渡部昇一のレビュー一覧
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憧れます「知的生活」。
本当は今の職業を選んだのだって、多少なりともそういう部分があるかなという期待があったわけですが、現実は全く違いました。
これを読んでいると、やはり研究者とか大学の先生くらいしか、こういう生活は送れないのかなあ。
しかし、あまり難しいことを考えるのも私にはできそうもありません。やはり、知的生活はあきらめるしかなさそうです。
この本は、いろいろな文献からの引用が豊富で、過去に知的生活を送ってきた人たちのエピソードが読めて面白いです。憧れると同時に、自分には到底たどり着くことはできない極みのような気もします。
2章の「古典をつくる」というのがなかなか面白 -
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『知的生活の方法』で“生活の仕方”を示した渡部昇一が、“知的活動”や“知的生産”についてまとめたもの。1980年に電通の夏期大学で語った内容を、1981年に発刊、2008年に復刊された。
冒頭で語られるのは、彼の東郷平八郎元帥が、その銅像の建立にあたり、「智謀如湧」(=智謀湧クガ如シ)との言葉を贈った秋山真之中将である。秋山真之は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で詳しく記されているが、日露戦争中にロシア・バルチック艦隊を、世界の海戦史上最初のパーフェクト・ゲームと呼ばれる日本海海戦で破り、世界史の流れを一変させたと言われる東郷連合艦隊司令長官の作戦参謀を務め、刻々と条件の変わる戦場で、次々と戦略を -
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ネタバレ前半は、周囲の意見や評価を気にしすぎて、自己肯定ができにくい人向け。
その一例が、自分はこういう人間だとレッテルを貼っているというもの。そのレッテルに合わせて自分をコントロールしてしまっているだけなのに。
中盤は、そういう自分を打破するためには、将来のことばかりを考えるのではなく、今を最大限生きろと説く。
正しいか正しくないかはわからないのだから、べき論にしばられず、自分がこれと思ったことに飛び込んでみる。
その上で、うまくいかなかったとき、他責にせず、自分自身を顧みて、どうしたらよかったのかを振り返ることが大切。
怒りのスイッチの切るには、自分の考え方のプロセスを自覚する。
充実した人 -
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原題の方がよかったのでは 「「頭のいい人」はシンプルに生きる」
原題が「Pulling Your Own Strings」。
自分の人生を自分でコントロールしよう、という趣旨の本ですので
「シンプルな生活」の本を探していた、という目的としてはハズレ、
の本でした。
しかし、自分の人生を自分でコントロールする、この本の言い方を使うと
「他人の犠牲者にならない」方法というのは、
元々犠牲者として振る舞うことしか出来なかった人間からすると、
非常に参考になる、新しいマインドセットへの気づきが多い本でした。
冒頭の犠牲者になる9つの言い訳のうち、3つが自分の口癖、
考え方に沿った言葉であり、そ -
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歴史や政治についてのエッセイ集です。
「腐敗の効用」は、田沼意次やイギリスのウォルポールの治世を振り返り、後世から腐敗を批判されがちな彼らの時代が、社会・文化の繁栄をもたらしたことを検証しています。その上で、腐敗を糾弾する「正義」の声が、むしろ社会の活力を衰退させるという逆説が、歴史上しばしば見られることを論じています。
「英語教育考」は、著者と平泉渉との間でおこなわれた、いわゆる「英語教育論争」に際して、著者が展開した主張が簡潔に示されています。文法・訳読中心の伝統的な英語教育が果たした役割を擁護する著者の立場は、たいへん説得力があるように思えました。
そのほか、ウィリアム・モリス、三 -
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松下電器の創業者・松下幸之助の評伝。
著者は、松下幸之助が経営者として優れているだけでなく、「繁栄を通じての平和と幸福」(Peace and Happiness through Prosperity)という独創的な思想を築いた、日本が世界に誇るべき思想家だと言います。古今東西の多くの思想家や宗教家が「平和」と「幸福」を説いてきましたが、「繁栄」を通じてそれを実現するという思想は多くありません。そうした思想の先駆としては、我が国の石門心学などの例もあります。その意味でも、「PHP」の思想を現代に活かした松下幸之助という「思想家」は高く評価されなければならないと、著者は論じています。
ただ、著 -
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昭和期の日本が戦争へと向かっていった悲劇が、内的要因と外的要因に分けて考察されています。
まず内的要因について著者は、司馬史観を受け入れて統帥権干犯問題をあげています。明治の元勲の一人である山形有朋は、軍部大臣現役武官制によって軍部の思い通りにならない内閣を総辞職へ追い込むことができることをはっきりと認識していました。それが初めて実行に移されたのが、1923年の西園寺公望内閣のときでした。閣議で二個師団増設案を否決されたことに不満を持った上原勇作は陸軍大臣を辞職したことで組閣が不可能となり、西園寺首相は辞表を提出することを余儀なくされます。
その後、大正期に入ってしだいに平和の機運が高まっ