竹田青嗣のレビュー一覧
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第2巻では、著者自身の理解するフッサールの発生的現象学の方法にもとづいて、われわれがこの世界のなかに「善」や「美」をはじめとするさまざまな価値を見いだすようになるプロセスを解き明かそうと試みられています。
著者は、ハイデガーやレヴィナス、フロイトやラカン、さらにカントをはじめとする西洋美学史を幅広く参照していますが、彼らの思想はいずれも、ニーチェとフッサールによって清算されたと著者が主張する「本体論」と「相対主義」のアポリアに陥ってしまっていると断じています。あいかわらず大鉈で西洋哲学史を割り切る議論というべきで、それぞれの思想をていねいに検討しているとは、とうてい思えません。
むしろ本書 -
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多年にわたる研鑽を経て形成された著者の現象学および欲望論の立場を包括的に論じた本で、著者の思想の集大成ともいうべき内容になっています。
著者の主張のすべてに賛同できるわけではないとはいえ、これまで著者の仕事を比較的丹念に追ってきた者としては、それなりに期待をもって本書を読みはじめました。ただ正直なところ、すこし期待しすぎだったかと感じています。
思えば、これまで著者が刊行してきた著作の大きな魅力として、フッサールやニーチェといった西洋の哲学者の思想を、他の著述家にはなしえないきわめてクリア・カットなしかたで説明し、読者を哲学の世界へと誘ってきたことにあります。ところが本書では、著者の現象学 -
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文芸批評家で哲学者の竹田青嗣と、社会学者の橋爪大三郎が、社会や文化、国家などの問題についてそれぞれの考えを語りあった対談を収録しています。
竹田は、フッサール現象学を独自のエロス論に読み替えた「欲望論」の提唱者として知られていますが、さらにヘーゲルの社会哲学と接続することで、市民社会的な自由にもとづく思想を構築しています。一方の橋爪は、ウィトゲンシュタインの言語ゲームのアイディアをたくみに取り入れた「言語派社会学」の立場を標榜しています。両者はともに、ポストモダン思想の一部に見られるような、社会についてのニヒリスティックな態度に批判的であり、人びとがよりよい社会のありようへと向かって進んでい -
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ヘーゲルの『精神現象学』の解説書です。本書の後に刊行された『超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』』(講談社現代新書)とおなじく、ヘーゲルの叙述を二人の著者がわかりやすくパラフレーズしています。
『精神現象学』における精神の歩みを、近代的な「自由」にめざめていくプロセスとして読み解くという著者たちの立場から、ヘーゲルの錯綜した叙述の意味を統一的に解釈しています。
もっともわたくし自身は、竹田の『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)におけるヘーゲル解釈には問題が含まれていると考えており、本書にも同じような問題があると感じています。もう少し具体的に述べると、竹田はカントが「超越論的」と呼ん -
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竹田青嗣と西研の二人が、ヘーゲルの『精神現象学』の内容をわかりやすくパラフレーズしている解説書です。
『精神現象学』の入門書としては、加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社学術文庫)が有名で、わたくしも以前読んだことがありますが、多くの執筆者が参加しているために全体像が少し見えづらいような印象がありました。本書は、竹田と西の二人が分担執筆していますが、両者は思想的に非常に近い立場に立っており、ほとんど二人のあいだの齟齬を感じることなく、『精神現象学』の全体像がクリアに描きだしています。
西は『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)で、竹田は『人間的自由の条件』(講談社学術文 -
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ヘーゲルの『精神現象学』や『法の哲学』の議論から、自由な個人の相互承認に基づく承認ゲームとしての社会思想をつかみだし、その現代的な意義をあらためて検討しなおす試みです。
本書は、カント倫理学をポストモダン的な「他者」へと接続することを試みた柄谷行人の『トランスクリティーク』への批判からはじまります。わたくし自身も、後期柄谷のカント主義への傾倒は『探究Ⅰ・Ⅱ』の到達地点からの後退ではないかという疑問をいだいているのですが、その批判の方向性に関しては、著者の示す道にしたがうことはできないと考えています。著者の主張をひとことでいえば、カントの倫理学になお見いだされる「超越的なもの」「聖なるもの」の -
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『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)のテーマを改めてていねいに論じなおすとともに、現代におけるグローバル資本主義の矛盾に対してどのような処方箋が可能かという問題についての考察を展開している本です。
著者は、ホッブズとルソーの社会契約説をみずからの観点から解釈し、彼らの仕事によって近代市民社会的な「自由」の哲学的な意味における本質が明瞭に取り出されたことを評価します。そのうえでヘーゲルの『法の哲学』や『精神現象学』を読みなおすことで、市民社会的な自由の相克を調停する普遍的なルールをつくり出すことに近代国家の理念を見いだそうとしています。
一方で著者は、近代国家の理念と現実が乖離していること -
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カントの『実践理性批判』を、本文の構成にしたがってパラフレーズした解説書です。
著者は「はじめに」で、カントが実践理性の根本法則を「君の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という定言命法によって規定したことに触れて、「その内実は、いくつかの理由で近代社会の倫理の本質を表現している」と述べています。著者の『近代哲学再考』(径書房)などを読むと、近代社会における「自由」の本質について著者自身は独自の考えをもっていることがわかりますが、本書ではそうした著者の思想を開陳することは抑制されており、もっぱらカントの文脈の中で「自由」の概念がどのように規定されているのかと -
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『純粋理性批判』のテクスト全体をわかりやすく要約するとともに、随所に著者自身による「章末解説」が置かれており、その要所が解説されています。
ときおり、著者自身の実存的立場からカント哲学の意義を解釈している個所が含まれており、注意が必要です。たとえば著者は、カントの認識論が「実践的関心」を背景にもっており、「「善く生きたい」というわれわれの生の意欲こそ、世界とは何であるか、という認識の問いを支えている」と述べています。しかしこれは、認識論的なディスクールをエロス論的なディスクールに基礎づけることをめざす著者自身の欲望論の観点からカントの認識論をとらえなおしたものと考えるべきだと思います。
カ -
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相手のことを想って胸を焦がすような「恋愛」という体験の意味を、実存的な観点から解き明かそうとする試みです。
われわれは恋から醒めた時点から振り返って、プラトニックな愛にのぼせ上がって「現実」が見えていない状態だったと考えたり、あるいは恋愛の本質は単なる肉の欲望であり、それを「恋愛」を呼ぶ人は事実を覆い隠す美しい虚構に酔っているにすぎないと考えたりします。しかし恋愛のただなかにある者たちは、相反するはずのプラトニズムとエロティシズムをまったきひとつのものとして生きています。本書がめざすのは、こうした特権的な時間と、それが醒めた後の日常的な時間との間にある大きな齟齬のもつ意味を解明し、「恋愛」の -
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カントの『純粋理性批判』の内容を著者がわかりやすく語りなおし、随所で補足説明をおこなっている入門書です。
本書の解説でとくに優れているように思ったのは、弁証論の難解な叙述を思いきった仕方で整理し、独断的な形而上学に対する批判の意義を明確にしている点でした。同じ新書サイズの入門書としては、国際的に高い評価を受けているカント研究者の石川文康による『カント入門』(ちくま新書)という優れた入門書がありますが、本書はよりカント自身の議論につきしたがうかたちで、弁証論の議論の流れをたどっています。
一方、前半の感性論や論理学に関しては、やや問題があるのではないかという気がします。著者は、カントの批判哲 -
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比較的若い読者に向けて書かれた哲学の入門書です。ただし、著者自身の哲学的立場が前面に押し出されており、「岩波ジュニア新書」が想定しているはずの中高生の読者に適切な入門書といえるのか、若干疑問もあります。同じ「岩波ジュニア新書」からはバークリの研究者である戸田剛史の『世界について』も刊行されていますが、一般的な哲学の問題に触れるためにはそちらの本を手にとったほうがいいかもしれません。
著者はすでに『自分を知るための哲学入門』(ちくま学芸文庫)という入門書を刊行しており、近代哲学における認識論のアポリアをフッサールがどのように乗り越えたのかという点に焦点を当ててみずからの哲学的主張を開陳していま -
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語り口は軽妙だけれど、本当に理解するのには、ある程度の哲学的な問題意識と素養が必要。
フーコーやレヴィナス、分析哲学への批判は、なるほどと思える。哲学と宗教の違い、科学との親近性も面白い。
アーサー王伝説から自分の意志を持つことの重要性、そして最後のファンタジーと論としては面白いが、どこまでアクチュアルたりうるか疑問だ。
・人間は希望や目標が強く明確になるほど、意味と価値の秩序がしっかりし、そのことが時間のリアリティをますます濃くする。
・宗教には「ここに何かほんとうのものがある」という人々の信憑を土台にした「真理を求めるゲーム」という性格がある。哲学は、むしろ「普遍性を求めるゲーム」。 -
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著者がどのようにして哲学の道に入っていくことになったのかを振り返りつつ、著者自身の哲学をわかりやすい言葉で語っています。
著者は、現象学を独自に受け継いだ「欲望論」ないし「エロス論」と呼ばれる立場を標榜しています。本書の後半では欲望論の観点から、われわれがこの社会のなかで「幸福」を追求することの意味について解き明かそうとしています。とくに、自己自身の欲望のあり方と社会のルールを編みなおしていく可能性を示すことに、著者の努力が傾けられているように思います。
ただ個人的には、著者やその盟友の西研らが、ここで語られているような考え方を「元気の出る思想」として提出していることには、おめでたさを感じ -
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竹田青嗣がニーチェの哲学について解説している本です。
おもしろく読めましたが、著者の立場にニーチェ引きつけすぎているような印象があります。たとえばニーチェは、『反時代的考察』の中で文化批判をおこない、人類の文化の目標は「より高い人間の範例」を生み出すことにあると主張しています。竹田はこのことに触れて、ニーチェの意図していたところは「人間のありかたをつねに「もっと高い、もっと人間的なもの」へと向かわせるための、いわば励まし合いの“制度”なのだ」と解説していますが、こうした解釈は、ニーチェのもっていた「毒」を微温的なものへと変えてしまっているのではないかという気がします。
そのほかでは、「永遠 -
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最近の私は、プラトンとアリストテレスが2度目のマイブームを迎えていて、10年以上前に読んだものを引っ張り出して読み直している。世の中のあらゆる理論的対立は、プラトンとアリストテレスの対立と構造的に同型なのではないかと思い始めたのがその理由。これは、演繹的推論に基づく主張と帰納的推論に基づく主張の対立、と置き換えることもできるが、そこまで単純化してしまうのも危ないところ。人間が行う演繹的推論は(意識するか無意識かは別として)帰納的推論なしでは実行不可能だし、そもそも演繹的推論を表す論理モデルは気の遠くなるような帰納的推論を通じて得られたものである。ただ、ありえない理想に向かって演繹的に物を考える