丸谷才一のレビュー一覧
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p93 しかし現代に生きているわれわれには、この犬の美しさが見えないのである。なぜかと言えば、この犬はあんまり身近な存在すぎるから。つまりそれは、日没や星のようなものだ。ぼくたちの目にとってあんまりあふれているから、その美しさによって畏敬の念を覚えることはないのである。
19世紀イギリスの、膝栗毛のようなユーモアあふれる船遊び。お金持ち紳士の遊び。
落としたワイシャツが誰のものかわかったときの笑いの交代、ほら話や昔話、船に関する笑い話いくつか、自分が働くときはさも重労働で、他人が働くときの手際の悪さを笑い、美味しいもの好きのハリスといつも寝ているジョージ、お互いに雑言を言い合って仲良しなんだなという感じ、読んでいて楽しかったです。この皮肉たっぷりのユーモアが古典になるのも頷ける。 -
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ネタバレ女子大生の皆さんと出会っていると、僕自身の無知もさることながら皆さんがモノを知らないことに唖然としてしまうことが多い。知らなくてもいいことかもしれないけれど、知っていたほうがいいことのひとつに文学史がある。
どの作品を誰が何時書いたか、そんなふうに要約されがちなジャンルだけれど、本来は違う。万葉集以来、ハハハ、大きく出ましたね、どれほどの書物が、この国において、文学の範疇として残されてきたのかしらないけれど、それが何故その時代の、その人物によって書かれたのか、そう考える所に文学史の意味があるのであって、そこが文学史の「史」たる所以というものだ。
文学を文化現象として捉える為の文学史。
そう考えると、もう亡くなって久しい、丸谷才一という小説家の名前がすぐに思い浮かぶ。「日本文学史早わかり」(講談社文芸文庫)、「忠臣蔵とは何か」(講談社文芸文庫)、「恋と女の日本文学」(講談社文庫)の三部作がわれわれ素人向けに書かれた丸谷流日本文学史の真骨頂。
たとえば、「忠臣蔵とは何か」では歌舞伎の演目としての忠臣蔵において、例えば討ち入りのシーンは何故あのような火事場装束という衣装の役者によって演じられたのか、ということを考察のきっかけとして、御霊信仰の文学的意味について懇切丁寧、且つ薀蓄山盛に語っていて、文化人類学がらみで文学史に興味を持っている人なら、読み出したら止まらないに違いない。
「恋と女の日本文学」では中国の古典文学には恋の話が極端に少ないのに対して、万葉から源氏物語に代表されるわが国の古典は「恋」だらけ。いったいこの違いはどうしてだろうというのが基本テーマ。
丸谷才一が言うには、この違いに関心を持った、おそらく最初の人物が本居宣長。「石上私淑言(いそのかみのささめごと)」(宝暦十三年・1763年)という「もののあわれ」について論じた書物の中で以下のように論じているらしい。丸谷才一現代語訳を引用する。彼は旧仮名遣いの人なのであしからず。
《人間が好色なのは、昔も今も、日本も中国も、みな同じだが、中国歴代の史書を読むと、あの国は日本よりも淫猥なことが少し多いやうである。ところがあの国は、何につけても倫理善悪のことだけうるさく言ひつのるのが癖になってゐて、好色のことなども例の賢ぶる学者たちが非難してあばき立て、憎々しい口調で厭らしさうに書き記す。さういうふわけだから、詩にしても、自然さういふ国の風俗に従い、堂々たる男子の雄々しい心構へについて言ふのが大好きで、それだけをあつかふ。めめしくて見つともない恋情の情など、恥ぢて口にしない。しかしこれはみな、表面を取りつくろい、偽る態度で、人情の真実ではないのに、それを読む日本人は深く洞察せず、中国の詩文にあるのを事実と思ひ込み、中国人は色情に迷ふことが少ないなんて判断する。馬鹿げたことである。わが国の人は何につけても寛大で利口ぶらないため、道徳をうるさく言ひ立てることもしない。人生の姿をありのままに表現した本のなかでも、歌にまつはる物語などはとりわけ「もののあわれ」を大事にしてゐるので、色好みな人びとの感情を率直勝つ流麗に書き記す。(以下略)》
宣長がこうした主張にいたった事情について、丸谷は二つのポイントを指摘する。
ひとつは西洋近代の恋愛小説を知らなかったにもかかわらず、こう主張した宣長の恋愛体験について。
もうひとつは宣長が日本の古典のみならず、漢文の書物についても非常に博学多識、勉強家であった点。
もちろん、日本文学に関する考察としてはここが始まりであって、宣長の影響下に明治の小説群もあったというのが作家の主張。
ついでの話だが、宣長が平安朝の美意識を評して使い、定着している「もののあわれ」という用語の出典は藤原俊成の歌だそうである。
恋せずは人は心もなからまし もののあわれもこれよりぞ知る 藤原俊成
この本の後半では、丸谷は「女の救われ」というテーマで今度は平家物語の悲劇のヒロイン建礼門院徳子めぐる考察を繰り広げる。これまた面白いのなんの、ハハハ、要するに皇后さんの男性遍歴についての考察なんですね。面白がり方が少しおっさんかもしれない。反省!
ともあれこの本は講演を元にしていて、読むのに手間がかからない。教養の間口を広げる読書としてはオススメ。(S) -
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丸谷才一 「 輝く日の宮 」 源氏物語の謎解きと共に、源氏物語という時代小説に隠された 人間の意図を 小説の随所に組み込んだ内容
源氏物語論だけでなく 文学論まで飛躍していると思う。文学=国家からの自立であり、風雅
著者の源氏物語論
*紫式部の生活と夢としての源氏物語〜源氏=藤原道長→女達=紫式部。安佐子と長良
*アジール論としての源氏物語=逃亡者を保護する領域(社会逃亡者を保護する社寺)
*反体制としての源氏物語〜国家=天皇、藤原氏。反国家=左翼、共産
*風雅や御霊信仰と結びつく源氏物語=松尾芭蕉
紫式部の生活と夢としての源氏物語
*源氏=藤原道長→女達=紫式部
*紫式部と藤原道長との関係性=雇用主、娼婦、読者、批評家、紙の提供者
安佐子=紫式部 という構造
*小説の中の小説(序章)は 安佐子の生活と夢の物語→源氏物語は 紫式部の生活と夢の物語
*国史学者(皇国派)の父と 国文学者の娘の関係性=安佐子と紫式部の共通性
輝く日の宮 の内容
*朝顔の姫君
*六条御息所と源氏の始まり
*藤壺と源氏の最初の関係
道長が 源氏物語から 輝く日の宮を省いた意図
*深手をかすり傷程度に見せるため
*余白により 味を濃くして 趣を深めるため
歴史(日本書記)と小説(源氏物語)の違い
*日本書記=藤原氏の支配下で語られる
*源氏物語=藤原氏の支配下になく、人間の愚かな面白いエネルギー
*文学=純粋、自立、隔絶
*歴史を読むとニヒリストになる〜人間は愚かなもの
芭蕉論
*文学というより風雅〜風雅=いろいろな価値と結びつく→遊戯性、嗜み(倫理性と美的が一緒になった)
*奥の細道の主題は 時間→「月日は百代の過客なり」という時間論に始まる
*芭蕉はなぜ東北へ行ったのか(奥の細道)→義経を弔う旅
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題名の『たった一人の反乱』は絶妙。誰かの個人的な決意とそれと独立した誰かの決意が相乗的に重なり、ユーモラスながら何処か悲哀に満ちた物語を紡ぎ出す。この「反乱」とは自我の芽生え、悪く言えば自分勝手な主張といえよう。
作品自体は中盤まで非常に退屈。しかしながら半分か三分の二を超えたあたり、ツルのある決意から物語は面白くなってくる。本作品を読むと赤塚不二夫氏の漫画を思い出す。学生運動や授賞式のくだりなんか、もうわけがわからない。散漫にして奔放。なぜこういうプロットになるのか。理解に苦しみながら、またそれが面白い。丸谷氏の魅力はこのナンセンスさにあるのかもしれない。 -
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・池澤夏樹=個人編集「日本文学全集 02」(河出書房新社)は 池澤が「初学者に向けた和歌入門のつもりで編集した。」(池澤夏樹「解説」419頁)書である。折口信夫「口訳万葉集」、小池昌代訳「百人一首」、丸谷才 一「新々百人一首」の三作を収める。和歌入門といふだけあつて万葉集から勅撰集までといふ、正に和歌といふにふさはしい時代と作品を扱つてゐる。実際に歌 を詠まないのならば、これで十分である。折口のはいささかぶつきらぼうであるが、他は丁寧に解説し、小池はすべてをきちんと訳す。丸谷は必ずしも訳すこと をしないが、その内容は多岐にわたる。そこから自然にその歌の意味も見えてくる仕掛けである。ただし、折口と丸谷は抄本である。丸谷のはその全体を知ることができない。大部の書なのであらうから、ここに収めることができないのであらう。これが残念な点である。
・折口「口訳万葉集」の訳を読みながら思つたことがある。助動詞の訳し方である。例へば有名な大伴家持「酒を讃める歌」の「しるしなく物思はずは」の最後 を折口はかう訳す。「飲んだ方がよいにきまっている。」(34頁)この部分は「飲むべかるらし」である。「らし」は(根拠のある)推量の助動詞である。その前に当然の「べし」がある。そこから「きまっている」となつたのであらう。ところが、これも有名な持統天皇「春過ぎて夏来たるらし。」(19頁)は「今夏が来ついたに違いない。」と訳す。ここに「べし」はない。ただし、下の句の「衣乾したり」が「らし」の根拠としてある。これで「違いない」となつたのであらう。同様のは、舒明天皇「夕されば、小倉の山に」(52頁)の最後「寝ねにけらしも」がある。ここでは「今宵は鳴かず」がその根拠としてあるから、 「もう寝てしもうたのに違いない。」となる。他にもあるが、「らし」はすべてこのやうに訳されてゐる。つまり推量であるより、根拠があるゆゑに、当然の物事として確信を持つ意の訳になつてゐるのである。これは文法的にはまちがひと言ふべきであらう。たとへまちがひとしなくとも訳しすぎとは言へる。折口の学者としてよりは、詩人、歌人としての感性の為せる業なのであらう。万葉集に句読点を導入してゐるのも歌人として読んでゐるからであらうか。簡潔、明瞭、いささかの古めかしさが折口らしさを際立たせる。抄出であつてもおもしろい。これに対して丸谷のは丸谷オリジナル選である。「新々」と付される所以である。 解説は長短様々、実に丁寧に説明する歌もある。ここはその5分の1、20首を採る。私はまともに勅撰集を読んだことがないから、これだけでも知らない歌ば かりである。完成に20年かかつた(257頁)といふから、丸谷はよほど読み込んだに違ひない。例へば二条后「雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる泪いまやとくらむ」(258頁)は20頁以上にわたつて解説が続く。その間に引用された和歌は何首あるのか。これだけでも大変である。最初のこの歌の基本的事項を記す。収められる歌集や使はれてゐる技巧等についてである。これは教科書的な必要事項であらう。そしてその先が長い。延々と続く。勅撰集等をよほど読み込んでこれを書いたに違ひない。「○○のうちに」に始まり、「うぐひすの泪」に移る。これが契沖の説から始まつて、「おそらく鳥の泪は平安初期の歌人たちの発明にかかる。」(262頁)となつたところから更に続いていく。一体どこまで続くのか、限り知られずといふ趣である。それだけにこれもおもしろい。このやうな和歌入門編である。本当の初学者はホントに大変な覚悟で読み進める必要があるかもしれないと思ふ。 -
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反乱。それは秩序への反逆。あるいは自由への疾走。あるいは理由なき破壊衝動。あるいは……滑稽な喜劇。
登場人物の一人ひとりが引き起こす滑稽な反乱はカーニバル的であるが、その中から期せずして市民社会の中に潜む欺瞞が一つひとつ暴かれていく。しかし、市民社会が欺瞞に満ちていることを認めた上で、それに代わる新しい社会は構想しえないのだから、この市民社会を大切にしていこうとする主人公のセリフは、時代背景(本書刊行は1972年)を考えると、著者の当時の学生運動に対して向けられた言葉でもあるのだろうと思う。
だが、当初は人一倍体裁や世間体を気にして臭いものに蓋を閉め続けていた主人公が、終いには囚人を利用するというあけすけな行動に出ることができたのは、「欺瞞を利用する」という狡知を身につけたお陰ではなかったか。反乱を経て、反乱のおかげで、既成の秩序が強化される。この主人公の内面における秩序の強化は、そのまま市民社会の秩序が新しく生まれ変わったことをも予感させる。