」という言葉が流行りでありながら、認知といって示されることは、生物学的な臓器としての脳をベースに考えようくらいの意味のこともあり、認知をどう認知したらいいのかよくわからないことも多い。認知言語学の場合、おおざっぱに言うと心の働きと言語の関係を(再び)問題にするということのようだ。もう少し踏み込むと、従来、統辞論と意味論というようにわけて考えられてきた、意味と文法との関係を俎上に載せるということが、大事なテーマになっているようだ。
例えば、受動態。「雨に降られた」とか「太郎は花子に泣かれた」という受動態は、能動態を持たず、「間接受身」という。ここには、困ったとか嫌だという「受苦」の気持ちと、それでも仕方がないという「諦念」、さらに雨にしろ花子にしろ、自分ではどうにもできない「他者性」があることを含意していると分析される。この用法を習うと外国人は「財布に落ちられた」などという文を作って、おかしいと指摘されても腑に落ちないのだというが、財布がある程度意志を持った他者的なものである場合には、「財布に落ちられた」という表現は可能となる。かように、「間接受身」という文法には「受苦」「諦念」「他者性」という心の動きなり、意味が介入しているのだといった議論が認知言語学のお話なのである。よって「間接受身」のことを「迷惑受身」とも呼ぶ。
この比較的新しい学問を背負って立つ義樹に、「どうなの、どうなの、教えて」とばかりに茂樹が鋭い質問を投げかけていく対談は読みやすいけれど、難しい問題をあぶり出して言語の面白さを披瀝していく。
後半はメトニミーとメタファーの話で、従来のレトリック論にはない切り口が大変おもしろい。
さて、では言語が先か心理が先か。たぶん言語によって脳=心理が形成され、脳=心理によって言語が変わっていくといった相即の関係にあるというしかないのではないかと評者は思うのだが、本書は、言語は常に揺らいでいるという結論めいた話で終わる。 -
Posted by ブクログ
ネタバレパラッと開いてみたらぶったまげた本。
「二・0一二四」という数字が各行(各論か?)の頭に振ってあり、その下に「全ての対象が与えられるとき、同時にすべての可能な事態も与えられる」とかいう文句がある。
この短くも長くもない明晰であり、しかし強く惹かれる怪しい魅力を放っている文章になんだか溜息がもれてしまう。
とにかく、タイトルと目次と段落と行の塊のような物語小説やビジネス書を読んでいると、この記述に面を食らってしまうこと間違いなしだ。
でも「ケッ!なんだこれっ」みたいな、つばつけてポイするような本でもなく、とにかく魅力を持っている。怪しくて魅力的なのだ。
本棚に入っていると気になってしょうがない存在感をも放っている。
なぜか、それはこの論理哲学論考の著者であるウィトゲンシュタインが、「私はどれだけのことが考えられるのか」と思い、思考の限界は言葉の限界であるということを、この本全体を通して表現しているからだ。
受験産業で現代文の参考書を書いている出口汪さんの「現代文講義(タイトルはうろ覚え)」では、言葉の限界について分かりやすい説明(も、うろ覚え)をしているので下に(うろ覚えだが)引用してみる。
『今ここにある週刊少年ジャンプ(手元に置いてある)を示す場合、「この週刊少年ジャンプ」と指をさして表現します。「週刊少年ジャンプ」といっただけでは、今までに発刊されたすべての週刊少年ジャンプを示してしまいますし、「この」がないと、いつ発売された何版の何号のどの週刊少年ジャンプなのか分かりません。「この週刊少年ジャンプ」をさす場合は、「この」という指をさすボディランゲージがないと「この週刊少年ジャンプ」、と正確に示す事はできないんです。これが言葉の限界です。「指をさす」というボディランゲージがないと、「この」週刊少年ジャンプを示して表現することができないんです』
という出口さんの説明でウィトゲンシュタインがこの本で何を言おうとしているのか私はやっと理解できた。
それは思考や表現には限界があるということだ。
なぜならば、私たちは言葉を使ってでしか思考や文章表現ができない。
言葉の限界が思考の限界なのである。
そこでジョージオーウェルが「1984年」という本の中で気になる描写をしていた。
とある帝国では、ニュースピークという新しい国語を制定して人々の思考をコントロールしようとしていた。ニュースピークは多義語がメインの言葉で、ある言葉の反対の意味を表現しようとしたら、その語の頭に「非~」とつけることでそれを表現する非常に簡単な言語構造をしている。この言葉は便利だ。しかし、多義語がメインなので具体的に考えることができない。人々から具体的な思考を奪うことで、その帝国は存続していく。というような描写だ。
これは現在の日本にも言えることで、「ヤバい」「かわいい」「わかんない」というような抽象的な多義語を使うことで、一応会話は成立してしまうが、具体的に考えることが出来なくなってしまっている人がいるのではないだろうか。
具体的に考えられないと、なにか特異な状況が自分の周りに発生した時に、どのような対処をすればいいのか分からなくなってしまうのではないだろうか。
何か問題が起こると反射的にネットでググって答えを得るのも、簡単かもしれないが、そのような対処法が公開されていなかったらその人はどうするのだろうか。
いろいろ考えてしまうがみなさんはどうだろうか?
最後に、「七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という著者の立場に私は賛成する。
直観的なセンスが必要となる神秘と情緒の世界は、語ることができないと思われる。
具体的に説明すると、五十嵐大介の「海獣の子供」という漫画の最終巻の話は、語ることができない沈黙せねばならない類の話であると思う。
美麗なビジュアルで描く神秘的な世界は語ることができない。
称賛することはできるかもしれないが。
とにかく、言葉をつかった表現に取り組んでいる人へ、この本をおすすめする。
私たちが普段からしている思考や表現は、このような限界に満ちたものであるということを、この本と格闘することで実感してほしい。
そして新しい思考と表現のステージへと進んでほしいと思う。
本当ならば、岩波文庫の「論考」だけでなく、「ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』対訳・注解書」も併せて読むといいのかもしれない。
なぜならば、岩波文庫のバートランド・ラッセルの解説についてウィトゲンシュタイン本人は、「あなたは何も分かっていない」とケチをつけているからだ。
そのことについての詳しい説明は、こちらに書かれているので、より詳しく知りたい人には、岩波とこちらの両方をおすすめする。 -
Posted by ブクログ
野矢茂樹は、私の好きな哲学者だ。日常を眺める角度を少しだけずらせてみせて、気が付くと哲学的な思考の深みへと自然に誘ってくれる。この人が、「認知言語学」に興味を持ち、自分が生徒になって、その道の研究者である西村義樹に教えを請うという形の対談本なので、これは見逃すわけにはいかない。面白い例文が次々と飛び出してきて、退屈する暇はない。
「雨に降られる」とは言うが、「財布に落ちられた」とは言わない(これは、「間接受身」とか「迷惑受身」と呼ばれる)。
「嘘」は、広辞苑では「真実でないこと」とあるが、「嘘をつく」というのは「①事実でないことを言う、②発話者自身が事実ではないと思っていることを言う、③聞き手を騙す意図がある」という3つが満たされている場合が典型と考えられるという指摘には納得。(これは、プロトタイプ意味論から導かれる)
「花子は交通事故で息子を死なせてしまった」と「花子は交通事故で息子に死なれてしまった」の微妙な違いをめぐるやりとりも興味深い(前者は「許容使役構文」と呼ばれる)。
「近接の関係に基づく比喩」と定義される「メトニミー」に関して、「洗濯機を回す」(別に、洗濯機を振り回しているわけではないのに・・・)や、「トイレを流す」(そのまま受け取ったら、とんでもないイメージが思い浮かんでしまう)など思わず笑えてくる。
「メタファー」についても、詩に代表されるように創造的な使用法なのだが、「考えが甘い」とか「目が釘付けになる」のように人口に膾炙するにつれて、陳腐な言い回しとなってしまうのも確かで、言葉が生き物のように思えてくる。
読後、言語表現と認識方法(見方・考え方)が深いところで繋がっていることに思い至り、普段は何気なく遣っている言葉が、奇妙な形を持った言語として立ち上がってくるという不思議な感覚に襲われた。 -
Posted by ブクログ
実に楽しく、明快で、かつ高揚感に溢れる一冊。異なる言語間の形式的差異を文化の違いに帰するだけの本ならいくらでもあるが、この本が読み手を連れて行く(←語彙的使役)場所はそれより遥かに深く鮮やかな色彩に満ちている。言語学者と哲学者の、どちらが主とも従とも、教師とも生徒ともつかないままの対談形式は澱みもなく、豊富な例とも相まって読み手の理解を大いに助けてくれる。「言語学」「哲学」などというと堅苦しいが、難解な所は全くなく、肩肘張らずリラックスして読める良書。巻末のブックガイドと索引も有難い。
ところで何年か前、大学の農学部を舞台としたマンガが人気を博したことがあったが、その中で「かもす」という動詞が頻繁に使われていたことを思い出した。キャラクター化された細菌が出てきて「かもすぞー」などというのだが、そのマンガを読んだとき、その「かもす(漢字では「醸す」)」という動詞を新鮮で面白く感じつつも、なぜそう思えるのかその理由がよく分からなかった。この本によれば、そのような「動詞+助詞(せる・させる)、例:腐らせる」の形ではない単一の使役動詞を「語彙的使役動詞」というのだが、そのような動詞が使われる場合は行為と結果の因果関係が直接的かつ強固で、客体が主体の完全なコントロール化にある場合が多いのだそうだ。…つまり、微小で頼りない(マンガ内でもラクガキ的に描写されている)細菌が、こと発酵というプロセスにおいては有無を言わせない程強力な役割を果たす支配者なのだという、そのギャップが面白かったのだなあ…とこのように、様々な気づきを与えてくれること間違いなしの一冊。