佐藤賢一のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
■はじめに
ここ数年、司馬遼太郎を批判する記事をよく目にする。決まって登場するのが、いわゆる「司馬史観」。まあ、佐高信さんのように筋金入りの司馬遼太郎嫌いもおられますが…。
歴史小説家は数多いるのに、なぜ司馬遼太郎がこれほど槍玉に挙がるのか。「国民的作家」ゆえ、その歴史の見方が史実そのもののように定着することへの警戒なのか。
ただ、僕は「歴史小説は史実を踏まえたフィクション」だと思っている。人物や出来事に対する、作家なりの見立てを物語にしたもの…と。
司馬作品の主人公には、どこか共通する魅力がある。大きな視野を持ち、信じるところに従って生きる清廉さや爽やかさ。それが竜馬であり、河井継之助であり、土方歳三だった。
とはいえ、維新回天をひとりの英雄がやってのけられるわけでもない。『竜馬がゆく』も、僕には幕末青春エンタメ小説。高二の夏に夢中で読んだけど、竜馬を礼賛したり、信奉に向かうことはなかった。
小説なんだから、それでいいんじゃないの。なぜこれほど目くじらを立てるのか。
そんな長年のモヤっとした疑問から、本書を手に取った。
■内容
ふむふむと思うページのドッグイヤーが、みるみる増えていった。
とりわけ腑に落ちたのが「会話」の話。史料をたどっても、その場にいた人々の思いや言葉までは分からない。作家が想像を働かせ、会話や心の動きを書き込むことで、歴史上の人物は「小説の登場人物」になる。
その想像を支えるのが、膨大な史料や文献。時代考証は、つじつまを合わせるだけでなく、その時代の人間を理解する補助線にもなる。調べるほど理解が深まり、愛着も湧く。史料の中の人物が血の通った人間になる。そこが歴史小説の醍醐味。
そして、我が関心の「史観」。
過去の出来事をどう捉え、評価するかという歴史の見方。本書は司馬史観も、時代ごとの評価の違いから読み解く。
戦国や幕末維新の躍動を描く眼差しと、昭和の戦争に向ける厳しい眼差し。その違いには、司馬自身の戦争体験が深く関わっているという。
さらに、当事者の記憶や国内外の歴史認識が絡み合う昭和の戦争を、物語として描き、評価する難しさにも話は及ぶ。
一方、敗戦後の日本人に、自国の過去を肯定的に見つめる視点と、希望や誇りを与えた司馬作品の役割にも触れる。
「司馬史観」の功罪は、作品が読まれた時代や、読者が求めたものも含めて考える必要がある。
■感想
「歴史は勝者によってつくられる」と、よく言われる。
勝った側の正義や理屈が、語り継がれる歴史の形を左右する。ただ、その評価も不変ではない。後世の検証で英雄の功績が問い直され、敗者の汚名が見直されることもある。
歴史小説って、「物語」という器の中で歴史を語る。魅力的な人物に引っ張られ、その喜びや無念に没入するうち、人物像や時代の見方まで受け入れていることがある。
これが物語の魔力。「フィクションとして読んでいる」と書いたものの、さて、どこまで線を引けているのか。竜馬を信奉してはいなくても、幕末を見る眼差しに、司馬作品の影響は明らかに残っている。
例えば幕末も、倒幕派から描けば、新しい時代を切り開く志士の物語。幕府側から見れば、秩序を脅かす勢力と、それを食い止める者たちの物語になる。
勤王の志士も、見る側によっては危険極まりない襲撃者になるわけだし。
結末を知る我々は、明治維新を、そこに至るべくして至った歴史として読んでしまう。でも、渦中の人々には、次の時代の姿なんて見えるはずもない。
物語に引き込まれながらも、これは「誰の目から見た歴史」なのか…と考える。本書が促す「自分なりの史観を持つ」という姿勢を、僕はそう受け止めた。
■最後に
歴史小説の「ウソ」は、歴史を知る入口としては良薬になる。でも、描かれた人物像や時代の見方が唯一のものとして固まれば、毒にもなる。
ならば、別の作家が描く「ウソ」も読んでみる。同じ人物の“違う顔”に出会い、英雄の物語を敵方の目線から眺めてみる。そうして、自分の中にでき上がった歴史の見方を、ときどき揺さぶってみる。
普通、ウソを重ねれば、どつぼにはまる。ところが読書では、重ねるほどに思い込みから抜け出せることもある。
そう考えると、書棚にこんこんと眠る積読本にも、もう少し出番を与えなくては。 -
Posted by ブクログ
本能寺の変後に堺に取り残された徳川家康一行が苦難の末、本拠地の三河に帰還するいわゆる「神君伊賀越え」には、七人の忍びの知られざる活躍があった、というていで、忍びの忍びらしい技の数々含めてエンタメチックに描き出していて楽しめる。手裏剣はもとより毒や爆弾、あげくに●まで●んでしまうとは、ちょっと行き過ぎ感もありつつ、これはこれで懐かしの忍者活劇をバカバカしくなる寸前でリアリティすら感じるエンタメに昇華しているのは、作者の技量ならではと言えるのではないでしょうか。忍びの視点から見た本能寺の変〜伊賀越えを見てみると、新たな可能性の気づきもありバランスの取れたエンタメ作品と言えると思います。
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Posted by ブクログ
「歴史学」と「歴史小説」と「歴史」の違いを語る本。3つ目の「歴史」に疑問符がついたまま読み進めていたが、“歴史学者”と“歴史小説家”と“歴史家”の違いといったほうが解りやすいか。
“歴史学者”と“歴史小説家”の対比は以下のようなものだった。
“歴史学者”は、現代に残された史料から、その時代に起きた出来事(史実)を明らかにする。屍者に対する解剖学者に喩える。サイエンスの領分。
“歴史小説家”も、現代に残された史料を調査するが、その時代に生きた有名/無名の人々の姿・心を引き出す。屍者に対する霊媒師に喩える。アートの領分。
そして、この二者の扱う範疇に入らない「歴史観」の担い手として著者が想定するのが“歴史家”。「歴史観」とは「歴史を評価する」もの。「評価」というのは主観的なものであって、客観的なサイエンスの領分にいる歴史学者には扱えない。また、歴史小説家は「ウソ」を扱うアートの領分にいて、「史観を打ち出す」立場として適切でない(「司馬史観」として知られる司馬遼太郎も、その小説中で歴史観を述べる箇所は「余談ながら」と断ってから始めるのだったし、向けられる批判も少なくなかった)。そこで、“歴史家”――かつてはそういう肩書の人がいたが、現代においては「自分なりの史観」を持つべきは読者各個人――なのだと説く。
ざっとこんな話。で、まだまだ歴史観を持つほどには歴史(学/小説)に触れていない私にとっては、歴史小説というものの位置づけが腑に落ちたのが良かった点。歴史小説はSF(サイエンス・フィクション)の一種(p.149)というのは、一読者にとってのヒントになると思う。(ただ、いわゆるSF(理系のほう)はどこがフィクションか解りやすいのに比べて、歴史小説は、どこまで史実でどこから「ウソ」なのか、歴史シロートには判断がつかないという取っ付きにくさは残るかな…。) -
Posted by ブクログ
16世紀のカルチエ・ラタンを舞台に、夜警のドニ・クルパンと神学僧ミシェルの活躍、神学の周辺を描く。今も残るパリの風景と当時の時代背景が縦糸に、ノートルダムの鐘突き男やダヴィンチ、ザビエルやロヨラ、カルヴァンなど、フィクション、ノンフィクション取り交ぜて誰もが知る人物が横糸になり、貴族から宗教者、庶民の暮らしぶりを現代の感覚で平易に描いていて読みやすい。フランソワ1世が捜査の現場に現れてしまうあたりがなかなか大胆なフィクションだが、“勧善懲悪”の気持ち良さで気軽にスルー出来る。
終盤の神学論争は、現代における宗教の捉え方や、人間の欲と存在意義を重ねて考えることもできるかもしれない。