あらすじ
近代国家と資本主義の正当性とは?
「人間的自由」の本質に立ち戻り近現代思想を根本から問い返す!
「国家」と「資本主義」の矛盾を克服し、その獰猛な格差原理を制御する新しい時代思想はいかにして可能か。ポストモダン思想をはじめとする20世紀社会思想の対抗原理の枠組みが失効したいま、資本主義的自由国家の「正当性」をどう哲学的に基礎づけるか。カント、ヘーゲル、マルクスら近代哲学に立ち戻り現代社会の行き先を再検証する画期的論考。
ヘーゲルは、「人間的自由」の本質は必ず近代の「自由国家」を必然化し、またそれは「放埒な欲求の体系」(競争的資本主義)へ転化すると考えた。そして近代国家の「人倫」の原理だけが、この矛盾を内的に制御し克服しうると主張した。……われわれはヘーゲルが近代国家論を完成したと考えたこの場面に立ち戻り、ヘーゲルの構想を、もういちど人間的自由の本質からはじめて“解体構築”しなおす必要があるのだ。――<本書より>
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Posted by ブクログ
自由とは、信念・目標・所有物などの個人的資産が、如何なる理由によっても妨げられない事だ。何が正しいかについて、絶対的根拠がない為に、万人に共通する理念とは、法律だけである。人間の良心的な承認行為を通じて、人間の幸福は築かれる。他者と異なる考えを持つ事によって、承認を得られない事態が生じても、それを理由に、社会から排斥される事は許されない事だ。個人の自由とは、名誉や物的財産、知的財産が、他者にとって不可侵の領域とされ、法的にも他者の侵犯から守られている状態を指す。その「自由」を前提として、私たちは様々な約束を他者と交わし、思想を交換する。社会は、共通の了解を得た規約から成立する。例え、個人的な信念に反する規約だとしても。よって、ある団体に参加する者は、規約を承認する事を表明しなければならない。現代では、如何なる社会的行為をも拒否して、己の意志だけに従う生き方が、生まれている。しかし、健康を維持し、経済的な自立が保持できるならば、人の生き方は基本的に自由である筈だ。いずれにせよ、自由とは、生活の基盤が守られた上で、初めて追求されるべき価値が生まれるのだと思われる。
Posted by ブクログ
ヘーゲルの『精神現象学』や『法の哲学』の議論から、自由な個人の相互承認に基づく承認ゲームとしての社会思想をつかみだし、その現代的な意義をあらためて検討しなおす試みです。
本書は、カント倫理学をポストモダン的な「他者」へと接続することを試みた柄谷行人の『トランスクリティーク』への批判からはじまります。わたくし自身も、後期柄谷のカント主義への傾倒は『探究Ⅰ・Ⅱ』の到達地点からの後退ではないかという疑問をいだいているのですが、その批判の方向性に関しては、著者の示す道にしたがうことはできないと考えています。著者の主張をひとことでいえば、カントの倫理学になお見いだされる「超越的なもの」「聖なるもの」の残滓を抜きとることで、「自由な欲求の体系」としての近代社会の本質が明瞭になるというものですが、著者の考える近代社会の本質は功利主義的なものにすぎず、カントの倫理学が道徳感情論を克服することを通じて確立されたという事情を忘却しているものといわざるをえません。
そもそも著者は、カントによる「超越的」と「超越論的」の区別が近代以降の哲学にもたらした射程を正確に理解していないように思われます。それは、著者のフッサール解釈の問題点にもなっており、また本書においては著者のハーバーマスに対する誤解の原因ともなっています。著者は、ハーバーマスのかかげる「コミュニケーション的理性」が、けっきょくは「イデオロギー対立」へと陥らざるをえないとしていますが、こうした議論はハーバーマスの論じた超越論的な妥当性に対する著者の無理解を明瞭に示しています。
東浩紀は『一般意志2.0』において、著者と同じくルソーを読みなおすことで現代的な社会哲学の可能性を論じていますが、わたくしの解釈では、東はそこでデリダ的な「散種」の思想をヒントにして、カントと柄谷の倫理の「超越論性」を複数化することをめざしているといってよいように思います。柄谷の政治思想を超越する方向性としては、むしろこうした議論の可能性がさぐられるべきではないかと考えます。