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哲学というとなんだかむずかしそう.けれど,偉い人の立派な考えを学ぶのが哲学ではない.何か困難にぶつかったとき,ものごとを根本から考えてみたいとき,そこにはたくさんのノウハウがつまっている.近代の哲学者は自由や社会,そして自己についてどう考えてきたのか.自分をよりよく知るため,役に立つ哲学入門.
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Posted by ブクログ
宗教と文学と哲学と科学の違いを比較しながら説明してたのが面白かった。 宗教と文学はフィクション媒体という意味で共通してるけど、 宗教・・・宗派を作って他宗派と競い合う。始祖の言葉を出来るだけ聖なるものとして強化し、権威を強める。 文学・・・物語という枠に囚われていてその外には出られなくて、哲学...続きを読むや科学みたいに皆が共有出来る普遍のものを追求する事が出来ない。 という個性がある。 哲学と科学は皆が共有出来る普遍的なものという意味では似てるが違うところは、科学は以前に証明されたことに間違いがあれば改変はしつつも、積み上げて行くのに対して、哲学は前提がいつも一新されて変わる所が違うらしい。 この説明は凄い分かりやすかった。 竹田青嗣 (タケダ・セイジ) 1947年生まれ。 早稲田大学政治経済学部卒業。現在、早稲田大学国際教養学部教授。自分を深く知るために、他者とほんとうに関わるために哲学するユニークな思想家。著書に『自分を知るための哲学入門』『現代思想の冒険』『恋愛論』(ちくま学芸文庫)、『ニーチェ入門』『人間の未来』(ちくま新書)、『中学生からの哲学「超」入門』(ちくまプリマー新書)、『現象学入門』(NHKブックス)、『ハイデガー入門』『完全解読 ヘーゲル「精神現象学」』『完全解読 カント「純粋理性批判」』(講談社選書メチエ)などがある。 「最初に来たのは、文学である。チェーホフ、太宰、金鶴泳(在日二世作家)、漱石、ドストエフスキーなどが、わたしの文学の神だった(ちなみに音楽の神は井上陽水、やや遅れて哲学はフッサールとニーチェ)。 誰でも一人や二人は自分の「神」をもっている。ある人にとっては作家だろうし、ある人はロック歌手かもしれない。コミックや、芝居や、その他いろんなものである可能性がある。何か妙に自分を引きつけのめり込ませるようなものがあるとき、なぜそれがこんなに自分を引きつけるのかについて、考えてみる価値がある。それは人の感受性を深く触発しているのであり、だからその理由を考えてみることは、自分の美意識や価値感覚について理解するはじめの手がかりになるからだ。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「とりあえず、わたしにとって文学は、やっと見いだした取りつく島だった。そのころのことを思い出すと、文学の大きな効用がよく分かる。読んで面白いというだけでなく、文学は、絶望している人間にさまざまな問いを投げかけて、そのことで人を生かし続けるのだ。文学は必ずしも何か明るい希望を与えてくれるわけではない。むしろ反対かもしれない。文学は、人間にしばしば深い絶望のあることを教える。そしてその現実的な理由を暗示することで、絶望している人間を支えるという不思議な力がある。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「坂口安吾は「文学のふるさと」という有名なエッセイでこんなことを言っている。誰でも知っている「赤ずきん」という童話は、元の形では、赤ずきんは狼にむしゃむしゃと食べられて、それで話は終わってしまう。そのあとは何もない。そこにはじつに救いがない。でも、そういう救いのなさが、ある意味で文学のエッセンスの一つである、と。人間の世界はきれいごとでない。文学で大事なのは、いかにセンチメンタルやロマンを殺すか、ということだ。文学は、そういう独自の表現においてかえって人間の苦境を救う。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「ともあれ、文学のモラルとは、もっとシンプルに言えば、文学を単なる楽しみごとにしないという暗黙の内的な約束である。自分はほんとうに文学を必要としており、そのかぎりで書いたり読んだりします、という自身への内的な誓いのようなものだ。そんなことを思おうが思うまいが文学は存続しているではないか、という言い分もあるが、わたしは文学というものは、そのような内的なモラルのリレーとして受け継がれてきたと思う。青年期にわたしは、自分がひどいピンチに陥ったとき文学に出会った。それが自分を支えたのは、そこに文学の「モラル」というものがあったからだと思っている。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 書き手の「個性」や「内面」の表現ということが、文学の本質なのではない。むしろその表現を通して、同じような事態にぶつかって苦しんでいる人間に、それがじつは多くの人が共有している理由のある苦しみだ、ということを文学は示唆する。そこに文学の大きな力がある。竹田青嗣「哲学ってなんだ」 「ふしぎなことに、現象学の方法の核心が理解できると、それまでいくら読んでも分からなかった他の哲学者たちの問題設定やその答えの形が、どんどん理解できるようになっていった。わたしが自分自身のコンパスをもって哲学の森の奥深くに足を踏み入れるようになったのは、それからである。 以後わたしにとって哲学は、謎めいた仮装舞踏会ではなくなった。哲学がどのような問題の中で動いており、歴史の中でどのように進んできたのかはっきり見通せるようになった。それぞれの哲学者たちの方法の核もその変転の理由もよく見えるようになってきた。またそれをかなり簡潔に説明できる自信もある。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「(1) 哲学は、世界の「真理」をつかむための思考法ではなく、誰もが納得できる「普遍的」な世界理解のあり方を〝作り出す〟ための方法である。 (2) しかし哲学は、あくまで〝自分で考える〟ための方法である。 (3) 哲学はまた、最終的には、自分自身を了解し、自分と他者との関係を了解するための方法である。このかぎりで、自分の生が困難に陥ったときに役に立つ思考方法である。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「 ( 1)について。 哲学は、世界の「真理」を見出すための思考法である、というのは、古くからある通念だが、哲学の歴史では、とくに近代哲学の歴史ではこの考えはもはやほとんど滅びかけている。哲学は人間の認識と叡知についての原理を少しずつ推し進めてきたが、この進展の中で絶対的な「真理」という考えは、いわば天動説のようにもうそこに戻れない古い真理になっている。 絶対的な「真理」というものはない。ただ、どんな人間にとっても共通了解できる「事実」「事態」(自然科学、数学など)と、多様性が存在することが当然であるさまざまな世界観や価値観、倫理観などがある。それらは具体的には必ず違っているが、しかし共通的な普遍性もある。そういう原理を哲学は長い時間をかけて少しずつ追いつめてきたのだ。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「 ( 2)について。 近代哲学は、人間の本質を「自由な個人」として建て直した。このことで人間の知恵のあり方も大きく違ってきた。哲学は一見、高い知力をもった個々の哲学者たちの深い思索の〝結果〟であるかのように見える。しかしその本質は別のところにある。哲学の考え方は、歴史を通してたどっていくと、宗教のように際立って知恵の優れた人間の一つの世界理解をみんなで信用して尊重するといった仕方ではなく、むしろ、一人一人の人間が自分の固有の生と世界に対する自分なりの納得に到達するための方法、として少しずつ推し進められてきたことが分かる。 近代社会は統一的な信仰の崩壊した時代である。このことで各人が、自分の生と、自分と世界とのかかわりについて自分で了解し納得しなくてはならなくなった。じっさい、このような課題に応えるような哲学が、すぐれた哲学として生き残っている。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「 ( 3)について。 哲学は、世界についての高尚な「教説」ではない。哲学は、世界と自分の生をどのような仕方で深く納得するかという思考方法である。したがってそれは、まず自己了解の本質的な方法を与えるものである。そして、自分を知ることは、単なる自己納得ではなく自分と他者たちの関係の「原理」について了解することでもある。すべてはいったんここに戻り、またここから出発する。哲学の知は、単なる知識ではなく、一人一人の「生きる」という場面を通った知恵でなければ意味がないのだ。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「文学はわたしにとって、「ほんとうに必要な人だけがそれを取って生の糧とせよ」というモラルによって、その本質を保っていた。哲学とは何だったか。それはそこまで気づかなかったような独自の考え方だった。つまり哲学のモラルは、つねに一般的な理由ではなく自分の生の理由の中で考えよ、と言う。そしてまた、単に自分を支えるためでなく、自分が属している関係自身を支えるために考えよ、と教えるものだ。 現代では、しばしば、近代哲学は絶対的な「真理」をめざした考え方であり、それは多様性を認める開かれた考え方でなかった、などと言われている。だが、わたしには下手なウソに聞こえる。すぐれた哲学は、例外なくいま述べたようなモラルによって生きているからである。これから、それをゆっくり検証してみよう。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「哲学は、ヨーロッパでは紀元前五、六世紀ころにギリシャではじまった。ギリシャの東対岸にある(今のトルコにあたる)ミレトスのタレス(紀元前六二四頃 ~五四六)という人が、その創始者と言われている。彼は「万物の原理は水である」と説いたのだが、この言葉によって哲学の創始者となった。いったいこの言い方のどこが哲学だったのだろうか。 ちなみに言うと、「哲学」という独特の思考法はギリシャだけではなく中国やインドにも、ほぼ同じ時期に現われた。インドでは、バラモン教という宗教思想の中からウパニシャッド哲学と言われるものが登場し(紀元前五、六世紀頃から)、中国では老荘思想が哲学的思考にあたる(老子、紀元前五六〇(四二四)─?)。ここではとくにギリシャ哲学をとりあげるが、それはいくつかの理由でギリシャ哲学がとくに哲学的思考の特質をよく表現しているからだ。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「哲学とは何か。これにさしあたり答えると、それはつまり「世界」説明の方法である、と言える。どんな人でも生活の中で、日々の具体的な諸問題だけではなく、むしろ「生きること」そのものにかかわるような疑問が湧いてくる。たとえば、この世界はいったいどうしてできたのか? 人間は何のために生きているのか? 死んだら人間はどうなるのか? なぜこの私がこの世に存在しているのか? など。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「これが哲学の方法の第一原則だが、このことによって哲学は、神話が持っている文化的、空間的枠組みの限界を超え出るのである。すなわち、宗教的「物語」は文化の枠を超えることができないが、「概念」ならば一定の水準に達した文化なら共通に持っており、そのことで、これはいわば誰でもがそこに参加できる「世界説明の言語ゲーム」となるのである。 つまり、物語を使わず概念を論理的に使うという方法によって、哲学は、文化、宗教、民族を超えた開かれた世界説明のゲームを生み出した、と言える。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「つぎに( 2)の「原理思考」について。 哲学は、概念を論理的に使って世界を説明するが、とくに重要な秘訣があって、それは「原理」を提出するということだ。たとえばタレスは「万物の原理は水である」と言ったが、彼の意は、世界の森羅万象は「水」という最も基本の単位から構成されている、ということだ。これは、世界のあらゆる事物は、原子という最も基本の単位から構成されている、という近代の自然科学の考えの、歴史的な始発点なのである。だがここで大事なのは、この言い方には、世界をある「おおもとの単位」から構成されたものと考えてみよう、という提案があるということだ。そこが、「世界はじつはかくかく生じました」と説明する物語と違うところである。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「このことはまた、次のようなことを教える。われわれは一般的に、自然科学を客観科学、つまり世界を「あるがままに」捉える学問だと考えているが、ここにも大きな誤解がある。哲学と科学は、物語を使わずに「概念」と「原理」を使って世界を説明するが、このことで世界のあるがままの客観、つまり「真理」が把握されるのではない。じつはむしろただ、誰もが納得できる幅広い説明方式が得られる、というにすぎない。「普遍的なもの」とは、誰でもが共有できる世界の理解の仕方ということであって、「絶対的な真理」ではないのである。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「科学の知見は、一見絶対的なものに見えても少しずつ進歩する。必要がある場合、新しい現象が現れた場合はいつでも訂正可能なものなのだが、そのことは、「概念」と「原理」を使う説明原理であることで可能になっているのだ。 要するに、科学も哲学も、「絶対的な真理」を捉えるものではなく、「普遍的な理解」をより深く広範なものにしていくための思考方法なのである。 ではなぜ現在、こんなに哲学と科学が違ったものに見えるのか。その理由は少し複雑なので、近代哲学のところで説明することにしたい。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「 ( 3)哲学はつねに一から再始発する、ということ。 哲学は、単にさまざまな哲学者が人間と世界について多様な考えを述べているのではなく、必ず少しずつ「原理」が展開し深くなっている、とわたしは言った。これは、じつは「哲学はつねに再始発する」という、哲学の第三の基本方法に深くかかわっている。 哲学と宗教的な「物語」による世界説明を比べると、まず概念と原理を使うという点が大きな違いだが、もう一つの大事な相違点があって、それは哲学が「つねに一から再始発する」ということである。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「さきほど見たように、哲学では、師の教えを弟子がそのまま守る、ということはありえない。タレスの弟子のアナクシマンドロス、そのまた弟子のアナクシメネスは、それぞれ師の教えに反して新しい説を立てていた。しかしまさしくそれが哲学のルールなのだ。 宗教ではむしろ、「始祖」の言葉を〝聖化〟し絶対化する傾向がある。キリスト、孔子、仏陀、マホメットなどを考えればすぐに分かるだろう。そしてそれには理由がある。 宗教は一つの宗派を作る。そして互いに他の宗派と競い合う。だから宗教では、始祖の言葉を、できるだけ聖なるものとして強化することで権威を強めなくてはならない。そのためにどうしても、護教的になってしまう。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「また、とくに「一からの再始発」という方法から、哲学のもう一つの特質が現われる。わたしはすでに、哲学は〝自分で考えるための方法である〟ということについて触れた。しかし、じつは〝自分で考えること〟は、そう簡単ではない。なぜなら、人はさまざまな事柄について自分で考えているつもりでも、たいていの場合、すでに世の中に存在している既成の意見や見解から自分の感度に合ったものを選んで、それを自分の考えとして持つからである。これはどういうことかと言うと、つまり、すでに存在する意見の共同体の中に自分を投げ入れるということなのだ。 たとえば、それはあなたは保守派ですか進歩派ですか、と問われて、こちらに賛成します、みたいなものである。これだと既成の枠組みの中から考えを選んでいるのであって、根本的に考え直しているとはとうてい言えない。そういう意味で、自分で考えるとは、いわばこれまでの既成の枠組み、自明性に〝あらがって〟、できるだけ根本から、つまり一から考えることなのである。その結果、どちらかの考えに落ち着くことになっても、あるいは違う考えが出てきても、それは既成の枠組みで考えることとはまったく違うのだ。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「 現実には、足の速い人が足の遅い人を追い抜くのはごく普通に起こっていることなのだが、しかし論理的にはそれは「ありえないこと」となってしまうのだ。この問題も、昔からある哲学のパラドクスの代表だ。多くの哲学者や数学者がこの問題に興味をもって取り組んだが、この問題はまだ誰にもうまく解かれてはいないと言う哲学者もいる。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「哲学には変なパラドクス(逆説・背理)やアポリア(難問)がたくさんつきまとっている。これは哲学が「物語」を使わず、概念を論理的に使用することからくる独自の弱点でもある。つまりそれは、つねに論理的な錯覚の問いや不毛な形而上学的問いを生み出す。そこで哲学はしばしば、解けない難問を解き続ける(フリをする)パズルゲームの世界になってしまう。ここから、哲学がそのような不毛な言語パズルとなっていることへの絶えざる批判が、また哲学の必然的な課題になるのだ。 哲学の難問には充分警戒しなくてはならない。そういう哲学的パズルの誘惑に負けたら哲学の本質的な思考が死んでしまうからだ。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「わたしはここまで、哲学の思考の基本方法について見てきた。その中心点をもう一度確認しよう。 (1) 哲学の基本方法は、 ①物語ではなく「概念」を使う、 ②キーワードとして「原理」を提出する、 ③必ず一から再始発する、という形で要約される。 (2) このことで哲学は、「真理」を探求する方法というより、認識の「普遍性」を作り出していく開かれた思考の方法となる。ここに哲学が科学の基礎方法であることの理由もある。 (3) 哲学には、概念を使用するという方法からくる、論理的な難問やパラドクスにつきまとわれるという固有の弱点がある。だからこの弱点をたえず意識し克服しつづけることで、はじめて哲学はその本質的思考を保ちつづけることができる。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「ところが一九世紀以降、市民社会は「国民国家」と「資本主義」という大きな新しい矛盾を生み出し、多くの人びとがこの矛盾を克服する新しい考え方をつかもうとした。その代表がマルクス主義である。マルクス主義は、近代哲学がうち立てた「市民社会」の原理をもはや使い物にならない古い考え方として強く批判した。 以上のような理由で、一九世紀半ば以降、最新の現代思想にいたるまで、近代哲学はしばしば古くなったものと見られるようになっている。しかし、このような見方は間違っているとわたしは思う。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「ちなみに、このことははっきり言っておいたほうがよいと思うが、これから述べるような近代哲学の大きな輪郭も、すべて竹田説であって、おそらく近代哲学についての一般的理解とかなり違っている。私はある時点で哲学にひどく興味をもってその世界に足を踏み入れてみたら、夢中になるほど面白かった。ところが周りの哲学解説や解釈を読んでみると、おそろしく違う。とくに、プラトン、ヘーゲル、フッサール、ニーチェ、ハイデガーなどなど、みな過去の人のように扱われている。そのことが近代哲学を一から読み直してみる大きな動機になったのである。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「フッサールの現象学に出会った経緯については、はじめに少し触れた。現象学は著者が長く親しみ、研究もしてきた独自の哲学方法だが、これについてはしっかり紹介しようとすると言うべきことが多すぎて、とうてい書ききれない(興味のある人は、『はじめての現象学』(海鳥社)、『現象学入門』( NHKブックス)などを読んでください)。そこでここでは、現象学の二つの考え方、「現象学的還元」と「本質学」という概念を取り上げて解説してみる。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「ヨーロッパでは、近代思想が登場するまえ、カトリック正統に対抗してプロテスタントが起こり、以後長く宗教戦争が起こった。人々は「真の信仰」について自分たちこそ正しいと主張しあい、それだけで収まらず一五〇年前後にわたって殺し合った。どちらが正しいかの決着を付けようとした。だが、今度はそこに、まったく別の主張、じつは両方とも正しくなくて自分こそ正しいという主張が現れてきた。これが自然科学的世界像である。そして近代哲学の新しい社会思想は、この自然科学的世界像を土台として育ってくることになる。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「自然科学は、自然についての事実学である。そして科学の基本方法は、仮説を立て実験し検証するという方法である。ところがこの方法は、人間や社会の認識については役に立たない。その理由は、人間や社会は、自然とは違って〝客観的な事実〟としては捉えられるものではないからだ。 たとえば、「歴史学」はたしかに歴史事実を扱う。でも「歴史」とは事実を寄せ集めることではない。「歴史」ということでわれわれが行なっているのは、ちょうど一人の人間が自分がここまで生きてきた筋道を振り返り、そのことで自分自身のありようを了解しようとするのと同じことだ。だから歴史の本質は、人間の世界の進みゆきを自分もその一員としてある仕方で解釈し、理解することである。われわれはこのことを「事実」を手がかりに行なうのであって、事実それ自体の認識が歴史なのではない。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「歴史を理解することの本質は、われわれの(時間的)あり方の自己了解だった。過去に起こったことは無数にあるが、それらの「出来事」を手がかりに自分たちのあり方を解釈し了解しようとするのだ。同じように、社会を理解するとは、われわれが自分自身を取り囲んでいる関係の意味を自己了解することだ。社会の中の無数の出来事を手がかりに、それが自分たちにとってどのような関係と意味をもっているのかを、解釈し理解することである。要するに、心も、歴史も、社会も、事実の集積ではまったくないし、まして事実そのものの認識ではありえないのだ。 一九世紀以降の人文科学、実証科学は、人間と社会の問題を「事実学」として捉えようとしたために失敗した、そうフッサールは言った。それは自然事物とは違う独自の「本質」をもっており、この「本質」をとらえないといけない。だから人間や社会についての知は、「本質学」でなければならないのである。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「世の中には差別者と被差別者がいる、とはじめに考えないほうがいい。差別は、好き嫌いと同じように、人間関係に普遍的につきまとうできごとである。誰でも、そういう立場におかれたら、つい差別してしまうということがあるし、またされることがある。絶対に人を差別しないし、されない、という人はほとんどいない。そこで、人がつい差別してしまうことの、言い換えれば「差別するという経験」の本質契機を取り出してみると、つぎのようになる。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「一般的に言って、つい差別してしまう体質の人は、自分の自然なアイデンティティに不安があるからだと言える。自分なりの自己価値をそれなりに持っている人は、他人を差別する内的な理由が少ない。自己価値に不安があるほど、そういう機会があると無意識裡に他人の価値を相対的におとしめ、自分のアイデンティティを引き上げようとするのだ。 だがこのことは、人間の価値を、社会的な一般通念にだけあわせて受け取るということである。つまり、その人はいつでも社会の通念的な価値の中で生きており、しかもそのことに無自覚なのだ。 だがこういう態度はその人自身にとっても一つの危機でもあるといえる。もし自分が世間的な一般的価値からずれてしまったとき、決定的な打撃をこうむることになるからだ。勉強できるのが偉いとか、金持ちが偉いとか、そういう一般価値の中だけに自分を投げ込んでいると、自分が一般価値の秩序から落ちこぼれて挫折したときには、自分を救うことができない。違う考え方ができないからである。要するに、その人は狭い価値観、世界像の中に自分を閉じこめている。つまり世間の一般ルールをわれ知らず絶対視しており、うまく行っているときはいいが、少しでもこの価値規範からはずれると結局自分自身を苦しくするのだ。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「ともあれ、よい「自己了解」は、「ほんとうの自分」を探したり、自分自身の声をひたすら自分で聴くことではやってこない。それは自分についての他者の声をよく聞き取ることで、はじめてもたらされる。一歩すすんで言えば、自分自身の自己像と他人による自己像の間の「視差」(視線のズレ)を通してはじめて人は自分のあり方をよく了解できる。他人の声だけが、自分の過剰な思いこみやバランスを欠いた防衛や攻撃性などを教えてくれるからだ。 もちろん他人の声は万能ではないし、つねに他人の声にあわせるのがよいというわけではない。他人の声だけを頼りにしていると自分の主体が危くなる。他人の声を最終的に判断するのはやはり自分なのである。しかし一つ覚えておくべきことがある。もし他人がなんらかの理由で自分に攻撃やルサンチマン(ねたみ)を向けているのでなければ、他人の声は、つねに「正しい」とは言えなくともつねに「正直」な声だということだ。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「この本の狙いは、「哲学とはどういうものか」についてのある感触を理解してもらいたいということにあった。わたしなりに言うと、それは、自分や自分の周りの世界について当たり前と考えられていること、自明になっていることを、もう一度しっかり深く自分で考え直すための思考の方法である。だが、何のために? わたしはすでに世界像について話した。われわれはある社会に生まれ、その社会の持つ世界像を自然な世界像として受け取る。「真の世界」というものも、「世界の真理」というものも存在しない。われわれはさまざまな世界像をもち、さまざまな多様な価値と欲望を抱きあって互いに関係しているだけだ。 だから、世界を知るということは、世界それ自体を知るということではなくて、世界についての自分の理解のありかた、また自分と他人との関係のありかたを了解する、ということなのである。そして大事なのは、このことは決して知識の問題ではないということだ。もしも、世界が客観であるとしたら、現実が複雑な事実の総体だとしたら、世界を深く理解するということはそのために何十年もかかるということだ。つまり、それは知識勝ちということであり、たくさん勉強したり読書したりできる条件をもった人だけが、世界を正しく知ることができるということになる。でもそんなことはない。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「いちばん大事なのは、われわれが世界を深く知るということの意味、その原理をつかむことである。もしそのことがうまく行けば、われわれは世界の全体を知ろうなどと思わないで、むしろ問題や困難にぶつかったときにどのような態度が自分にとってベストかについて、納得のゆく考え方ができるだろう。われわれはただ一度だけしか生きることができない。だから自分の生のありかたをほんとうに深く納得して生きうるかそうでないかは重要なことだ。まさしくそういう意味で、哲学は深くよく生きるための思考の優れた方法なのである。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著 「もし哲学に興味が湧いたら、まず哲学者たちがこのことをどんなふうに伝えようとしているかを受け取るといい。そして、なるほどという納得がやってきたら、それだけでも一つのことだ。そして君が、もしそれ以上に哲学の世界に興味を引かれたら、そのときはとことん勉強して、いま廃れかけている哲学の本質をもういちど建て直すことができるかどうか、試してみてほしい。この仕事は、遅すぎるということはなくていつからでも大丈夫だ。なぜなら、哲学の本質的な仕事というのは、まさしくそういう試みとして歴史の中で何度も建て直されてきたものだからである。」 —『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
素晴らしく内容の濃い、良い入門書。しかし、これがジュニア新書という位置づけはどうなんだろうか。やさしいのはタイトルだけで、内容は大人でも若干難しい表現が多く使用されている。大人が哲学の入門書として読むには丁度良いと思う。しかし、この装丁はどう見ても子供用で、人前で手にするには恥ずかしい。このミスマッ...続きを読むチ感は、出版社の選択ミスとしか考えられない。
私たちは、青年期に、自分の生がたった一度に限定されていること、 自分こそこの生の取り換えがたい主人公であること、つまり、自分という 存在の絶対的な交換不可能性に気づく 哲学は、そんな私たちに、誰もが納得できる「普遍的」な世界理解の あり方を“作り出す”ための方法を示す。しかし、哲学は、あくまで “自...続きを読む分で考える”ための方法であり、自分が属している関係自身を 支えるために考えよ、と教えるものだ。 世界を知るということは、世界それ自体を知るということではなくて、 世界についての自分の理解のありかた、また自分と他人の関係の あり方を了解するということなのである。
最後まで読み終えて、「哲学とは」ではなく、「哲学ってなんだ」というタイトルであった事にひとり納得。読み始める前は哲学という学問は何なのかという一般的な説明をしてくれる本かなと思っていたけど、哲学という思考法の捉え方の流れを著者の目線から説明している。著者の青田さんの個人的な意見が前面に出ているが、ど...続きを読むういう立ち位置の意見であるかを著者自身が注釈を入れるように説明してくれるので、分かりやすかった。
哲学とは一体何なのか?という単純素朴な疑問がありこの本を読む。近代以前の絶対君主的な社会から相互に契約を結ぶという「自由」を主とした社会に変革する中で、宗教的な"物語"ではなく普遍的に了解される原理を導き出すこと。これこそが哲学の本質的役割だということだろうか。 絶対的に正しい世界というものは存在せ...続きを読むず、世界を自分がどう理解するのか、また自分と他人との関係性をどう理解するという「視点」の転換が面白い。絶対的な社会が存在することを前提に、それを見つけ出すことこそ(そしてそれには知識が不可欠であること)が哲学だと思っていたから。そうだとすれば、哲学は一部の学者の高尚な学問ではなく、誰もに関わりうる、というか精神的な困難に陥ったときに自分を支えてくれるものだと理解できる。 哲学の本なんだけど、文学について書かれた次の箇所が心に響く。まさに。 p11 表現を通して、同じような事態にぶつかって苦しんでいる人間に、それがじつは多くの人が共有している理由のある苦しみだ、ということを文学は示唆する。そこに文学の大きな力がある。そこに必ずしも解決策があるわけではない。でもそれが生き生きと表現されているということだけで、ふしぎなことに人間の苦境を救う。
岩波ジュニア新書からの出版なので、この本は中高生向けの本ということになっている。 しかし、哲学のテキストなどで参考文献として紹介されていたりして、内容的にはかなり質の高い入門書である。 特に近代から現代にかけての哲学が紹介されており、生活感覚に則した説明でわかりやすい。 「自由」というテーマで...続きを読む、近代以降の哲学者の紹介も、今日的な問題解決のための指針となり得るものであるし(第4章)、自己とは何かをヘーゲルとフロイトの思想から、展開する章(第5章)も哲学と生きていくことの関係を理解できる内容である。 ところで、私は入門書が好きである。 これまでに何冊もの入門書を読んだ。 入門書には、事柄の説明の他に「語り口」が学べる。 研究者の方々は、入門書を読んでわかったような顔をするのは、勘弁ならぬことかも知れないが、生活の中の必要性から考え、また他者に語らなければならない一般人には、やはり役に立つ。 ただ、入口の知識だけで全てを理解したような錯覚だけは避けたい。 謙虚な姿勢は忘れないようにしたい。
[ 内容 ] 哲学というとなんだかむずかしそう。 けれど、偉い人の立派な考えを学ぶのが哲学ではない。 何か困難にぶつかったとき、ものごとを根本から考えてみたいとき、そこにはたくさんのノウハウがつまっている。 哲学者たちは自由や社会、そして自己についてどう考えてきたのか。 自分をよりよく知るための役に...続きを読む立つ哲学入門。 [ 目次 ] 第1章 哲学との出会い 第2章 哲学の「方法」について 第3章 哲学の難問 第4章 近代の哲学者たち(近代哲学がめざしたこと 自由をつきつめる) 第5章 「自己」を哲学する(「自己」とは何か-自己意識と無意識 他者関係の現象学) おわりに 再び哲学とは何か [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]
比較的若い読者に向けて書かれた哲学の入門書です。ただし、著者自身の哲学的立場が前面に押し出されており、「岩波ジュニア新書」が想定しているはずの中高生の読者に適切な入門書といえるのか、若干疑問もあります。同じ「岩波ジュニア新書」からはバークリの研究者である戸田剛史の『世界について』も刊行されていますが...続きを読む、一般的な哲学の問題に触れるためにはそちらの本を手にとったほうがいいかもしれません。 著者はすでに『自分を知るための哲学入門』(ちくま学芸文庫)という入門書を刊行しており、近代哲学における認識論のアポリアをフッサールがどのように乗り越えたのかという点に焦点を当ててみずからの哲学的主張を開陳しています。それに対して本書では、近代哲学における「自由」の問題に焦点を当て、とくにヘーゲルにおいて各人の自由の追求が相互に支えあうことのできるような社会への展望が示されたことを高く評価しています。 また本書では、フロイトの精神分析についても考察がおこなわれています。著者は、フロイトの説は人間の心についてのひとつの信憑の表明でしかないといいつつ、無意識と呼ばれる欲望のかたちによって、われわれが世界に向きあう仕方が規定されていることがフロイトによって明らかにされたことを評価します。そのうえで、みずからの身体性や欲望、あるいは著者自身のいう「エロス」がどのような対象へと向けられているかを深く了解することで、自分自身を知り、また自己の自由を世界のなかで実現していく可能性が開かれていくと論じています。
すごく分かりやすいけれども、少し偏ってるような気がしました。 哲学とは、誰もが共通に納得できる「普遍的な」世界のあり方をつくりだす方法らしい!
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