あらすじ
渋江抽斎(1805-58)は弘前の医官で考証学者であった。「武鑑」収集の途上で抽斎の名に遭遇し、心を惹かれた鴎外は、その事跡から交友関係、趣味、性格、家庭生活、子孫、親戚にいたるまでを克明に調べ、生きいきと描きだす。抽斎への熱い思いを淡々と記す鴎外の文章は見事というほかない。鴎外史伝ものの代表作。改版。(注・解説=中野三敏)
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森鷗外は、人生の最後に「史伝」作品群を残し、その中でも最も知られている作品が「渋江抽斎」だ。
”史実を淡々と述べていて無味乾燥である”、という評もあるようだが、自分は、鷗外の作品の中でも多いに関心を抱く作品のひとつだ。
鷗外は、「舞姫」から始まり、その作風の変遷が特徴的だが、日本の近代化という大きな変革の中に体制側に身を置き、最後、「史伝」に辿り着いたことは、説明がつくような気がする。
ひとつのキーワードが考証学。
渋江抽斎も考証家であり、鷗外が自らを渋江抽斎に見立てていたのであれば、合理的な欧米的知識をバックボーンとしていた鷗外にとって、考証学は拠り所になっていたのではないかと思われる。(これは「かのうように」にもつながる)
歴史小説作家で好きな作家のひとりが吉村昭だが、彼の作品も司馬遼太郎と比べると、事実を淡々と積み重ねるアプローチだ。
吉村昭のこの修飾文がない作風は、却って、読み手側に歴史が迫りくるような印象を抱かせる。「渋江抽斎」を読んでいると同じような印象を得る。
この小説は、渋江抽斎死去後も話が続く。
というよりも、死去後が本編のような気もする。
鷗外の家族思いは有名で、この作品で自らの死後を子供たちに託すような思いも伝わってくる。
渋江抽斎亡き後も、渋江家は、明治維新、士族没落という荒波を乗り越え、特に妻の五百(いよ)を中心に新たな時代を逞しく生き抜いていく。
この小説は、登場人物が多いこと、主人公がいないこと、が特徴なのだが、それゆえに”人”にフォーカスした歴史小説といえ、イベントドリブンの歴史小説よりも、時代の息吹を実感することができるだろう。
なお、この小説は新聞に連載されたものであり、適当に長さが区切られているので読みやすい。また、時々で登場人物のその時代の年齢のおさらいがあり、それも工夫がされている。
ところで、この五百(いよ)は、鷗外の理想の女性像を表しているようで興味深い。
鷗外は、津和野藩代々の典医の家に久しぶりに誕生した男子であった。
(それまでは女系が多く養子を得る。鷗外の実父も養子)
そのような背景もあり、特に、祖母や母の鷗外に寄せる期待は大きく、英才教育があったようである。鷗外は、父よりも祖母、母に強く影響を受けているように思える。
そして、何よりも鷗外の作品には、精神的に自立した強い女性像が多く描かれている。
「渋江抽斎」の面白いところは、史実を丹念に描いているので、特に江戸後期から明治初期に生きる人々の生活、考え方、例えば知識人の処世を理解することができる点だ。
鷗外自身、近代化、西欧化が急ピッチで進む中、江戸時代にあった、良き姿勢、文化、慣習を改めて世に問おうとしたのではないか。
そして、それは現代社会でも十分に考慮すべきことであったりする。
(この点が「渋江抽斎」を読む意義でもある)
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学問と仕事、宮仕えの心構え。芯のある夫人。時代を生きる人々。家族のヒストリーを語りながら、文武両道とユーモアと暖かみにあふれ、誠実にして緻密な史料調査を厭わない森鴎外の視線、筆致に触れられ、憧れるような文化水準の高みを気持ちよく感じさせてくれます。
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歴史小説の原点とも言うべき作品だと思います。文章はピカイチ!!!まさに教科書のような作品。その成功の一つに一人称で書かれているということがあると私は思っています。
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最初はじっくり読もうと思ってはいたが、次第に走り読みになり、抽斎が亡くなってからは、もう速読のフェイク動画のような状態だった。難しすぎる。しかし、抽斎の4番目の妻、イオさんだけはすごい人物だったということは分かった。抽斎が暴漢に襲われそうになった時、お風呂に入っていたイオさんは裸に近い状態で飛び出してきて、暴漢にお湯をぶっかけ刀を抜いて立ち向かったって!イオさんの映画観たい!
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岩波文庫の表紙によれば「鴎外史伝ものの代表作」なのだそうだが、まず史伝とは何であるのかが今ひとつわからない。歴史小説というのとも少し違う、強いて言えば伝記であろうか。題名のとおり渋江抽斎が主人公というか中心人物であるが、その親族や師弟、交友関係のそのまた親族まで、まさに虱潰しと言うべき執念で記録してある。これを読んでWikipediaみたいだと思うのはマヌケな感想だろうか。
固有名詞の大群に飲み込まれそうになるのだが、じっと耐えながら読んでいると、まさに江戸から明治にかけての大変革期に生きた人々の有様を覗き込んでいる気持ちになくる。
ルネサンス人的ともいえる医者が儒者を兼ねるのが当たり前な様子、嫁入りするのに士族の養女になってからしたり末期養子などのイエ意識、とにかく人が若くして次々亡くなること、放蕩息子に切腹を命じるかどうかで親族が鳩首協議する様などなど、いまとは違う社会の様子が些細とも思える記述の積み重ねから立ち上がってくる。
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須賀敦子の愛読書と知って読んだ。一読してその面白さにはまり、直ぐに再読した。幕末江戸の直参医師を中心に、今はなき江戸の心情と文化を淡々と描きながら、その美学を蘇らせ、愛惜する。主人公は狂言回しで、その周りの人々が生き生きと描かれる。中でも、後妻の五百が、秀逸。龍馬のお龍さんに匹敵する。鴎外の史伝の筆法を現代に蘇らせたのが須賀敦子だと言える。
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まず漢語を中心とした圧倒的な語彙力に憧れる。伝記としては訥々と事実を述べていて劇的な展開はないが、その分幕末の武家、明治の士族華族の暮らしぶりや考え方がリアルに伝わりとても良かった。つい100年程前なんだなと思うと胸いっぱい。
Posted by ブクログ
岩波文庫緑
森鷗外 「 渋江抽斎 」 医者であり、官吏であり、読書家であった渋江抽斎の史伝。
鷗外が 抽斎を リスペクトしすぎ。抽斎が人格者すぎる。逆に 虚構的で 小説的だが
対照的に 抽斎の4番目の妻 五百(いお)や 抽斎と交友のある人々が 生き生きと描かれていて 面白い。
鷗外の抽斎像
*心を潜めて 古代の医書を読むことが好き
*技をうろうという念がない〜知行よりほかの収入はなかった
*金は「書を購う」と「客を養う」ことに費やした
*詩に貧を問いている
*抽斎は 人の寸長も見逃さず、保護をして、瑕疵を忘れる
史伝の題材としての抽斎=抽斎に因縁を感じる鷗外
*抽斎は 医者であり、官吏であり、読書家であり、鷗外と相似
*抽斎は かって わたくしと同じ道を歩いた人である〜抽斎は 優れた健脚を持っていた〜畏敬すべき存在
*抽斎は 古い武鑑を求めた〜抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら〜二人の袖は〜摩れ合ったはず〜親愛すべき存在
抽斎の自戒=人はその地位に安んじていなくてはならない
Posted by ブクログ
ひたっ…すら、渋江氏とその家族についての経歴を書き連ねた作品。はぁ、退屈だった汗 もう、何度か挫折しかけた。多分、鴎外的には、渋江氏をリスペクトするあまり、「この人の自伝を残せるのは俺だけだ!(じゃないと歴史に埋もれて今後の世に名を遺せないから)」と、ひたすらマニアックな萌を発露させてしまったのだろうなー、
それにしても、個人の(あるいは
知人数名の)力だけでよく、そこまで微細に昔の人の人生を調べあげたね…。渋江氏の熱狂的ファンて、昔もこれからも森鴎外ただひとりだろうに。
鴎外的には、読書中、たまたま歴史の本の編纂に関わった渋江チュウサイとかいう人が、自分と同じ医者でなおかつ文芸好きだったってとこに、このうえなくシンパシー☆ミだったぽい。
ま、とにかく無駄に(ごめん)長いのと退屈なので再読はおそらくなしです。はい。