丸谷才一のレビュー一覧
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▼それこそ十代からの長い歳月で、丸谷才一さんの「一般向けの小説本」は多分あらかた読んでしまいました。相手がお亡くなりになっているから、そりゃいつかそういうことになります。
恐らくこの本が最後の一冊だったのでは・・・・そういう感慨がありました(笑)。
▼収録は以下
・横しぐれ
・だらだら坂
・中年
・初旅
▼「横しぐれ」
執筆当時の現代劇で、私小説風、ですね。
国文学者の中年男が主人公で、
<自分の父が戦前に道後で飲みかわした坊主というのは、山頭火ではなかろうか>
というミステリーに挑みます。
これはもう、語り口で載せていく不思議な日常ミステリー。
圧巻の筆力です。ただまあ、好みによっては面白くないでしょうが。
北村薫さんや米澤穂信さんに繋がる水脈はここにあるんぢゃないかと思いました。
▼「だらだら坂」
執筆当時の現代劇かと。
サラリーマンの初老の男性が回想する。
戦後直後の時代に、普通に堅気の学生が、ひょんなことから道元坂あたりで不良にからまれた。
で、相手をぶちのめした。
相手は死んだかもしれない。確かめていないけれど。
・・・・というだけの話をこれまた面白く読ませます。
ぎらっとした暴力の匂いがします。
▼「中年」
新聞記者、それも映画エンタメ系の記者。中年の男性。
この主人公が、若手俳優の恋愛結婚相談に乗ったりしている。
そんな一見コミカルな日常の中の、欺瞞や、ミソジニーや、嘘みたいなものを読ませます。
▼「初旅」
これはあまり印象に残らなかった・・・・
たしか何か不条理系の・・・
タイムスリップか何かの現象に、盛岡に人探しに来た少年の話がからんで・・・
そして何か曖昧に終わったような。。。 -
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「コアラ」が白眉だね
博学エッセー集。ただし、読者層は謎だ。
阿部定について、またぞろ書いてゐて、ほんとうに丸谷ってひとは陰茎切り取り事件が好きなんだらうとなかば呆れた。そして相変らずの吉行淳之介である。
白眉は、珍獣エッセー「コアラ」だ。
長篇『たった一人の反乱』のときに、ファッション雑誌のカメラマンとそのモデルのオーストラリア撮影に同行したとある。何を隠さう『たった一人の反乱』の主人公の妻は水商売の女なのだ。これは『たった一人の反乱』の取材旅行であり、丸谷の小説の女性観が水商売の女ばかりといふ傍證にもなるだが、いちばん面白いのはコアラのうんちくと丸谷の反応です。 -
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筑摩書房 日本詩人選
丸谷才一 後鳥羽院
新古今和歌集を中心として、後鳥羽院の歌を解説した本。古典主義的な歌を想像していたが政治色が強く、「承久の乱は、文芸の問題を武力によって解決する試みだった」という著者の見解に驚いた
後鳥羽院と藤原定家の違いを「後鳥羽院は最後の古代詩人となることによって近代を超え、定家は最初の近代詩人となることによって中世を探していた」としたことは とてもわかりやすい
著者が、和歌史上最高の作品としたのは、百人一首「人もをし 人もうらめし あぢきなく 世をおもふ故に もの思う身は」でなく
「見渡せば 山もと霞む みなせ川 夕べは秋と何思ひけん」上句と下句の衝突と調和を見出している
個人的には「鶯(うぐいす)のなけども いまだふる雪に 杉の葉しろき あふさかのやま」が 色彩豊かで わかりやすい
「我こそは 新じま守よ 沖の海のあらき浪かぜ心してふけ」も島流しに負けないメンタルを感じる
風雅和歌集
あはれ昔いかなる野辺の草葉よりかかる秋風ふきはじめん
*古代への思慕〜天地のはじめから現在までの厖大な時間を三十一音に封じ込める
新古今和歌集 春歌
ほのぼのと春こそ空にきにけらし天のかぐ山霞たなびく
*「ほのぼのと」は「春こそ空にきにけらし」「霞たなびく」の双方にかかる
新古今和歌集 春歌
さくら咲く とほ山 どりの しだり尾のながながし日も あかぬ色かな
*めでたい言葉「さくら」「とほ山」「しだり尾」「ながながし」「あかね」を続けた挨拶の歌の傑作
新古今和歌集 春歌
みよしのの 高ねの桜ちりにけり 嵐もしろき 春のあけぼの
*風に散る桜の花=日本人の美意識の基本
*春の夜明けの眺めは後鳥羽院の生涯の主題
新古今和歌集 秋歌
野はらより 露のゆかりを尋ねきて わが衣手に秋風ぞ吹く
*「野原」が冒頭にくる破天荒さ
*香をたきこめた袖に野の風がまつわる〜遠い野原から訪れる風は速い
*一句の俗が 「露のゆかり」「わが衣手」の雅と衝突
新古今和歌集 哀傷歌
思ひいづるをりたく柴の夕けぶりむせぶもうれし忘れがたみに
新古今和歌集
みるままに山かぜあらく しぐるめり都もいまや夜さむなるらん
*熊野詣りの旅の心
*都の人=広く都の人、後宮の女性
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Posted by ブクログ
赤穂浪士たちの討ち入りのときの衣装が火事装束だったことに注目するところから議論を説き起こし、彼らの行動の背景に『曾我物語』からの影響があったことを指摘しています。
ただし、『忠臣蔵』が御霊信仰を動機としているという本書の主張に対しては、諏訪春雄による厳しい批判が提出されています。また小谷野敦も、本書の議論の杜撰さをくり返し指摘しています。
そうした実証的なレヴェルでの問題はさておき、赤穂事件をもとにして『仮名手本忠臣蔵』が成立したという、歴史的事実と物語の関係を逆転させる著者の構想は、演劇的人間観にもとづいているといえそうです。本書の後半で『忠臣蔵』のカーニヴァル的な性格についての議論を展開していることも、こうした推測の根拠になりうるように思います。
このように考えると、蓮實重彦が『小説から遠く離れて』(河出文庫)のなかで、著者の『裏声で歌へ君が代』のもつ物語の構造に対して批判的な検討をおこなっていたことが思い出されます。本書でえがかれているのは、歴史が物語となったのではなく、物語が歴史となったということであり、ひとはあらかじめ物語の内に囲い込まれてしまっているという人間観が『忠臣蔵』にそくして論じられているということができるからです。その意味では、本書を導入として著者の根本的な文学観ないし人間観へと考察を進めていくことが可能ではないかという気がしています。