森鴎外のレビュー一覧
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「舞姫」
作者のドイツ留学体験をベースにした作品
主人公は自らの意志によって人生を切り開こうとするのだが
結局は、故郷のしがらみを捨てきれず
愛した女を裏切り、ついに発狂させてしまう
そのことで自分を責める彼は
例えばそれを「新生」などと言って居直ることもできぬまま
助けてくれた親友のことを密かに恨みつつ
帰国の途につくのだった
良くも悪くもサムライというかな
「うたかたの記」
過去の出会いが運命的な恋となって
まさにいま成就しようとした、そのとき
さらに過去から不幸の使者が甦り
すべてを水の泡に帰す
なお、日本における言文一致運動はすでに進んでいたのだが
ここまでのロマン主義的なアイロニーは
すべて文語調で書かれている
鴎外じしんは、坪内逍遥との没理想論争を経て
アイロニーを脱するようにも思われたが
形としては現実に屈していく
「鶏」
日清戦争が終わって九州小倉に赴任してきた参謀の話
変わり者の個人主義者である
生活のことを下男下女に丸投げしており
米だの味噌だの卵だのを着服されてるにもかかわらず
まるで気にとめようともしない
彼にとっては、人も馬も鶏も同じく他者なのだ
それは恐らく国家主義への屈従がもたらす一種の諦念であろうが
「かのように」
例えば、神の存在証明を科学的に行うことは不可能である
しかし人間は
あたかも、神が存在する「かのように」ふるまって生きている
そのことがむしろ社会を円滑に廻しているのであれば
嘘でも神を信じることは正しいのである
人は白黒つけたがるもので
神がいるかいないかという議論にこだわり
いらぬ争いを生み出したりもするが
あたかも~である「かのように」生きる姿勢が普遍なら
平和は守られるのだ
そんな思想を抱いてドイツ留学から帰ってきた主人公は
しかし、他者との軋轢によって平和が壊れることを恐れるあまり
茶番のような人間関係しか築けないのだった
「阿部一族」
あまり気の利く家臣を持つと
なんだか馬鹿にされてる気がして、つい反発心を抱いてしまう
それこそ甘えというものだが
殿様に対してはそれを諫める者がいない
それでまあ
その家臣が家中全体のスケープゴートを担わされてしまうわけだ
乃木大将の殉死事件に触発された作品とされているが
実のところ、これはイジメの話である
読後感は非常にやりきれない
「堺事件」
幕末のころ、堺の町にフランス船員が上陸し
狼藉を働いたことがあった
土佐藩の兵士たちがこれを取り押さえようとして銃撃戦を行い
フランス人が何人か死んだ
当然、重大な外交問題へと発展して
銃撃にかかわった兵士たち二十人が切腹することになった
切腹の当日は酒を振る舞われ
会場となった寺の見物を楽しんだ後、夕方から順番に腹を切っていった
立ち合いのフランス公使は
集団自殺の凄惨な現場に耐えかねて逃げだした
爽やかなユーモアのある話ですね
「余興」
語り手は人に群れるのが嫌いな男
しかし、つきあいでやむなく同郷人の会合に出ていった
するとその余興に、いま売れてる人気の浪曲師が出てきたのだが
語り手には教養人としての誇りがあるもので
聞きながら粗ばかり探してしまった
それでも、終わったら周りに合わせて拍手をしている
そんな自分は大人だなあ、なんてことを思って安心していたら
宴会中、酌の芸者に馬鹿にされているような気がして
大人げない態度をとってしまう
「じいさんばあさん」
隠居屋敷の老夫婦は年甲斐もなく仲むつまじい
なぜそんなに仲がよいのだろうか
小説は過去をさかのぼり
二人の若い頃から現在に至るまでを俯瞰していった
「歴史離れ」のロマンスである
ここにきて、初期のロマン主義に折り合いがついたとも言えよう
意地の悪い見方をすれば
互いに互いの姿を見ているのではなく
ひとつのロマンを並び見ているわけだが
「寒山拾得」
現世に姿をあらわした文殊菩薩と普賢菩薩は
それぞれ乞食坊主の姿をしていた
つまりどういうことかというと
軽蔑こそすれ、信仰の対象にはならないということである
しかし、社会規範では仏を測れないし
またそうであればこそ奇跡もおきるのであろう -
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岩波文庫の表紙によれば「鴎外史伝ものの代表作」なのだそうだが、まず史伝とは何であるのかが今ひとつわからない。歴史小説というのとも少し違う、強いて言えば伝記であろうか。題名のとおり渋江抽斎が主人公というか中心人物であるが、その親族や師弟、交友関係のそのまた親族まで、まさに虱潰しと言うべき執念で記録してある。これを読んでWikipediaみたいだと思うのはマヌケな感想だろうか。
固有名詞の大群に飲み込まれそうになるのだが、じっと耐えながら読んでいると、まさに江戸から明治にかけての大変革期に生きた人々の有様を覗き込んでいる気持ちになくる。
ルネサンス人的ともいえる医者が儒者を兼ねるのが当たり前な様子、嫁入りするのに士族の養女になってからしたり末期養子などのイエ意識、とにかく人が若くして次々亡くなること、放蕩息子に切腹を命じるかどうかで親族が鳩首協議する様などなど、いまとは違う社会の様子が些細とも思える記述の積み重ねから立ち上がってくる。 -
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実際は新潮文庫版でなく学研から出版されている全集もので読んだ。
森鷗外といえば『舞姫』のような堅牢な文章を操るイメージがあったが、『ウィタセクスアリス』においてはかなり平易な文体で書かれている。内容は草食系男子の性にまつわる体験に関するものだ。性にまつわる体験といいつつ、露骨なものに関しては匂わせつつもほぼ描かれないので安心して読める。
作中で「硬派」と「軟派」の2派が登場するが、読んでいるとどうも「硬派」というのがホモセックス野郎のことを意味しているようでド肝を抜かれた。寄宿舎生活の中で年少者は硬派の先輩の餌食になる。主人公が短刀を持って硬派の先輩から逃げ回り、アヌスの貞操を死守する場面がちょこちょこ登場するが、これが鷗外の自伝的性質を帯びた作品であることを踏まえると、男性読者なら当時の寄宿舎生活の凄絶さに恐怖を禁じ得ないはずだ。尻穴を狙う硬派から命からがら逃げ回る、そう、これはほとんど「ウォーキング・デッド」の世界なのだ。
ところで「金井湛君は哲学が職業である。」という書き出しは端的で内容にスッと入れるいい書き出しだ。「石炭をば早や積み果てつ。」に並ぶぐらいのいい書き出しだと思う。 -
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森鷗外の歴史小説三作品「興津弥五右衛門の遺書」、「阿部一族」、「佐橋甚五郎」が収録されています。
目的は「阿部一族」でしたが、この三作は鷗外の初期の歴史小説として代表的な作品で、三作まとめて単行本『意地』に収録されていたものとなります。
いわゆる「鷗外歴史もの」として書かれた三作であり、セットで語られることも多いため、鷗外を知るには丁度いい文庫だと思います。
・興津弥五右衛門の遺書 …
興津弥五右衛門という老人が細川三斎公の十三回忌にて、切腹をします。
その切腹は殉死であり、本作は殉死した興津弥五右衛門の遺書という体となっています。
文章は口語ではなく当時の文体で書かれているため、不慣れであれば非常に読みにくいです。
ただ、展開はわかりやすく、舞姫や青年に比較すると読みやすい作品だと思います。
「興津弥五右衛門の遺書」は鷗外が歴史小説を書くきっかけとなった作品です。
1912年乃木大将が明治天皇に殉死するという出来事があったのですが、乃木大将と親交のあった鷗外はこれに衝撃を受けて、本作を執筆したと言われています。
本作では殉死とその経緯が述べられたものとなっており、殉死に対する信念、殉死は武士にとって当然あるべき行為であることを、鷗外流に示したものと感じました。
・阿部一族 …
こちらは口語で読みやすい作品。
江戸時代初期、現熊本県の肥後藩の藩主・細川忠利の危篤に際して、老臣だった阿部弥一右衛門の殉死が許されなかったことに端を発して起きた阿部一族の討死の顛末を題材とした書物「阿部茶事談」を、鷗外が若干の脚色を加えて現代語訳した小説です。
歴史小説であり、鷗外のオリジナルではないといえども読みやすく、一作の読み物として面白い作品になっています。
「興津弥五右衛門の遺書」同様、殉死を扱った歴史ものですが事情が異なっていて、「興津弥五右衛門の遺書」の殉死には晴れ晴れしさのようなものを感じますが、「阿部一族」で描かれる殉死は、主君の後を追う立派な殉死ではありますが、どこか自棄の念が含まれているように感じます。
同じ作者の歴史ものとはいえ、書かれている情景、感情は異なるもので、本作終盤の阿部一族の女性が自害するシーンや討手と死闘をするシーンなどは情景豊かに迫力がある場面が展開されます。
個人的には、雁や舞姫よりも、森鷗外は本作から入った方が良いのではと思います。
・佐橋甚五郎 …
徳川家康と元家臣の佐橋甚五郎との因縁、甚五郎の半生を描いた短編です。
12ページほどの短い作品ですが、三作の中では本作が一番読みづらかったです。
朝鮮から来た使者の説明と歴史的背景の説明から入るのですが、ここが長くなかなか佐橋甚五郎にたどり着きません。
気がつけば家康の 「あれは佐橋甚五郎じゃぞ」 というセリフが入るのですが、そこに至る2ページ強を繰り返し読むも頭に入らず、ただ見返すとこの序文は場面説明であり、それほど重要なところではないことに後で気づきました。
内容は不思議な物語という感じを受けました。
佐橋甚五郎は仲間との賭けに勝って、約束の品として武士の大小を要求したのですが相手がそれに応じず、諍いとなり相手を斬り殺してしまいます。
家康は甚五郎に手柄を立てさせ、甚五郎を助命するのですが、家康が甚五郎を警戒していることを知り逐電します。
物語の開始はその20数年後となっており、家康が朝鮮人の使者の一人を甚五郎ではないかと疑うというストーリーとなっています。
誰何した旨のくだりはないので実際どうだったのかは本作中では語られず、佐橋甚五郎も実在したらしいのですが、同名異人が多くいたそうです。
佐橋甚五郎に関する研究書などがあれば読んでみたいです。 -
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20年ぶりくらいに読んでみた。若かった当時よりは文語体への抵抗も少なくなり、味わって読めた。
それにしても、岩波版では「舞姫」はほんの28ページのみ。その凝縮された文量で、100年先まで名を轟かすことの凄まじさよなぁ…。すでにストーリーが分かっているとはいえ、ドイツの凍える冬の色彩が目に見えるかのよう。豊太郎が選んだ結論だけを見れば「酷い」で終わってしまうかも知れないが、明治の日本の世情や、現代とは全く違う立身出世にかける想いなどを踏まえて感情移入して読むと、エリスと豊太郎、それぞれの苦悩が胸に迫る。
舞姫以外の話も圧倒的な悲恋ストーリー。現代語訳でも何でもよいので、若い人には多感な時期のうちに読んでおいてもらいたい。 -
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無縁坂とは不忍池を脇に入り旧岩崎邸庭園と東京大学医学部に挟まれた小さな坂である。文教と花街が混淆する地であった。その地を舞台とし学士と妾の邂逅をテーマに選ぶことで、森鴎外は前近代から近代へ移り変わる時代の変化を巧みに捉えたように思う。純粋無垢だったお玉が艶ある女性へ変遷することは即ち妾という前近代に染まることであり、洋行を決意する岡田は即ち近代化を示すのであり、交叉することなき異界の二人が交叉する過渡期を描くことで時代風景を描写しているのが本作品の主題かと思う。前近代と近代の決別が「雁」という象徴を投石にて死させる部分に込められている。岡田の本心を省略し、愛する人が外洋するお玉の哀切を描かぬことにより、人間模様をより昇華させた文学作品になっている。
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Posted by ブクログ
無垢な坊ちゃんエリートが。
水商売の踊り子の少女と、ずぶずぶの関係になっちゃった。
堅気な出世街道に戻るには、今、このときに、すがりつく少女を、残酷に捨てるしかありません。
無い夢を追わせた。
希望を与えて奪った。
絶望の倍返し、に突き落とすことになります。
つまり、そういうお話です。
これがほぼほぼ実話だそうです。
うーん、スキャンダラス。
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「うたかたの記」
「ふた夜」
「舞姫」
「文づかい」
「普請中」
という5編が入っています。
表題作の「舞姫」を読んでみたかったので購入。
結果、「うたかたの記」「ふた夜」「文づかい」の3編は、正直、飛ばし読み。
3つとも、文筆家・森鴎外さんとしては、超・初期のものらしいです。
どれもバリバリの文語体で、それ自体は僕自身はキライじゃないのですが、内容はロマンチックな西欧冒険奇譚、恋愛奇譚を「文語体に訳した」というくらいにしか味わえないものばかり。
率直に言うと面白く無かったです。。。
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「舞姫」。
これは面白かったです。
遠藤周作さんの衝撃作に、「私が棄てた女」という小説がありますが、それの明治版。国際恋愛版です。
明治社会のトップエリートである主人公が、ドイツに留学。
だが、役割を嬉々とこなすだけではなく、どこかしら文学的な憂鬱というか。俗世間に馴染めない純粋な青年。
きっかけがあれば、左翼運動に没頭しかねない若者な訳です。そして彼は、貧しい踊り子と恋に落ちちゃいます。
偶然の出会いから、可哀そうなは惚れたってことよ、という万国古今共通の流れ。
青年は明治政府に帰れば出世コースが当たり前のスーパーエリートなんです。
この時代に、ドイツに留学するというのは、今でいうと宇宙に行くレベルのことなんですから(あまり適切な例えではありませんが)。
当然、周囲は皆、反対します。
反対されれば、恋は燃えます。
あれよあれよと同棲生活。踊り子の母の面倒まで含めて、経済的にひっかぶります。
エリートコースから外れて、隙間産業の翻訳業のような身に落ちぶれます。
さてそこに。
旧友から救いの手が差し伸べられます。
とある大使?の随行で、官の仕事に復帰します。
そのまま誘われるがままに乗って行けば、帰国してエリートコースに戻れます。
でもそのためには、踊り子を、棄てなければなりません。
どうする、どうなる。
で、主人公は、どろどろした気持ちの果てに。
棄てちゃうんですね。
ここのところの気まずさ、自己嫌悪、罪悪感、言い訳、淋しさ。
そこらへんが文語体のリズムの中、むくむくと湧き上がってきます。
幸せだった若い恋愛が、泥にまみれて汚れて。
ガラスに爪を立てるような音を立てて。
ぐっちゃぐちゃに壊滅していく…そんな手ざわりが、野島伸司さんなんか、目じゃありません。
実に何と言うか、小説的な快感に満ち溢れています。
どこまでが実話なんだか、ということでいうと興味は尽きませんが、そういうことを外しても十分な歯ごたえと味わい。
苦い。旨い。パチパチ。
そして、「普請中」。
これは、相当に後年、書かれた小説のようです。
文語体ではなく、口語体です。読み易いですね。
ただ内容が、露骨に「舞姫」の続編、後日譚なので、この本に収録されているのでしょう。
これがまた…大人な「えぐみ」に満ちた短編でした。
つまり、「舞姫」から恐らく10年以上…15年?とかが経過している訳です。
主人公は青年ではなくなり、立派な明治政府の官員になっています。大人な男性の感じです。
明治国家の運営という事業の中に、小なりと言えども役割と責任を自覚していそうな落ち着き具合です。
はるばるドイツから、「舞姫」の踊り子がやってくるのです。東京に。
そして、ふたりはホテルのレストランのようなところで会います。
しかし、やけぼっくいだとか、色っぽい感じではないんですね。
「舞姫」は大人の女になり。
芸人としてアジアも回る途中で来たんです。偉大なるドサ廻りです。
そして、男がいます。夫がいます。芸人仲間です。精錬純白な感じではなく、それなりにすれちゃってるんです。
夫は居るけれど、愛だとか純潔だとかじゃないかんじなんです。生活の為。人生の成り行き。
夫はまあ夫でいるけれど、一人で会いに来てるんです。
そして、主人公と「元・舞姫」は、気まずい会話を実にグレーな味わいで応酬します。
そして小説はブツンと終わります。
こ、これは…なんとも。
美しかった思い出が。甘く酸っぱい記憶が。
「過去と地続きの現在」によって、えづくような苦みになります。
主人公は、致し方なく淡々とそれを受け止めます。
寒い日の、やるせないため息のような、哀しい湿り気。
なんともひんやりと、あくまでグレーに濁った東京の空。
そんな感じの1篇でした。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ正直言って、私にはこの本は重すぎた。
字が小さいとはいえかなり薄いのに、久々に読み終えて頭が痛くなるほど考えた一冊になった。
あえて『阿部一族』だけについて書きたい。
細川忠利の死に伴い、十八人が殉死した。
彼らはすなわち、忠利公の了解あるいは暗黙の了解によって許しを得て、彼の死後自ら命を絶った者達である。許しを得ずに死ぬのは、犬死であり、武士が最も嫌うものに入る。
一方、阿部弥一右衛門通信は、忠利公からその許しを得ることができなかった。
よく仕えてくれているのだが、性が合わないというか、忠利公は彼の言うことはなんだか聞かない性質を持っていたためである。
世間は勝手なもので、弥一右衛門が死ななかったのは命を惜しんだためだと噂し、それを知った彼はすぐさま自死を選ぶ。
と、まあここまではまだ納得できたのだが、ここからが問題だ。かなり感情的に記すのをお許しいただきたい(一応本文を確認しながら書いているが、私見が多分に入っているので、ぜひ原作をお読みいただきたい)。
弥一右衛門は忠利公の許しを得られなかったとはいえ、本来であれば「殉死」として差支えの無い状態だった。
だが、光尚公は大目附役の進言を聞き入れて、阿部一族の処遇を他家より一段下げたものにしてしまった。
その結果、阿部家の次期当主である権兵衛は「弥一右衛門にも一族にも申し訳が立たない」として忠利公の一周忌の焼香で、己の番が回ってきた時に髻を切ってしまうのである。
それを自分の処遇への当てつけととり不快に思った光尚公は、権兵衛を縛り首にした挙句、一族を討った。
私には、光尚公のしたことを批判しきることはできない。
いくら殿さまとはいえまだ若いときの話だし、いくら事情が事情と言えど、権兵衛がやったことは不敬だ。
縛り首はおかしい、せめて切腹だろうとは思うが、誰だって間違いはある。
大体にして彼は殿さまだから、そこはまあ、そういうことをしても当時としてはそう不思議はない。殿さまの言うこと絶対だからね、基本。
でも、「分かるよ」と言えてしまうのは、阿部一族の方も同じなのだ。
いくら殿さまの下知だとしても、納得のいかない処遇なのは確かだもの。
事の発端は忠利公の意固地と世間の勝手な噂であって、阿部一族そのものが悪い訳ではないもの。
弥一右衛門、せめて権兵衛で終わっておくべき話なのだ。
一族討手は、いくら何でも、どう考えたって行き過ぎだ。いや、当時としては不思議じゃないのは分かってるんだけど。
何より私が打ちのめされたのは、この話において、光尚公が自分の決定的な過ちに気付いていないところだ。
かなり勝手な言い分なのは承知の上だが、光尚公には、公言しなくていいから「しまった」くらいは思っていてほしかったのだ、私は。
当時としては不思議なことではなかったのだとしても、自分の若さと甘さと浅慮が招いた結果ではあるんだから。
たとえ馬を鹿と言っても許される立場だったとしても、馬は馬、鹿は鹿だと分かっていてほしかった。
なのに、「今討ち入ったな」は、そんなのってない。
私は、武家社会では殿のすることは絶対とされるべきだと思っている。
失敗は許されるべきではないし、たとえ失敗したとしても、それは失敗と認めるべきではない。認めざるを得ない失敗は、臣下が代わりに責を負うものだと思っている。
そうでなければ国の治世はたちまち立ち行かなくなっただろう。
だが、殿に後悔はしてほしいし、公言しないとしても、世間ではどう語られていようと、責を負った臣下と殿の間に「言わないけど、分かってるよ」というものが、どうしても、あってほしい。
むしろ、そうでないなら「貴人の軽挙は配下が負う習わし」自体、存在してはいけないとさえ思っている。
だって、そうでなければ、臣下という立場があまりに虚しすぎる。
本当に、これは私の勝手な我がままなのだけれど。
もちろん、これがあくまで創作であることは重々承知している。
森鴎外が描かなかっただけで、実際には光尚公は後悔したかもしれない。随分後になってからでも、悔やんだのかもしれない。
今更、そうだったからといって何が変わる訳でもないけれど、『阿部一族』に事実と異なる部分があってほしいと、心から願わずにはいられない。