丸谷才一のレビュー一覧
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とても面白かったです。特に「源氏物語」ファンにはタマラナイでしょう。僕はそうじゃないんですけど、舌を巻きました。
やっぱり丸谷才一さんは、凄いなあ、と。なんていうか、好きか嫌いか、という趣味の問題はもちろんあります。
なんていうか、ソコと別次元で、「知っている」「考えている」「自分の趣味を貫く」「肩の力が抜けている」「小説である、ということに意識的である」「モラルがあるが、押し付けない」とでも言いましょうか。
2003年発表の小説だそうです。舞台は、まあだいたい1980年代~1990年代です。
主人公は、杉安佐子、という名前の、日本文学者。つまり大学の教員さんです。30代~40代くらいの感じです。
若い頃に同じく大学の学者さんと恋愛結婚したけど、子供が出来る前に離婚したようです。バツイチ独身さん。
専攻は18~19世紀日本文学。つまり江戸時代から明治時代ですね。
「事件として起こること」で、言いますと。
●「奥の細道」の解釈を巡って、大家の先生と摩擦を起こしてしまう。その発表を巡って知り合った学者の男性とのロマンス。
●「源氏物語」の解釈、特に存在したかしていないかが議論になる幻の章「輝く日の宮」について、同じく女性の源氏研究家と大激論対立してしまう。
●ミネラルウォーターを売る会社の重役の年上独身主義の男性とのロマンス、結婚するかしないかのお話。
以上、です。
杉安佐子さんの人生とロマンスを追っていきたい、という読み方をしていると、とても焦らされます。
彼女の研究内容と思索の内容に、大幅に脱線していくからです。
そうなんだけど、それが実は脱線じゃなくてなんとなく関連がある。
そして、焦らされるけど、ちゃんと満足させてくれる。
そして、脱線かと思われた内容が、実はこの本のいちばんの狙いなんだなあ、と。
それは全て、純粋にある科学実証的な事柄ではなくて、それが芭蕉であれ紫式部であれ、ある心情というか、ブンガクと人生というか。
そういう内容に収斂していきます。まあとくに源氏物語なんですが。
結局それが、人生と恋愛というか、人生の皮肉というか、老いだったり、エロスだったり、孤独だったり、社会との関係だったり、すれ違いだったり。
そういうある風景に見えてきます。
そしてそれを、書き言葉、日本語で表すということの面白み、つまり小説という愉しみというか、その快楽の不思議さというか、その愉しみ自体を眺める興味深さというか。
そういうところにじんわりと沈殿していくような。大人な愉しみに満ちています。
ちなみに、章ごとに文体が変わります。一人称だったり、三人称だったり、作者が語り込む形式だったり、戯曲になったり。
遊び心に満ちていますが、それが後段は源氏物語という巨大な謎と格闘する主人公の思索に生きてくるような感じです。印象ですが。
主人公は、父親も学者さんで、何だか資産家です。全然生活苦はありません。イイ御身分です。
そういう意味では呑気な話です。
だからそういうところでつまずいちゃう読み手だったら、どっちらけだと思います。僕も、ある年代まではそうだったかもしれません。
でも、そういう次元を超えたところで、人間ドラマというか、大変に豊穣です。
と、ここまで書いて思いましたが、要するにここ20年くらいのウディ・アレン映画の味わいですね。
僕にとっては無上の楽しみです。
文庫版で読んだのですが、鹿島茂さんが解説を書いています。
それを読むと、「ああ、俺はまだ、この小説の持っている滋味というか、愉しみを満喫できていないなあ。また10年後、20年後に読んでみたいなあ」と思いました。
でも、それは読みながら実は半ば判っていたことだったりします。
また、作者の丸谷さんも、そういう風に受け取られることは百も承知で書いています。きっと。
それでも十分面白い。また読みたくなって、この小説の中で言及されている本をまた読みたくなります。
謎が残ります。判然としません。すっきりしません。でもイイんです。だから面白いんだなあ、と思います。
判らないところ、もやもやするところが快感です。
そういう意味では僕は、村上春樹さんの小説にも似ているなあ、と思います。
レイモンド・チャンドラーさんもそんな気がします。
そして、コレは小説でしかありえない表現だなあ、と嬉しく思います。
そんな小説でした。
昔々、谷崎潤一郎版で「源氏物語」を読んだんですが、内容の99%は失念しています。
またいつか、何かの翻訳版で良いから、読んでみたいなあ、と思いました。
なんていうか、「ああ、このままずっと読んでいたいなあ」という文章ですね。
日本という国が、風土が、文化が、素敵だとかそうじゃないだとか、そういう議論をするならば、こういう本を踏まえてしたいなあ、と思いました。 -
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本を切らしてしまった。読むに価する本をどうにかして調達せねばならぬ。そういうときどうするか。私なら書評に頼る。新聞や雑誌には書評欄というスペースがあって、週に一度は新刊の紹介記事が載っている。何度か試すうちにお気に入りの書評家が見つかる。そうなればしめたものだ。彼らの紹介する本を探して読めば、まず大概外れることはない。
ところで、何もすぐに書店に向かう必要はない。書評はそれだけで立派な読み物である。ここに採りあげたような書評だけを集めた本もある。古くはホメロス、聖書から、ナボコフ、バルガス=リョサ、それにカズオ・イシグロまで、百冊を越える書物の書評が収められている。
巻頭を飾る「イギリス書評の藝と風格について」は、云わば「書評」論。イギリス書評の伝統と現在に範をとりながら書評のあるべき姿を問う。そこに書かれた「四条件」は、丸谷の書評について解説を依頼された誰もが引用したがる決定版である。そのひそみに倣って引く。第一は、再話性。どんなことを書いた本なのか、読んでなくても人に話せる程度の内容紹介が必須だということ。ネットに溢れる書評には最低限のこれすらないものが多い。第二は評価。これのない書評はないがそれだけに難しい。第三は文章の魅力である。流暢、優雅、個性の三つを兼ね備えるのが理想だが、この辺で書いていて恐ろしくなってくる。そして、最後に来るのが批評性。「それは対象である新刊本をきつかけにして見識を趣味を披露し、知性を刺激し、あわよくば生きる力を更新することである」。
数が増える順にクリアするのが難しくなるが、当の丸谷の書評に最も顕著なのは、四の批評性の素晴らしさ。厖大な知識量に、持ち前の批判精神が相俟って他を寄せ付けない。
もちろん文章の魅力にも事欠かない。書き出しから結びまで、頼まれ仕事も多いだろうに、気を抜かず、最大限にその藝の力を発揮する。たとえば、チェーザレ・パヴェーゼ作『丘の上の悪魔』の書き出し。「若さを失つた読者はこの長篇小説を読んではいけない。青春の風がまともに顔に吹きつけて来て、息苦しくなるから」。読むなと云われれば読んでみたくなるのが人情というもの。レトリックで惹きつけるこの手にのせられて、パヴェーゼを手にとった中年読者は評者一人ではないはず。
書き出しがあれば、結びもいる。「海外篇」だから、翻訳についての評価は欠かせない。ウィリアム・モリス作『世界のかなたの森』の結び、「小野二郎の訳は推奨に価する優れたもの」のような、作家お気に入りの型を持つ。時に「推奨」が「嘆賞」になったりする。書名『快楽としての読書』は、中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』の結び、「その偉大な、そしてほとんど未紹介の詩人を、彫心鏤骨の、しかも生きがよくて清新な訳で読む。快楽としての読書といふべきか」からとられたにちがいない。
自薦書評集だけあって評価の低い本はない。ただ、それだけに誉めてなければ訳の評価は高くないと分かる仕掛けだ。内容については、特に出版する側の意向もあるのだろうが、訳書の題名のつけ方に注文が多い。かつて自著の『笹まくら』という題名に文句をつけられた恨みがあるのかもしれない。内容紹介については実直そのもの。ネタバレには注意しながらも、ほぼ粗筋は分かる紹介ぶり。これなら読まずとも人に語れよう。
ジョイスはもちろん、ナボコフ、マルケス、バルガス=リョサ、エーコと愛読する作家の既読の本の書評を読み、なるほど、そういう見方があったか、と改めて書棚に手を伸ばすことも一度ならずあった。一冊で何冊分も読書の愉しみを味わうことのできる至福の書評集である。 -
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帯に「追悼」の二文字が入った、これも文庫オリジナル編集の「追悼」本。早川書房の「エラリー・クィーンズ・ミステリ・マガジン」をはじめ各社の雑誌等に寄稿したミステリ関係の書評・評論を時代、内容ごとに改めて編集したものである。その多才さは知っていたものの、こうして集められたものを読むと、ミステリー愛好家としての丸谷才一の一面が、他の顔にも増して強く浮かび上がってくる。
冒頭に「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」シリーズを語った鼎談を収める。これも今は亡き瀬戸川猛資と向井敏を相手に、趣味を同じくする者同士が座談に興じる様子が伝わってくる好い企画である。
鼎談を別にすると、他は五つの章に分かれる。初期の書評を集めたⅡ「深夜の散歩」とⅤ「ミステリー書評29選」が書評、Ⅲ「女のミステリー」、Ⅳ「ミステリーの愉しみ」、Ⅵ「文学、そしてミステリー」が評論ということになろうか。
書評は英米のミステリーが中心になるが、評論においては日本の推理小説界の動向にも批評、提言を惜しまない。タイトルに「ミステリー」とついているが、エリック・アンブラーやイアン・フレミングといったスパイ小説作家にも扉は開かれている。もともとミステリーと純文学、大衆小説、中間小説といった類のジャンル上の垣根は丸谷にとって、どうでもいい区別であった。
好きな作家については重複をいとわないのが、大作家であってもファン心理というのは変わらないことがうかがえて微笑ましい。特にチャンドラーについては何度も触れ、「これが文学でなくて何が文学か」と、その文学の魅力を称揚し、村上春樹を筆頭とする日本の作家への影響力の強さを語る姿には力が入っている。
丸谷がミステリーを愛するのは、読んでいて愉しいからであって、そもそも読んでいて面白くないものは文学としての価値がない。鹿爪らしい顔をして、つまらない文士の日常の瑣末な身辺雑事をみじめったらしい筆使いで書き綴った「私小説」が、日本の文学を生きる上での色あいや潤いの乏しい、狭量な世界に閉じ込めてしまったことに対する不満が、この人にはある。
それに比べ、食事や酒、社交の席上での会話、音楽等々、人をして人生を愉しませてくれる種々の薀蓄を存分に語ることのできるミステリーは、何をおいても外すことのできない文学ジャンルである。ハヤカワ・ポケット・ミステリが、アメリカについて知る上での最も手軽な参考書であった時代を語り、日本推理小説界の大御所である松本清張と横溝正史を分けるのが、ハヤカワ・ポケミスに代表されるアメリカもののミステリ受容の有無であることを論じてみせる弁舌の爽やかさは、酒杯片手の上機嫌さにだけよるのではない。
この本、タイトルにつられて、ミステリ小説の解説本と思ってしまうと、ちょっともったいない。特に最終章「文学、そしてミステリー」は、グリーン、チェスタトンあたりはミステリーに分類されるだろうが、エーコ、清張、大岡昇平に至ると、いわゆる文学というものを読み解く作業に、「ミステリー」という「解読格子(グリッド)」を用いたとき、どんな読みが可能になるかという、その実例を奔放華麗に見せてくれる。松本清張をかつて人気を呼んだ社会派推理小説の重鎮などと括って済ませているのが、いかにつまらないことかを教えてくれる「父と子」など、ミステリ嫌い、純文学好きの読者必読といえよう。 -
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この本を読む前に、痴呆の祖母とこんな話をした。
「一郎さんは?」「死んだ」「次郎さんは?」「死んだ」「三郎さんは?」「死んだ」………。十吉さんまで実在してて、皆ことごとく死んでて、私も祖母も近くで話を聞いていた両親も、それで大笑いした。
この本を読んだ後には、父親とこんな話をした。
「形式と内容はどっちが大切?」「内容が大切なら、どこか体育館みたいな広い所にゴザ敷いて“世界はひとつ”とか言ってみんなで暮らしてれば良いけど、そうじゃないから、みんな同じ形の家をそれぞれ建てて別々に住んでる。まぁ、何より大切なのは、工期だけどね」元現場監督の立場から父はそう答えた。
もうすぐ30才で、ソンタグを読んで、ワイルドを読んで、祖母や父とそんな会話をして、『年の残り』を読んで、そしてこの本の269ページから270ページに続く丸谷才一の文章を読んで、私は涙がこぼれそうになるほど感動した。 -
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「わたし」は、中世和歌や連歌を専門とする国文学研究室の助手。父の通夜の席で、父の友人であった国文学の黒川先生に思い出話を聞く。実は、戦争が激しくなるちょっと前、黒川先生は父と連れ立って郷里の松山を訪れたことがある。そのとき、道後温泉近くの茶店で一人の乞食坊主に酒をたかられた話を以前に父から聞いたことがあるのだが、たいそう話の面白い坊主で、特に将棋指しの手拭いの話が面白かったという。
将棋指しに限らず無宿者は、旅の間一本の手拭いを用意し、一夜の宿を借る際に手向けとして差し出す。宿の主は翌朝そのまま返す、という慣習がある。評者は『ひとり狼』という映画でこれを知った。旅の将棋指しは、手拭いを洗濯中で、どうせ返ってくるものと思い、たたんだ褌を差し出したが、あいにく留守を預かる家人はこの慣習を知らず、受け取ったまま返さないので褌ができず困った、という与太話である。
お楽しみはこれからだ。その日、強い雨が降った。これを「横しぐれ」と評した黒川先生の言葉に、旅の僧がいたく感嘆したという。後日、調べ物をしていた「わたし」は、『現代俳句集』のなかにある種田山頭火の句に「しぐれ」を詠んだものが多いことに気づく。略暦を読むと、そこに「昭和十五年松山一草庵にて頓死」とある。ひょっとしたら、父が出会った乞食坊主とは、山頭火その人ではなかったか、と思いついた「わたし」は、関連する書物を集め、その証拠を固めようとするのだった。
昭和四十二年に新聞に連載された記事がブームに火をつけたようだ。世に山頭火ブームともいうべき現象が現れた。山頭火はテレヴィ番組やマンガにまでなった。尾崎放哉もそうだが、世人は自由律俳諧というより、専ら世捨て人めいたその生き方に興味を引かれたのではなかろうか。
しかし、多分に作家その人を連想させる「わたし」の興味は、純粋に学問的関心らしい。源三位頼政の歌にある「横しぐれ」という歌語が、山頭火の俳句のなかに果たして存在するか。また、道後温泉で父が出会った大酒のみの旅の僧は山頭火本人だったのか、国文学者らしい実証主義で文献を渉猟してゆく。このあたり、謎解き探偵小説のようで実にスリリングである。
反戦主義者であった黒川先生とぶつかったことから、その坊主は右翼だったろうと見当をつけ、山頭火と日本浪漫派の関係を探ったり、山頭火の日記から松山での足取りを追ったりするが、謎は深まるばかり。とうとう研究者にあるまじき類推に走る「わたし」に、定家論を出版したばかりの仏文学者が同調し、「しぐれ」は「死暮れ」だとか、「よこし」は「横死」ではないかと、言葉遊びめいた極論が飛び出すところまでいく。この仏文学者も丸谷の分身で、二人の会話によって論調が変化するあたり、丸谷の文学評論を読む面白さである。
探索の果てに、「わたし」は、思いもかけない父の側面を知ることになる。それは自分の人生の一部分を形成する大きな出来事であった。年少の「わたし」には知らされなかった事件は、しかし「わたし」が自分の進路を選ぶとき無意識の裡に影響を与えていたのではないか。
文学ミステリの意匠をまといつつ、山頭火の文学とその人物を深く掘り下げるとともに、「私小説」めいた身振りを装い、作家自身を思わせる主人公の人間形成の履歴にメスを入れるという手の込んだ中編小説。反戦思想と歌語という主題は、『笹まくら』とも共通する、いかにも丸谷才一らしいアクロバチックな趣向である。人と「死」の出会いについて様々な思いをめぐらせた一篇。他に「だらだら坂」「中年」「初旅」の三篇を収める。 -
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先年、高校時代の国語の先生に「書評は毎日新聞が一番ですネ」と申し上げたら先生曰く「そりゃアンタ、丸谷才一が仕切ってるからヨ。」と。
そういう見方をしたことは無かったもので、その際は「ふーん」と思った程度だったのですが、本書「快楽としての読書」を読むと、丸谷の影響力の大きささがじわじわと分かってくるのであります。
今現在、丸谷は毎日書評顧問のを池澤夏樹に譲っていますが、その池澤をはじめ、鹿島茂、池内紀らが昔書いた本の書評も、本書に収められております。 これにより、毎日丸谷ファミリーとなる前の彼らを、丸谷が早くから買っていたことがよく分かるのであります。
それにしても本書のタイトルは頂けない。もっと別の書名があったと思うのであります。
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日本文学(主に19世紀)研究者・杉安佐子は、日本最古の長編小説・源氏物語には「輝く日の宮」という巻が存在していたと考えていた。長良との恋に悩み、研究者との論戦に遭遇しながらも、幻の一巻を求め研究を続ける。やがて紫式部と時の権力者・藤原道長の関係に、安佐子は答えを見つけ出す――
初めての丸谷才一だったのですが、歴史的仮名遣いをふっつーに使っているのであぜん!としました。でも1925年生まれですのでむしろこちらの方が普通なんでしょうね。冒頭が思いっきり文語調で始まるのでもうこの時点で挫折臭がすごくて(笑) ですがちゃんと読まないと!!と投げたくない性分ですので読み進めたら、これが面白い面白い! ただ中盤にならないと輝く日の宮の話にならず、芭蕉の話だったりほかいろんな文学の話だったりするので、これ本当に輝く日の宮の話なん??ってなりますw
もうほんとに面白くて、章ごとに書き方が変わるのも興味深かったです。爆笑してしまった表現とかもありますしw 特にガラッと変わったのはシンポジウムのところですが、台本みたいに書く方がそれっぽく伝わりますね。また表現も素晴らしいのでとにかくメモが止まらなかったし、ネタの構想も膨らみました。あと読んでて、やっぱりもっと日本文学研究したいなあ…と。この本を読んでて大学の授業を受けているみたいだったからだと思う。源氏にa系列とb系列があって、それぞれ出来た時間が違う、なんてのは初めて知りました!
最後は「輝く日の宮」を少し書いて終わっているのですが、安佐子が道長と式部の姿を幻視するところがとてもロマンティックというか幻想的で、なるほどこういうところがあったから鏡花賞を受賞したのかもななんて思ったり。式部が「(来世があるなら)その時こそ「輝く日の宮」をちゃんと書き直したい」と言ってて、そして安佐子がオリジナルで「輝く日の宮」を書くのですが、ああもしかしたら安佐子こそ式部の来世なのかもな…!と感動しました。
ちなみに私は「輝く日の宮」は存在していたと思ってます。今月京都に行って源氏物語ミュージアムにまた行くから源氏熱あげとこーと思ったら、こんな学究心くすぐられる作品に出逢えるなんて。たんなる小説ではなかった。カテゴリも一応小説にしておいたけど、本当なら研究書にしたいところです。あ、ちょっと北村薫の「六の宮の姫君」に近いのかもね。 -
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教養小説としても中身の濃い1993年の作品。
熟年の働く女性を恋もする美しく魅力的な存在として描いたので話題になった印象があります。
新日報の新聞記者の南弓子は、45歳で論説委員になる。
同時期に論説委員になった浦野は、取材記者としては名物男で優秀だが、じつは文章を書くのは苦手で有名な男。
苦笑しつつ手を入れるのを手伝う弓子。
この二人の出世は順当な物ではなく、派閥争いで有力候補が取り除かれた果ての偶然という内部事情もあったという~大会社では意外にありそうな?なりゆき。
弓子は若い頃に見合い結婚をして娘を生んだが、まったく家事を手伝わない夫に家庭に入ってくれと言われて離婚。
以来独身だが、20年来の愛人がいる。週に一度講義に上京する哲学教授・豊崎と逢瀬を重ねていたのだ。
取材で知り合った各界の魅力的な男達と友達付き合いを続ける~魅力ある女性。
彼のことで悩んでいるときに論説で筆が滑り、中絶問題について穏当でない言い回しをしてしまう。
最初は問題にもならないというのも社説を真面目に読む人は少なく社長も読んでいないせいとは笑えるが、どこかから圧力がかかって、閑職にとばされそうになる。
どこからなぜ圧力がかかったのか?人脈を駆使して、弓子の闘いが始まる。
弓子の伯母である往年の女優や、裏社会の浅岡、娘の千枝とその恋人候補が会いに行く書家や、はては首相の田丸など、さまざまな人物がそれぞれに面白い。
更年期障害の豊崎の妻や、子供のようになってしまっている田丸の妻など、妻としての人生にも陰影のある描き方。
日本の歴史や社会についての考察もあちこちにちりばめられていて、読み応えがあります。