伊東豊雄のレビュー一覧
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最近受験生の我が息子は、少し遠くの塾に
日曜日の夜間に通っています。(そんなに必死に
受験勉強しているわけではないのですが)
そこで、夫婦も揃って息子を送り届けて
塾が終わるまで二人でスタバに行って2時間
くらい待っています。私はじっくり本を読める時間
なので割と気に入っています。そこで読み終わった
今回のこの本。
川崎の桐光学園高校に様々な
論客(日本のトップクラス)が特別の授業をする
らしいのですがその授業の内容が本になっている内容。
こんな高校生はとても幸せだと思いますが
多分自分が高校生だったときはあまり興味を
覚えなかっただろうなあと思います。
でも、それでもそういうことを言っていた人が
いたなあとかすかに覚えていたり、そのうちの誰かの
話す内容に衝撃を受けたりすることが少ない確立でも
あったら、それって素晴らしいことなのではないかと
思います。
内容的には、とても知的な好奇心や問題提起がなされて
いてとても面白い内容です。おっさんがよんでも
とても勉強になり、感動し、納得し、面白いと
思える本です。
ぜひともいろいろな人に読んでほしいと思います。
やっぱりとりわけ若い人に読んでほしいと思います。
高校生でなくても、大学生や社会人でも。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ・・・象徴物に力を求める資本主義と、建築技術の飛躍的向上により、フランクゲーリーやザハハディドの巨大彫刻のような建築が世界的ブームになっているが、
伊東やSANAAは外部空間と建築と人間の壁を無くす日本的な空間建築で風穴をあけている。
「みんなの家」
あの日から、個としてのオリジナルな表現も都会的要素も無い場を地域の人々と心をひとつにしてつくることができた。
近代主義は私と他者、内と外など物事を切り分ける思想だった。
しかし日本では、日本語や伝統建築空間、あいまいな人間関係によって豊かさが保たれていた。
機能と言う概念は人間の多彩で複雑な行動を単純に区分して抽象化したに過ぎない。
だから利用者から見れば楽しくない。
「せんだいメディアテーク」
自然の快適さをモデルにした新しい空間の秩序が快適さにつながる。
「TOD’S表参道ビル」
建物の中にいても外部的な空間に変化する、木の枝のように枝分かれしたコンクリートの構造壁。
「台中メトロポリタンオペラハウス」
二組のチューブの連続体。内部のような外部のような構造体。
自然の中にいるような自由な気持ちでいられる。
「個を超えた個へ」
現代建築での建築家は資本主義を目に見える空虚な形のアート作品にする道具になっている。
建築の原初の姿は、共同で何かを作り上げ、集団として崇め、作ることが喜びであるという共同性のあらわれ。 -
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ネタバレせんだいメディアテークなどに携わった建築家伊東豊雄さんの、建築に対する考え方を記した本。震災をきっかけに、建築の求められているもの、伊東さん自身が建築にとって大事なものが変わっていった、その経過を克明に書き綴っている。真摯な姿勢でわかりやすく説いてくれており、好感が持てる。
震災後2011年3月末に「帰心会」という震災について考え、行動する会を立ち上げた著者。その会で言った「批判をしないこと」という復興に対するスタンスにうなずけるものがあった。「批判は部外者だからできること。批判をしないとは(中略)自分自身が復興に関わる当事者であるという自覚を持ち続ける」ことだというのだ。すべての社会問題に当てはまる言葉に思えた。
また釜石の復興プロジェクトに携わった際に、「元の仲間と一緒に暮らしたい」という声を聞き、仮設住宅の閉鎖的な状況を打破すべく、皆が集まれる場所「みんなのいえ」を作っていく。しかもそれを、「くまもとアートポリス」という熊本県の建築やデザインによる地域向上をめざす事業に話を持ちかけ、実現していくという、縦割りの枠を超えた手法で。被災地以外の県がこういう形で被災地を援助する新しい形に光が見える。
今まで「建築が建築たる所以は自然の中に人間としての証を表現すること」だと著者は言う。建築の目的は外からの隔離で、それもグリッド(方眼)で仕切るような様式で行われてきたと。しかし、本来自然にはグリッドはない。著者は中と外との関係を考え直し、構造壁を木の枝のように枝分かれさせたり(TOD'S表参道ビル)、ゆらめくようなチューブと板とガラスで自然を表現する(せんだいメディアテーク)などの手法をとってきた。
洗練された建物、立派な建物はそれだけで広告塔で、権力や財力を誇示できる。しかし、それはやはり自と他を分ける行為にほかならない。本来外と内、自と他を分けるはずの建物の壁を限りなく曖昧にする、そういう域に近付くのも建築の形なのだと気付かせてくれた本であった。
余談であるが、この本を読む前、昨年の夏にせんだいメディアテークに行く機会があった。夫がそこで行う催し物を見に行くため偶然入ったのである。私はチケットがなく、カフェでお茶を飲んだり、ショップを見たりしていた。ホールをうろうろしたとき、チューブ状の柱を見て、何だろうと思ってはいた。惜しい、この本を読んでから見たかった。いや、きっとまた行く。伊東さん作の他の建物にもぜひ出会いたい。 -
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少し前の本ですが、学びある。
動物の世界は必然性の世界であり、
アルゴリズムが支配する世界であり、
強いつながりの世界である。
それは友達を作りたいなと思ったら自分と趣味の合う人たちを探してオフ会をやる世界です。
人間が人間らしいと思っているものの多くは誤作動の結果起きている。
だから人間らしい感情は根拠づけたり設計したりするものではない。
人間のコミュニケーションには誤作動がすごく多くて、その誤作動こそが我々の自由や生きているという事実を支えている。
だから、それをなるべく潰していくというのはまずいと思います。
そうした誤作動をどうこれからの社会に組み込んでいくかという話になると思いますね。
――『人間と機械のあいだ』で池上さんは、人間と機械の関係について「相互に影響を与え合って、人も機械も新たに生命化していくということはあると思う」とも述べていますね。
人間はスポーツの練習、たとえばスキーの練習をするとき、人は機械になりたがる。何度も機械的に同じ動きを繰り返すことによって上達していきますよね。逆に、これからの機械に人間が求めているものは多分、誤りの多い人間的なものです。生命は機械を志向して、機械には生命を志向させると考えると、人間も機械も「人工生命化」していくものなんだと思います。
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東日本大震災を通して筆者が見出した建築の本来あるべき姿が語られている
安藤忠雄の自伝で語られていた内容と一部通ずるものがある
現在の資本主義は技術万能の近代主義の都市を作り上げ、建築家はその経済、資本を目に見える形にする、その道具に成り下がっている
故に住まう人の心に寄り添うこと、建築の先にある生活、すなわちリアリティを感じること、社会とともに集団で作り上げるという本来の建築の形をおざなりにしてしまっているのだ
著者は震災復興における"みんなの家"プロジェクトを通して、建築が本当の意味で社会にもたらしているものを感じ取り、そこから湧き上がる信念を具現化し、さらに引き継ごうとしている
また、建築をつくるとは内外を切り分ける行為であるのに対し、著者は内外を隔てる建築の境界を極力弱いものにすることで、人々が自由で居心地よく過ごせる建築を作りたい、この矛盾を認識したうえであえてこのテーマに挑戦したいと考えており、それが彼を動かすエネルギーになっている。
✏建築家は皆、社会のためにと考えながら建築をつくっているのに、所詮は作品という個人的表現に行き着いてしまう。つまり近代的自我を捨てることができない。 -
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3.11後の被災地に於ける有名建築家の方々の建築について調べる機会があり、その中の一つ、伊東さんの「みんなの家」に興味を持ち本書を読むことに。
多分3.11前から伊東さん自身、現代の建築のあり方についてモヤモヤされてたのが、3.11が起こってその疑念が確信に変わったんじゃ無いかなぁと本書を読んで思いました。
使う側とコミュニケーションを取りながら創る、確かに効率や利益だけ考えれば特に現代では難しく避けられがちな方法ですが、使う側に寄り添ったからこそ、伊東さんの「みんなの家」は結果被災地の方々に受け入れてもらえたんだなぁと思いました。
伊東さんの丁寧な性格がそうさせているのか、これ程有名な建築家の方が書かれた本なのに堅苦しくなくスラスラと読むことができました。注釈も沢山載せてくださってるので、建築の知識が乏しい私でも読みやすかったです。 -
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ネタバレ読書途中。20人の講師による。一人90分の講演会の収録である。一気に読めるはずもなく、じわじわと読んだ。
姜尚中の講演のなかで、夏目漱石が奥さんをなぐっていたエピソードがあった。ノイローゼであったらしい。私は夏目漱石になれないけど、夏目漱石よりましだなと少し思った。考えかたとしてまちがっているのかな?どんな偉い人もほんとうにいろいろな苦しみにもがいていきているのだと思い直した。
20名全て役に立つわけでないが、中には、気に入る人もいるかもしれないとのことだろうか?3.11後の話など考えさせられたり。光触媒の話は興味を覚えた。文学、美術に関心を持った。宇宙論や素粒子の話は、わからないので、もういいとの気持ちであった。こんな講演会を聞けるのは、エリートの家の子供だからいいなとひがみたくなるが、本として出版されているので、誰でも接する機会があるのだと思い直す。マスターキートンにあった、「勉強はどこでもできる。便所でも」を思い出す。 -
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世界に誇る日本の建築界第三世代を代表する一人で、2012年度ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞を受賞した伊藤豊雄氏が、2011年3月11日の東日本大震災後に、今後の人間社会、そして建築についての思いを語ったもの。
伊藤氏は震災を、「東京が失ってしまった豊かさが東北にはまだ残っている。なぜ豊かかと問われれば、ここには人と自然とが一体化された世界が存在しているからである。人々は未だ自然の恩恵で生きていることを幸せに感じている。・・・東京のような近代都市の向こう側に見えてくる未来の街の萌芽は確実にここにある。二一世紀の人間社会のモデルは東京ではなく、東北の地にあることを、大震災は多大な代償と引き換えに私たちに教えてくれたのではないか。自然への信頼、人間への信頼を失った場所に人間の棲むべき未来があるとは考えられないからである」と捉えている。
伊藤氏は、二〇世紀の建築は、個人の独創性を最も重要な価値に据え、所謂アートと位置付けられてきたこと、かつ、それを抽象という言葉の下で、自然から切り離したものとして考えてきたことが大きな特徴であったが、それを徹底的に問い直す必要があるという。つまり、「建築の原初の姿は、共同で何かをつくり上げて、それを集団として崇め、またつくることが喜びでもあるという、共同性のあらわれだった」のであり、「建築家はアーティストと違ったかたちで社会に組み込まれている必要がある」と語る。
そして、釜石市の復興プロジェクトでのワークショップ、仙台市宮城野区の仮設住宅の人々と造った「みんなの家」、若い人たちに建築を教える私塾「伊藤建築塾」などの取り組みについて、具体的に述べられている。
二一世紀の建築の潮流は、二〇世紀のモダニズム的発想を大きく転換した「自然との共存」に向かっており、日本においては東日本大震災がそれをはっきりと知らしめたと言えるのかも知れない。
(2013年2月了) -
Posted by ブクログ
建築家でもこんなことが考えている人がいるんだぞ、と社会一般に示しているかのような本で、好感を持った。
だいいち、現代の建築家が書く文章にありがちな、必要以上の小難しさや気取った感じがない。
またそれに、「建築家や建築の"在るべき姿"をまず説いたうえで、その"在るべき姿"に沿っているのだという説明の仕方で自身の建築を紹介し、いかに素晴らしいかを説く」というのが、ありがちな現代の建築家の書き方に近いようでいて、実のところ本書では伊東の建築へのこれまでの向き合い方をも相対視されているというのが傑出しているところ。
とても正直な気持ちがつづられていると思う。
じっさい、伊東の建築スタイルも、せんだいメディアテークをきっかけに構造・素材だとか使われ方だとかに興味が向いてきたことや、東日本大震災をきっかけに地域社会への歩み寄りがなされるようになってきたこと等で、コミュニティ志向・地域志向が醸成されてきたというのが、端的な文章からもよく伝わってくる。
地域への歩み寄りと、その逆としての、(冒頭に語られた)東京への疎遠感というのも、正直な気持ちなのだろう。
また例えば、地域の入り方として、いわゆるヨソモノとして開き直るのではなく、いかにして地域に入り込むか(たとえばそのために、いかにその地域のことを知ろうとするか、あるいは演歌等も入り込むきっかけになるということ)も建築家が語っているというのも素敵なことだと感じた。