【感想・ネタバレ】人間的自由の条件  ヘーゲルとポストモダン思想のレビュー

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Posted by ブクログ 2012年09月19日

自由とは、信念・目標・所有物などの個人的資産が、如何なる理由によっても妨げられない事だ。何が正しいかについて、絶対的根拠がない為に、万人に共通する理念とは、法律だけである。人間の良心的な承認行為を通じて、人間の幸福は築かれる。他者と異なる考えを持つ事によって、承認を得られない事態が生じても、それを理...続きを読む由に、社会から排斥される事は許されない事だ。個人の自由とは、名誉や物的財産、知的財産が、他者にとって不可侵の領域とされ、法的にも他者の侵犯から守られている状態を指す。その「自由」を前提として、私たちは様々な約束を他者と交わし、思想を交換する。社会は、共通の了解を得た規約から成立する。例え、個人的な信念に反する規約だとしても。よって、ある団体に参加する者は、規約を承認する事を表明しなければならない。現代では、如何なる社会的行為をも拒否して、己の意志だけに従う生き方が、生まれている。しかし、健康を維持し、経済的な自立が保持できるならば、人の生き方は基本的に自由である筈だ。いずれにせよ、自由とは、生活の基盤が守られた上で、初めて追求されるべき価値が生まれるのだと思われる。

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Posted by ブクログ 2017年07月02日

2017.5.20
 難しい・・・。社会思想の本。ロックやルソーなどの社会思想を引き合いに出しながら、ポストモダンや現代思想における社会思想、つまり多様な人々が相互に意見を主張し共通了解を形作りながらそれに従い生きていくことの可能性と条件を論じている。
 社会思想というと、すごく大きな話のようにも思...続きを読むえるが、我々も普段、様々な人々と付き合いながら、また様々なコミュニティに所属しながら生きている。政治とは、国の方向性を合議によって決定していくプロセスだが、この「国」の部分を自分の所属する共同体に変えれば、どんな共同体にも、なんなら二人という対人関係においても、様々な価値観を持つ人々が互いに意見を出し合い答えを決めてそれに従うという構図が見て取れる。
 ただし、社会思想と、我々の所属する共同体とでは、その所属成員の多様性と数が圧倒的に違う。国レベルでは、例えば日本では1億以上の人々の合意形成を考えなければならず、必然それは、普遍的な答えへと中傷され、個々人の個々人らしさは捨象され、人間一般としての答えが求められるように思えるが、共同体に関してはもっと少ない、個々人の顔のわかる集団においての答えが求められる。この多様性の規模と数の規模は、手段における合意形成にどのような違いをもたらすのかは、とても興味があるところである。なぜなら私はむしろ、社会思想のような、人間一般にまで抽象化された答えよりも、むしろ私が日頃付き合う人々との関係の撮り方のほうが関心があるからである。そこでは、倫理や論理よりも、一般生や普遍性よりも、感情や欲望がより身勝手な形で働いているように思える。
 結局、三章は読むのを断念したが、また今度、もっと私の中での関係や社会に対する関心が大きくなった時に、読みたいなと思う。

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Posted by ブクログ 2018年02月04日

ヘーゲルの『精神現象学』や『法の哲学』の議論から、自由な個人の相互承認に基づく承認ゲームとしての社会思想をつかみだし、その現代的な意義をあらためて検討しなおす試みです。

本書は、カント倫理学をポストモダン的な「他者」へと接続することを試みた柄谷行人の『トランスクリティーク』への批判からはじまります...続きを読む。わたくし自身も、後期柄谷のカント主義への傾倒は『探究Ⅰ・Ⅱ』の到達地点からの後退ではないかという疑問をいだいているのですが、その批判の方向性に関しては、著者の示す道にしたがうことはできないと考えています。著者の主張をひとことでいえば、カントの倫理学になお見いだされる「超越的なもの」「聖なるもの」の残滓を抜きとることで、「自由な欲求の体系」としての近代社会の本質が明瞭になるというものですが、著者の考える近代社会の本質は功利主義的なものにすぎず、カントの倫理学が道徳感情論を克服することを通じて確立されたという事情を忘却しているものといわざるをえません。

そもそも著者は、カントによる「超越的」と「超越論的」の区別が近代以降の哲学にもたらした射程を正確に理解していないように思われます。それは、著者のフッサール解釈の問題点にもなっており、また本書においては著者のハーバーマスに対する誤解の原因ともなっています。著者は、ハーバーマスのかかげる「コミュニケーション的理性」が、けっきょくは「イデオロギー対立」へと陥らざるをえないとしていますが、こうした議論はハーバーマスの論じた超越論的な妥当性に対する著者の無理解を明瞭に示しています。

東浩紀は『一般意志2.0』において、著者と同じくルソーを読みなおすことで現代的な社会哲学の可能性を論じていますが、わたくしの解釈では、東はそこでデリダ的な「散種」の思想をヒントにして、カントと柄谷の倫理の「超越論性」を複数化することをめざしているといってよいように思います。柄谷の政治思想を超越する方向性としては、むしろこうした議論の可能性がさぐられるべきではないかと考えます。

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