森鴎外のレビュー一覧
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やっと読み終わった。長かった!!!
樋口一葉の『たけくらべ』
夏目漱石の『三四郎』
森鴎外の『青年』
たけくらべは、川上未映子氏の現代語訳版です。初めて読んだ気がします。
あまりにもおっさんが読むには時期を逸しているようで、あまりにも幼いころの話でありそういう感受性は失われていることを認識しました。
三四郎と青年は続けて読むと、非常によく似ており
その雰囲気や情緒が感じられ面白かったと思います。
本当に忘れていたのですが、『青年』は昔昔、大学の1年か
2年の時に読んだことがあることを思い出しました。
その時は、自分の年代とあっていたこともあって
とても感銘を受けたことを思い出しました。その時の
自分の人と群れる感じに対しての嫌悪感や、男女の
関係にての正義感や、潔癖な感じ(本当はその
ころでもずぶずぶだったのですが)。社会や
大人に対しての反発や恐れなんかをもっていたこと
を今再度読んで思い出しました。
その時の感覚は懐かしく、恥ずかしく思いました。 -
Posted by ブクログ
【本の内容】
哲学講師の金井湛君は、かねがね何か人の書かない事を書こうと思っていたが、ある日自分の性欲の歴史を書いてみようと思いたつ。
六歳の時に見た絵草紙の話に始り、寄宿舎で上級生を避け、窓の外へ逃げた話、硬派の古賀、美男の児島と結んだ三角同盟から、はじめて吉原に行った事まで科学者的な冷静さで淡々と描かれた自伝体小説であり掲載誌スバルは発禁となって世論をわかせた。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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本棚で眠っていたので。
鴎外の初期の歴史小説三篇を収録。
「殉死」がある意味では当たり前だった頃の人物を取り上げ、殉死・一族滅亡を描く。描き方もとても淡白で逃げ場のない感じを常に与えてくれる。
恩からの殉死というものが建前としてあるが、なによりも殉死として彼らを掻き立てたものは、恩を受けといて殉死しないとは部下としての義に悖り、傍輩に顔向けできないという圧力を自ら作り上げてしまうことだ。
死ぬことは美しく、死ぬことであらゆことは清算できるということが強く信じられていて、本質を見ようとしない、宗教に近い何かであるように思われる。
死は救いでも終わりでもない。ただの言葉だ。腹を潔く切ろうがなんだろうが、死は死以外の何ものでもない。自殺か他殺、事故死か病死、死に方だってこれしかない。美しいかどうかなんて、あとから人がとってつけた一面的な価値に過ぎない。
『佐橋甚五郎』は短いながらも、スリリングでミステリアス。徳川家康という人物の使い方がこの作品の味を出している。 -
Posted by ブクログ
千年読書会・第2回の課題本でした。
森鴎外の自伝的な小説とも言われている一編となります。実際には、身近な友人と自身の経験をない交ぜにしたもののようで、「うたかたの記」「文づかひ」ともあわせて三部作的な位置付けとも言われてるのでしょうか。
相変わらずに美しく流れる文体も堪能しましたが、内容も当時の状況を敷衍しているかのようで何気に興味深く。“誰”に感情移入するかで、読み解き方は変わるのかなと感じました。
さて、主な登場人物はこちらの3人。
主人公:太田豊太郎
踊り子:エリス
友人:相沢謙吉
政府の公費でドイツに留学した秀才肌の主人公・太田豊太郎、彼が留学先で踊り子・エリスと恋に落ちたところの回想から、物語は始まります。その恋に“ハマった”豊太郎、仲間の心無い讒言などもあり、結局は政府から罷免されて、エリスと暮らしながら現地の新聞記者として糊口をしのいでいました。
そこに、友人・相沢謙吉からの再チャレンジの誘いがあり、記者として培った知見や語学力で政府関係者から評価され、祖国に復職することが夢でなくなっていくのが大筋となります。
ただ、相沢からの提示されたのは「エリス」とは袂を分かつべきとの一つの“提案”がなされたところから、悲劇の歯車をも回りはじめます。
恋をとるか仕事(出世)をとるか、現代の視点で観れば“エリスを連れて帰る”との選択肢もあったのでしょうが、政府役人との立場ではそれも難しかったのかな、といった当時の世相を、まずは読みとることができました(今でも治安や外交などの重要事案に携わる役人さんには制限事項があるみたいですが)。
結末から遡れば、酷薄で不義理であるとの断罪にもなりますが、これは当時も同じであったようで、自身でも「ニル・アドミラリイ」とのフレーズを文中で使っているのが印象的です。
確かに、この“悲劇”は豊太郎の優柔不断さに起因しているのと思いますが、同時に、明治時代の“優秀かつ野心的な若者”であれば、誰しもが持っていた“立身出世”への強い想いもまた、読みとることができるかな、と。
ここにはそんな“エリート”の煩悶が籠められているのかと、感じます。
鴎外自身の経験を投影しているとも言われていますが、当時はこれに類する話は周囲にもいろいろとあったのでしょう。そういった意味では“よい小説は時代を映す”ということを感じることができ、長く読み継がれているのもなるほどなぁ、と。
豊太郎の境遇を慮ればこそ「エリス」を切り捨てよとの言葉を発した、相沢。豊太郎を愛すればこその、不安と絶望を押し隠しながらも堪えきれずに狂気に行きついた、エリス。そして、それらのすべてを実感していながらも決断しきれずに煩悶とし続けた、豊太郎。
“相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。
されど我脳裡に一点の彼を憎むこころ、今日までも残れりけり。”
恐らく豊太郎は、この先も一生涯、相沢にこの“屈託”を見せることは無かったと思います。
三者三様の想いがちょっとしたボタンの掛け違いで、取り返しのつかない悲劇に至ってしまう、この物語の大枠だけ見れば、意外と今でも転がってそうな設定で。人の行為はそうそう変わることが無いのかなぁ、との普遍性を感じてみたりも。
コレが仮に「自分だけが最優先な」いまどきの優秀な人間(エリートに非ず)であれば、なんのてらいもなく、生活のためにエリスを切り捨てたか、もしくは友人の真摯な誘いであっても一顧だにしなかったのかも、とも。
明治であれば福沢諭吉翁、昭和であれば出光佐三氏、現代であれば青山繁治さんのような。彼らの共通するのは「国を支えて国を頼らず」との気概と思います。ふと感じたのは、今の日本に足りないのは、こうした気概を持った“エリート”かなとも、考えてみたりしています。
初めて読んだのは確か高校生くらいの頃、その時は豊太郎の不甲斐なさや不義理さに、違和感と反発しか残りませんでした。今回、久々の再読で俯瞰して見ると、その心の動きはなんとなく理解できる気がします。それはどこか、息子なり甥っ子なりといった眼で豊太郎を見ているからなのかもしれません。
そして自分が、相沢と同じ立場になったら、、「切り捨てよ」と言わない自信は正直、持てません。親しい間柄であればそれだけ“近くにいてほしい”と思うでしょうから、、と、そんな風に感じた一編です。
もう一つ興味深かったのは、どこの国でも、どの時代でも、“芸妓”が、性サービスと密接にかかわりがあるとの視座でした。確か、同時代のドガが「舞台の踊り子」でも舞台裏にいるパトロンの様子を描いていたと思います。
それを踏まえて、現在の日本の芸能界はどうなのだろうと、最近では“ミスインターナショナル・吉松育美さん”の事件などから垣間見える“現代日本の芸能界の闇”も思い出しながら、そんな風に感じたことを付け加えておきます。 -
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阿部一族
又七郎が阿部家と懇意にしていて妻を見舞いにもやりながら討ち入りには自ら猪一番に飛び込んでいくという観念がわからない。
また弥五兵衛も飛び込んできた又七郎と相対して当然としているのがわからない。
お上に忠実であるならば匿う必要もないがわざわざ自ら討ち入らずとも黙っていてもよかったと思う。
しかしわからないと感じるのは時代が違うだけのこと
なぜか納得できてしまうこの感覚はやはり日本人だからか
堺事件
これもまた日本人だからか
もちろん切腹できるはずもなく、さらに大網を引っ張り出すなんてもってのほかだけれどもこの盲目、妄信、神風の思想は日本人そのものであると合点する
しかし当然自分たちも腹を切るつもりの九人が切らせてもらえず、流刑になり、士分にも取り立ててもらえないままに死んでいくのを可哀想と思うのはおかしいだろうか
かのように
最後の議論がいい
まったく違う二人が誇張も冷笑もなく互いを認めながら真剣に戦わせる様は美しい -
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『雁』は1911年(明治44年)に発表されたこの作品で言わずと知れた代表作となっています・『灰燼』は同じく同年に発表され同時進行にて執筆されたと言われています。
『雁』の時代の設定は、1880年(明治13年)であります。高利貸しの妾・お玉が医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱くも結局その思いを伝えることが出来ないまま岡田は洋行する。はかない女性の心理描写と身の上が如実に表現されています。
といった内容なのですが、『舞姫』の発表は、1890年(明治23年)となっていますので、御年28歳の時に発表された『舞姫』と49歳の時に発表された『雁』は、独逸留学つながりなので敢えて年齢の対比をさせていただきました。
言うなれば作品の設定が、鷗外先生が留学する前と留学した後に書かれた作品という事になります。
さて、この作品が何故鷗外先生の代表作なのか、と言う疑問が僕自身にはあります。
作品そのものは、どちらかというとはかない女性と岡田の物語で、取り立てて秀逸とは言えないと思ったからです。その疑問があって、この作品に限っては3回程読み直しました。
鷗外先生がこの作品を書かれたのは、満49歳、官職では陸軍軍医総監の位、陸軍省医務局長という軍医行政最高のポストにあったことを思えば、いかにも積極的な表現意欲といわざるを得ないが、僕の個人的な意見で言うなら49歳の年齢なれば本職の官職をこなしながら、『雁』と同時に『灰燼』も執筆しているのです。ここに何らかの因果関係があるのかと思わざるを得ません。しかしながら、そこでも作品自体の評価が高いことの理由が判然としないのです。
ただ、3回も読み返すと見えてくるものが、作品自体の内容ではなく作品の構成なのです。
巻末の解説にも書いていますが、「前に見た事と後に聞いた事と」を一つにまとまった「物語」に再構成されているのではないかと思うのです。
この構成の性格は、単に『雁』一個のものではなく、鷗外文学の深処に通じるものと思うのです。
「体験した話と聞いた話の融合」は、物語小説の世界では当たり前のように思われますが、例えば真ん中から折り畳める鏡があったとしたら、折り畳むと左右対象であることは「初めに見た物語をもってきて、最終部分にもまた見た話に戻る物語の進行で帰結しています。
これは、偶然か作為的なのかは分かりませんが、現実世界から夢を見てまた現実世界に戻ると言うものです。もしそれが作為的に構成を計算されたものであるなら、鷗外文学の真骨頂ではないかと思いました。一夜の長い夢を見た様な気分になりました。
ネットで検索をしても、この作品の書評はあまり見かけませんが代表作であるという理由は心情的に細やかな点と、思いが伝わらなかった残酷さを併せ持つ妙なのかもしれません。
既読の方も多いかと思いますが、今一度再読されてみては如何ですか。 -
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豊太郎のだめっぷりが久しぶりに読みたくなったので、「舞姫」を高校の教科書ぶりに読んでみた。
エリートコースを歩む豊太郎が、法律から歴史や哲学に興味を移し、母親や上司の言いなりの受動的な人間から、自ら決断する能動的な人間になろうと藻掻く。
そして舞姫のエリスと出会い、貧しいながらも幸せに暮らし始める。
が、帰国してエリートに戻りたいと思う気持ちとエリスへの愛情との間で心揺らぐ。
結局は自ら決断できず、自分が倒れている間に友人がエリスに告げ口したことにより、"仕方なく"帰国せざるを得なかった、と自分が悪いわけではないようなところがあいかわらずダメ男だと思った。
けど、しょうがないよなー、とも思う。
悩んでも悩んでも、きっと豊太郎には決断できなかったんだよなー。 -
Posted by ブクログ
森鷗外の文章は堅苦しい印象があり敬遠していたが、やはり読みづらかった。時折知らない言葉が出てきて、本の後ろに付属している注釈を使いながら読んだ。
ただ、山椒大夫と高瀬舟は内容を大体知っていることもあり、すんなりと読むことができた。この2作で特に印象に残ったのは、物語や題材よりも森鷗外の美しい日本語であった。多彩で的確な言葉遣いとテンポの良い文章は、ときに場面の情景を、ときに人物の寂しさや切なさを、頭の中にくっきりと浮かび上がらせた。同じ話を現代の作家が書いても出せないであろう味が、この2作品にはにじみ出ている気がした。
どちらの話も僕は涙なしでは読めない。
短いのであらゆる人に読んでほしいと思う。