竹田青嗣のレビュー一覧
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高校生の時、読書なんて全くしたことない私からしたら新書なんてものは読めたものではないとこの本も諦めてしまったが、大学4年にしてようやく再読、あの頃より少しは読書歴を積んだ今ようやくこの本を読破することが出来てとても嬉しい。
おもしろいと個人的に思ったのはニーチェによるその既存の絶対的な観念を重視する思想を徹底的に批判していく態度だった。
さらにニーチェは一貫して生の根底を「力への意志」としていて、そこを出発してあらゆる事柄を説明しているところに驚きもしたし、私もなにか文章を、意見を作る際はこうした根本の考えを明確にし、そこから出発して作っていくことで一貫性の保てるものを作れると思った。 -
Posted by ブクログ
まだ読んでいる途中だが、40%ほど読んだ。
間違いなく名著。先構成の誤謬についてハイデガーの了解やメルロポンティの身体論をとりあげラントグレーベ(存在の深さ、身体の受動的先構成、超越論的主観性の流れ)やリクール(予構造、予持、予視、予握)ら現象学者の批判をおさえ、ニーチェの遠近法から的確にそれらを反証する。
さらにヘーゲルの自己意識としての欲望を参照してゆく。
カント読解も凄まじい制度でメイヤスーへの批判からカントのアンチノミーについてがよく分かるようになっている。
メイヤスーやマルクスガブリエルを馬鹿のように有り難がる日本人のウンコなスネ夫ゴキブリメンタルに一撃を加えている。
明確に現代思想系の國分功一郎や松本卓也らと異なるスタンスをとる。
まずなによりテキスト読解そのものが欲望相関的、目的相関的でプラチック域がないことに気づかされる。この点、山本哲士と比較すると面白い。
アナクシマンドロスから入りパルメニデス(一なる存在)とヘラクレイトス(生成)との対立、そこにある感覚的なものと超感覚的なものの対立における時間の問題、この分裂を克服しようとしたヘーゲル。
エンペドクレス、レウキッポスからアナクサゴラスのヌース論へと、そこからソクラテスを論じニーチェ(禁欲主義)、プラトン(普遍性)、クセノフォン(人間の生に根差した道徳の再考)によるソクラテス読解を総覧。
プラトンをカント、アリストテレスをヘーゲルに対応させたり、もちろん本書における竹田青嗣はアリストテレス-ヘーゲル-竹田青嗣となっている。そのことが明確に意識されての構成だろう。
ともあれ松本卓也が指摘したアリストテレスの鬱病論の意味もこの本でようやく根っこから分かった。ハイデガーによるアリストテレスの時間論の読解は有名だが、アリストテレスは時間を空間化し論理学を整備してイデアを唯物論的なレベルにて批判、デュナミス、エネルゲイア、質料、形相、不動の動者(第一原因)などを構想。
哲学など門外漢でフワッとしていた理解が本書で全て理屈でつながりスッと頭に記憶される。
またヘーゲルの思考の思考はフーコーの問題構成、欲求の満足による矛盾の廃棄は、50年代ラカンのフリュストラシオン(欲求不満)に対応していることも本書からすぐに分かる。
生成のニーチェと存在のハイデガーとの古代ギリシャにあった対立の再現や力、動因の不可視問題も面白い。
ゴルギアステーゼはお馴染みとして、そこからヒュームの方法的経験論に至りカントを高精度に読み込む。
フィヒテ-シェリング-ヘーゲルと続くドイツ観念論の流れも分かりやすい。
またフッサールへの先構成批判に対するさらなる批判はかなり面白く現象学は構造主義、言語の作動が扱えない、という僕の疑念にも、こたえてくれた。
僕はレビューで竹田青嗣の哲学への批判をみることがあるが誰一人、何がどう甘いのか、どこに問題があるのか論理的に指摘しているものを観たことがない。ポエムのような批判をしても意味がないし、そんなに竹田青嗣の哲学を理解するのは簡単ではないとだけ言っておこう。自分で理論生産しないカスがピーピー騒ぐことほど頭の悪いことはない。なお僕は理論生産している側の人間である。
竹田青嗣の特徴は、ヘーゲル、フッサール(とニーチェ)をもっとも重視して近代的人間欲望における誤認(差違)を引き受ける自己技術として現象学を近代の可能条件にすえている、この点にあると思う。
一般意味の超越論的構成しか問えないフッサールに対してハイデガーの実存相関、道具的意味(気遣い)の一般意味にたいする優位を洞察したり、極めて重要な考察を多く含み、もっとも完成度の高い哲学の一つにあると思う。
またショーペンハウアーの幻燈の比喩が引用されているが、ひとつの灯(単一の主体、意志)が多様な表象を現象する旨が述べられており、本書の文脈においては盲目の意志が汎神論を駆逐した点が焦点されるが、この点に近代哲学の主体化、単一化、モノフォニー化、つまりカントの超越論的統覚の作動を観てとれる。
フーコーでいう狂気の排除があるということ。本書を読んで改めて西洋の哲学のモノフォニー化の強さを思い知った。フーコーがなぜあのようなポリフォニーの哲学(脱欲望、快楽プラチック、述語性)に向かわざるえなかったかがよく分かる。
ともあれ現代思想を理解する上でも近代哲学の最高到達点にある竹田青嗣の参照は極めて有効。
哲学の基礎のない人にとって最高の入門書でもある。
なお今の日本の保守がバーグ的(カント的)な物自体パラダイムを中心にシェリング的な汎神論的バックラッシュを惹き起こしているのもこの本からよく分かる。
他にもカントに対するロック、コンデャック、フィヒテの第一動者の話やヘーゲルの意識、自己意識、理性、精神、宗教、絶対知とか存在、本質、概念、理念など興味深い話は書ききれない。
ハイデガーの現とか始原論の話もある。
これでまだ40%を読んだ感想に過ぎない。
この本を読むまではカントのアンチノミーすらフワッとしていて数学的アンチノミーと力学的アンチノミーの狙いはおろか結論の区別すらなく、ヒュームとフッサールの関係も何も知らなかった。ショーペンハウアーなど名前しか分からなかったほど、古代ギリシャ哲学に関しては全くなにも知らず。
それが今では人に論理を解説できるくらいには頭に入った。
わずか数週間読んだだけで、哲学門外漢でも、これだけ基礎が身に付く。
そういう本。
あとヒュームのところは本当に重要で、原因本体を解体することで、いかなる欲望からそのように原因が措定されるかを洞察する。
独断論的物語の因果関係の今日的氾濫を理解する者にとってこれがいかに決定的に重要かは説明を必要としない。
なおフーコーにおいては原因が言説によって措定されると見なされて、言説プラチック分析に向かう。
欲望相関と言説相関、目的相関とプラチック相関、ここに近代哲学とフーコーとの最大の違いがある。これはテキストの読み方、およびその読み方に内在する権力関係の差違を構成する。
もしフーコーを学びたい人がいたら本書とつきあわせて取り組むと良い。 -
Posted by ブクログ
現在高校1年生哲学書を読み始めて4カ月の初学者です。
読みたくなった理由
進路について最近悩んでいてそのときどう生きるべきか、世界に価値や意味があるのか疑問に思ったため読み始めました。
難易度
難解な部分もあり、ニーチェのことを全く知らない人や哲学書を始めて読む人にとっては難しいと思います。入門書ではあると思いますが、三冊目ぐらいに読むと楽しめると思います。自分は哲学書を読み始めて4カ月になりますが楽しめました。
面白かったところ
私はキリスト教に対して知識がなく、キリスト教は楽観主義的で、それを批判しているのかと思っていたのですが、ニーチェはキリスト教の隣人愛や利他性は禁欲主義的理想であり、その行く先がニヒリズムであることを批判していて、自分の想像とギャップがあったため、面白かったです。
自分が世界の価値や意味をどう捉えるようになったか
自分も前から思っていたのですが、絶対的な価値や意味はやはりないと思います。
逆に絶対的な価値や意味がないとも言えない気がします。
なぜなら絶対的な価値や意味がないというのがすでに解釈であり、真理ではないからです。
絶対的な価値や意味がない世界をどう生きるか
やはり既存の価値基準に流されるのではなく、自分で価値観を選んだり、作る必要があると考えます。
なぜなら既存の価値基準は、誰かにとっての価値であり、解釈であるからです。
極めて当たり前のことですが、自分が何かに対して価値があるか、意味があるか、幸福であるかを感じているのであるから、他人や既存の価値基準では自分の人生を生きれないし幸福にはなれないです。
以上のことから、自分は既存の価値基準で死ぬのではなく、自分の価値基準で生きるべきであると考えました。
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Posted by ブクログ
哲学者に関する解説書は、大抵、解説対象の哲学者の著作の引用と、それに対する注釈からなります。
本書もそうした記述をとるわけですが、そこはハイデガー。
引用文が何を言っているのか、まるで分かりません。
もちろん訳者の巧拙もあるでしょうから、1、2か所ならそういうこともあるかと思います。
ですが、ハイデガーの場合、複数の訳者によるどの引用文でも、やっぱり訳(わけ)が分かりません。
そもそも変な術語ばっかりですから。
「現」「情状性」「了解」「語り」「頽落」とか、漢字の意味は分かるのに、文章上の語の意味が全然腑に落ちません。
原書を読み始めても、15分でリタイアする自信があります。
高校倫理以来、私はハイデガーに関して知りたいと思いつつ、ハイデガーの本を避けてきたのですが、どう考えても正しい判断でしたね。
しかし、引用文に続く本書の解説は綺麗です。
ハイデガーの提示する概念・論理・意図を単純な図式に整理し、ニーチェなど他の哲学者と対比させ、著者自身による批判を提示します。
まあ、ハイデガーの引用文が難解すぎて、本書の解説が的を得ているか私には検証できないのが困りものですが…
(本書でも術語のニュアンスを解説する箇所が何回もあるのですが、同著者の他の本ではそんなことなかったので、少なくとも日本語訳文だけからハイデガーを読み解くのは無理なのではないかと疑ってしまう…)
しかし、とても面白かったです。
ハイデガーの思想の解説もいいのですが、「わたしの考えでは~」から始まる著者の自説に頷けるものが多く、2度おいしい。
後者の例を挙げると、「『存在の問い』に対して、人は二通りの答え方しかできない。<事実のレベル>で答えるか、<意味のレベル>で答えるか、である。」(p.249)なんかは、「なぜ」という問いへの答えを竹を割ったかのように分類しています。
あるいは「どんな文化における人間にとっても、この「聖」-「俗」-「穢」という「世界の秩序」は普遍的かつ本質的である。」(p.142)とか、普通は「聖俗」の二項対立で考えられている概念を、いきなり三項で提示してくる。
まあ、色々な哲学者の解説書を書いている著者なので、誰かの説が下敷きになっているのかもしれません。
もしそうだとしても、こういう鮮やかな分析ををサラッと挿入してくるところは、私が竹田青嗣の本をつい集めてしまう美点の1つです。 -
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宗教と文学と哲学と科学の違いを比較しながら説明してたのが面白かった。
宗教と文学はフィクション媒体という意味で共通してるけど、
宗教・・・宗派を作って他宗派と競い合う。始祖の言葉を出来るだけ聖なるものとして強化し、権威を強める。
文学・・・物語という枠に囚われていてその外には出られなくて、哲学や科学みたいに皆が共有出来る普遍のものを追求する事が出来ない。
という個性がある。
哲学と科学は皆が共有出来る普遍的なものという意味では似てるが違うところは、科学は以前に証明されたことに間違いがあれば改変はしつつも、積み上げて行くのに対して、哲学は前提がいつも一新されて変わる所が違うらしい。
この説明は凄い分かりやすかった。
竹田青嗣 (タケダ・セイジ)
1947年生まれ。 早稲田大学政治経済学部卒業。現在、早稲田大学国際教養学部教授。自分を深く知るために、他者とほんとうに関わるために哲学するユニークな思想家。著書に『自分を知るための哲学入門』『現代思想の冒険』『恋愛論』(ちくま学芸文庫)、『ニーチェ入門』『人間の未来』(ちくま新書)、『中学生からの哲学「超」入門』(ちくまプリマー新書)、『現象学入門』(NHKブックス)、『ハイデガー入門』『完全解読 ヘーゲル「精神現象学」』『完全解読 カント「純粋理性批判」』(講談社選書メチエ)などがある。
「最初に来たのは、文学である。チェーホフ、太宰、金鶴泳(在日二世作家)、漱石、ドストエフスキーなどが、わたしの文学の神だった(ちなみに音楽の神は井上陽水、やや遅れて哲学はフッサールとニーチェ)。 誰でも一人や二人は自分の「神」をもっている。ある人にとっては作家だろうし、ある人はロック歌手かもしれない。コミックや、芝居や、その他いろんなものである可能性がある。何か妙に自分を引きつけのめり込ませるようなものがあるとき、なぜそれがこんなに自分を引きつけるのかについて、考えてみる価値がある。それは人の感受性を深く触発しているのであり、だからその理由を考えてみることは、自分の美意識や価値感覚について理解するはじめの手がかりになるからだ。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「とりあえず、わたしにとって文学は、やっと見いだした取りつく島だった。そのころのことを思い出すと、文学の大きな効用がよく分かる。読んで面白いというだけでなく、文学は、絶望している人間にさまざまな問いを投げかけて、そのことで人を生かし続けるのだ。文学は必ずしも何か明るい希望を与えてくれるわけではない。むしろ反対かもしれない。文学は、人間にしばしば深い絶望のあることを教える。そしてその現実的な理由を暗示することで、絶望している人間を支えるという不思議な力がある。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「坂口安吾は「文学のふるさと」という有名なエッセイでこんなことを言っている。誰でも知っている「赤ずきん」という童話は、元の形では、赤ずきんは狼にむしゃむしゃと食べられて、それで話は終わってしまう。そのあとは何もない。そこにはじつに救いがない。でも、そういう救いのなさが、ある意味で文学のエッセンスの一つである、と。人間の世界はきれいごとでない。文学で大事なのは、いかにセンチメンタルやロマンを殺すか、ということだ。文学は、そういう独自の表現においてかえって人間の苦境を救う。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「ともあれ、文学のモラルとは、もっとシンプルに言えば、文学を単なる楽しみごとにしないという暗黙の内的な約束である。自分はほんとうに文学を必要としており、そのかぎりで書いたり読んだりします、という自身への内的な誓いのようなものだ。そんなことを思おうが思うまいが文学は存続しているではないか、という言い分もあるが、わたしは文学というものは、そのような内的なモラルのリレーとして受け継がれてきたと思う。青年期にわたしは、自分がひどいピンチに陥ったとき文学に出会った。それが自分を支えたのは、そこに文学の「モラル」というものがあったからだと思っている。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
書き手の「個性」や「内面」の表現ということが、文学の本質なのではない。むしろその表現を通して、同じような事態にぶつかって苦しんでいる人間に、それがじつは多くの人が共有している理由のある苦しみだ、ということを文学は示唆する。そこに文学の大きな力がある。竹田青嗣「哲学ってなんだ」
「ふしぎなことに、現象学の方法の核心が理解できると、それまでいくら読んでも分からなかった他の哲学者たちの問題設定やその答えの形が、どんどん理解できるようになっていった。わたしが自分自身のコンパスをもって哲学の森の奥深くに足を踏み入れるようになったのは、それからである。 以後わたしにとって哲学は、謎めいた仮装舞踏会ではなくなった。哲学がどのような問題の中で動いており、歴史の中でどのように進んできたのかはっきり見通せるようになった。それぞれの哲学者たちの方法の核もその変転の理由もよく見えるようになってきた。またそれをかなり簡潔に説明できる自信もある。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「(1) 哲学は、世界の「真理」をつかむための思考法ではなく、誰もが納得できる「普遍的」な世界理解のあり方を〝作り出す〟ための方法である。 (2) しかし哲学は、あくまで〝自分で考える〟ための方法である。 (3) 哲学はまた、最終的には、自分自身を了解し、自分と他者との関係を了解するための方法である。このかぎりで、自分の生が困難に陥ったときに役に立つ思考方法である。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「 ( 1)について。 哲学は、世界の「真理」を見出すための思考法である、というのは、古くからある通念だが、哲学の歴史では、とくに近代哲学の歴史ではこの考えはもはやほとんど滅びかけている。哲学は人間の認識と叡知についての原理を少しずつ推し進めてきたが、この進展の中で絶対的な「真理」という考えは、いわば天動説のようにもうそこに戻れない古い真理になっている。 絶対的な「真理」というものはない。ただ、どんな人間にとっても共通了解できる「事実」「事態」(自然科学、数学など)と、多様性が存在することが当然であるさまざまな世界観や価値観、倫理観などがある。それらは具体的には必ず違っているが、しかし共通的な普遍性もある。そういう原理を哲学は長い時間をかけて少しずつ追いつめてきたのだ。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「 ( 2)について。 近代哲学は、人間の本質を「自由な個人」として建て直した。このことで人間の知恵のあり方も大きく違ってきた。哲学は一見、高い知力をもった個々の哲学者たちの深い思索の〝結果〟であるかのように見える。しかしその本質は別のところにある。哲学の考え方は、歴史を通してたどっていくと、宗教のように際立って知恵の優れた人間の一つの世界理解をみんなで信用して尊重するといった仕方ではなく、むしろ、一人一人の人間が自分の固有の生と世界に対する自分なりの納得に到達するための方法、として少しずつ推し進められてきたことが分かる。 近代社会は統一的な信仰の崩壊した時代である。このことで各人が、自分の生と、自分と世界とのかかわりについて自分で了解し納得しなくてはならなくなった。じっさい、このような課題に応えるような哲学が、すぐれた哲学として生き残っている。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「 ( 3)について。 哲学は、世界についての高尚な「教説」ではない。哲学は、世界と自分の生をどのような仕方で深く納得するかという思考方法である。したがってそれは、まず自己了解の本質的な方法を与えるものである。そして、自分を知ることは、単なる自己納得ではなく自分と他者たちの関係の「原理」について了解することでもある。すべてはいったんここに戻り、またここから出発する。哲学の知は、単なる知識ではなく、一人一人の「生きる」という場面を通った知恵でなければ意味がないのだ。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「文学はわたしにとって、「ほんとうに必要な人だけがそれを取って生の糧とせよ」というモラルによって、その本質を保っていた。哲学とは何だったか。それはそこまで気づかなかったような独自の考え方だった。つまり哲学のモラルは、つねに一般的な理由ではなく自分の生の理由の中で考えよ、と言う。そしてまた、単に自分を支えるためでなく、自分が属している関係自身を支えるために考えよ、と教えるものだ。 現代では、しばしば、近代哲学は絶対的な「真理」をめざした考え方であり、それは多様性を認める開かれた考え方でなかった、などと言われている。だが、わたしには下手なウソに聞こえる。すぐれた哲学は、例外なくいま述べたようなモラルによって生きているからである。これから、それをゆっくり検証してみよう。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「哲学は、ヨーロッパでは紀元前五、六世紀ころにギリシャではじまった。ギリシャの東対岸にある(今のトルコにあたる)ミレトスのタレス(紀元前六二四頃 ~五四六)という人が、その創始者と言われている。彼は「万物の原理は水である」と説いたのだが、この言葉によって哲学の創始者となった。いったいこの言い方のどこが哲学だったのだろうか。 ちなみに言うと、「哲学」という独特の思考法はギリシャだけではなく中国やインドにも、ほぼ同じ時期に現われた。インドでは、バラモン教という宗教思想の中からウパニシャッド哲学と言われるものが登場し(紀元前五、六世紀頃から)、中国では老荘思想が哲学的思考にあたる(老子、紀元前五六〇(四二四)─?)。ここではとくにギリシャ哲学をとりあげるが、それはいくつかの理由でギリシャ哲学がとくに哲学的思考の特質をよく表現しているからだ。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「哲学とは何か。これにさしあたり答えると、それはつまり「世界」説明の方法である、と言える。どんな人でも生活の中で、日々の具体的な諸問題だけではなく、むしろ「生きること」そのものにかかわるような疑問が湧いてくる。たとえば、この世界はいったいどうしてできたのか? 人間は何のために生きているのか? 死んだら人間はどうなるのか? なぜこの私がこの世に存在しているのか? など。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「これが哲学の方法の第一原則だが、このことによって哲学は、神話が持っている文化的、空間的枠組みの限界を超え出るのである。すなわち、宗教的「物語」は文化の枠を超えることができないが、「概念」ならば一定の水準に達した文化なら共通に持っており、そのことで、これはいわば誰でもがそこに参加できる「世界説明の言語ゲーム」となるのである。 つまり、物語を使わず概念を論理的に使うという方法によって、哲学は、文化、宗教、民族を超えた開かれた世界説明のゲームを生み出した、と言える。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「つぎに( 2)の「原理思考」について。 哲学は、概念を論理的に使って世界を説明するが、とくに重要な秘訣があって、それは「原理」を提出するということだ。たとえばタレスは「万物の原理は水である」と言ったが、彼の意は、世界の森羅万象は「水」という最も基本の単位から構成されている、ということだ。これは、世界のあらゆる事物は、原子という最も基本の単位から構成されている、という近代の自然科学の考えの、歴史的な始発点なのである。だがここで大事なのは、この言い方には、世界をある「おおもとの単位」から構成されたものと考えてみよう、という提案があるということだ。そこが、「世界はじつはかくかく生じました」と説明する物語と違うところである。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「このことはまた、次のようなことを教える。われわれは一般的に、自然科学を客観科学、つまり世界を「あるがままに」捉える学問だと考えているが、ここにも大きな誤解がある。哲学と科学は、物語を使わずに「概念」と「原理」を使って世界を説明するが、このことで世界のあるがままの客観、つまり「真理」が把握されるのではない。じつはむしろただ、誰もが納得できる幅広い説明方式が得られる、というにすぎない。「普遍的なもの」とは、誰でもが共有できる世界の理解の仕方ということであって、「絶対的な真理」ではないのである。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「科学の知見は、一見絶対的なものに見えても少しずつ進歩する。必要がある場合、新しい現象が現れた場合はいつでも訂正可能なものなのだが、そのことは、「概念」と「原理」を使う説明原理であることで可能になっているのだ。 要するに、科学も哲学も、「絶対的な真理」を捉えるものではなく、「普遍的な理解」をより深く広範なものにしていくための思考方法なのである。 ではなぜ現在、こんなに哲学と科学が違ったものに見えるのか。その理由は少し複雑なので、近代哲学のところで説明することにしたい。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「 ( 3)哲学はつねに一から再始発する、ということ。 哲学は、単にさまざまな哲学者が人間と世界について多様な考えを述べているのではなく、必ず少しずつ「原理」が展開し深くなっている、とわたしは言った。これは、じつは「哲学はつねに再始発する」という、哲学の第三の基本方法に深くかかわっている。 哲学と宗教的な「物語」による世界説明を比べると、まず概念と原理を使うという点が大きな違いだが、もう一つの大事な相違点があって、それは哲学が「つねに一から再始発する」ということである。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「さきほど見たように、哲学では、師の教えを弟子がそのまま守る、ということはありえない。タレスの弟子のアナクシマンドロス、そのまた弟子のアナクシメネスは、それぞれ師の教えに反して新しい説を立てていた。しかしまさしくそれが哲学のルールなのだ。 宗教ではむしろ、「始祖」の言葉を〝聖化〟し絶対化する傾向がある。キリスト、孔子、仏陀、マホメットなどを考えればすぐに分かるだろう。そしてそれには理由がある。 宗教は一つの宗派を作る。そして互いに他の宗派と競い合う。だから宗教では、始祖の言葉を、できるだけ聖なるものとして強化することで権威を強めなくてはならない。そのためにどうしても、護教的になってしまう。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「また、とくに「一からの再始発」という方法から、哲学のもう一つの特質が現われる。わたしはすでに、哲学は〝自分で考えるための方法である〟ということについて触れた。しかし、じつは〝自分で考えること〟は、そう簡単ではない。なぜなら、人はさまざまな事柄について自分で考えているつもりでも、たいていの場合、すでに世の中に存在している既成の意見や見解から自分の感度に合ったものを選んで、それを自分の考えとして持つからである。これはどういうことかと言うと、つまり、すでに存在する意見の共同体の中に自分を投げ入れるということなのだ。 たとえば、それはあなたは保守派ですか進歩派ですか、と問われて、こちらに賛成します、みたいなものである。これだと既成の枠組みの中から考えを選んでいるのであって、根本的に考え直しているとはとうてい言えない。そういう意味で、自分で考えるとは、いわばこれまでの既成の枠組み、自明性に〝あらがって〟、できるだけ根本から、つまり一から考えることなのである。その結果、どちらかの考えに落ち着くことになっても、あるいは違う考えが出てきても、それは既成の枠組みで考えることとはまったく違うのだ。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「 現実には、足の速い人が足の遅い人を追い抜くのはごく普通に起こっていることなのだが、しかし論理的にはそれは「ありえないこと」となってしまうのだ。この問題も、昔からある哲学のパラドクスの代表だ。多くの哲学者や数学者がこの問題に興味をもって取り組んだが、この問題はまだ誰にもうまく解かれてはいないと言う哲学者もいる。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「哲学には変なパラドクス(逆説・背理)やアポリア(難問)がたくさんつきまとっている。これは哲学が「物語」を使わず、概念を論理的に使用することからくる独自の弱点でもある。つまりそれは、つねに論理的な錯覚の問いや不毛な形而上学的問いを生み出す。そこで哲学はしばしば、解けない難問を解き続ける(フリをする)パズルゲームの世界になってしまう。ここから、哲学がそのような不毛な言語パズルとなっていることへの絶えざる批判が、また哲学の必然的な課題になるのだ。 哲学の難問には充分警戒しなくてはならない。そういう哲学的パズルの誘惑に負けたら哲学の本質的な思考が死んでしまうからだ。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「わたしはここまで、哲学の思考の基本方法について見てきた。その中心点をもう一度確認しよう。 (1) 哲学の基本方法は、 ①物語ではなく「概念」を使う、 ②キーワードとして「原理」を提出する、 ③必ず一から再始発する、という形で要約される。 (2) このことで哲学は、「真理」を探求する方法というより、認識の「普遍性」を作り出していく開かれた思考の方法となる。ここに哲学が科学の基礎方法であることの理由もある。 (3) 哲学には、概念を使用するという方法からくる、論理的な難問やパラドクスにつきまとわれるという固有の弱点がある。だからこの弱点をたえず意識し克服しつづけることで、はじめて哲学はその本質的思考を保ちつづけることができる。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「ところが一九世紀以降、市民社会は「国民国家」と「資本主義」という大きな新しい矛盾を生み出し、多くの人びとがこの矛盾を克服する新しい考え方をつかもうとした。その代表がマルクス主義である。マルクス主義は、近代哲学がうち立てた「市民社会」の原理をもはや使い物にならない古い考え方として強く批判した。 以上のような理由で、一九世紀半ば以降、最新の現代思想にいたるまで、近代哲学はしばしば古くなったものと見られるようになっている。しかし、このような見方は間違っているとわたしは思う。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「ちなみに、このことははっきり言っておいたほうがよいと思うが、これから述べるような近代哲学の大きな輪郭も、すべて竹田説であって、おそらく近代哲学についての一般的理解とかなり違っている。私はある時点で哲学にひどく興味をもってその世界に足を踏み入れてみたら、夢中になるほど面白かった。ところが周りの哲学解説や解釈を読んでみると、おそろしく違う。とくに、プラトン、ヘーゲル、フッサール、ニーチェ、ハイデガーなどなど、みな過去の人のように扱われている。そのことが近代哲学を一から読み直してみる大きな動機になったのである。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「フッサールの現象学に出会った経緯については、はじめに少し触れた。現象学は著者が長く親しみ、研究もしてきた独自の哲学方法だが、これについてはしっかり紹介しようとすると言うべきことが多すぎて、とうてい書ききれない(興味のある人は、『はじめての現象学』(海鳥社)、『現象学入門』( NHKブックス)などを読んでください)。そこでここでは、現象学の二つの考え方、「現象学的還元」と「本質学」という概念を取り上げて解説してみる。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「ヨーロッパでは、近代思想が登場するまえ、カトリック正統に対抗してプロテスタントが起こり、以後長く宗教戦争が起こった。人々は「真の信仰」について自分たちこそ正しいと主張しあい、それだけで収まらず一五〇年前後にわたって殺し合った。どちらが正しいかの決着を付けようとした。だが、今度はそこに、まったく別の主張、じつは両方とも正しくなくて自分こそ正しいという主張が現れてきた。これが自然科学的世界像である。そして近代哲学の新しい社会思想は、この自然科学的世界像を土台として育ってくることになる。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「自然科学は、自然についての事実学である。そして科学の基本方法は、仮説を立て実験し検証するという方法である。ところがこの方法は、人間や社会の認識については役に立たない。その理由は、人間や社会は、自然とは違って〝客観的な事実〟としては捉えられるものではないからだ。 たとえば、「歴史学」はたしかに歴史事実を扱う。でも「歴史」とは事実を寄せ集めることではない。「歴史」ということでわれわれが行なっているのは、ちょうど一人の人間が自分がここまで生きてきた筋道を振り返り、そのことで自分自身のありようを了解しようとするのと同じことだ。だから歴史の本質は、人間の世界の進みゆきを自分もその一員としてある仕方で解釈し、理解することである。われわれはこのことを「事実」を手がかりに行なうのであって、事実それ自体の認識が歴史なのではない。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「歴史を理解することの本質は、われわれの(時間的)あり方の自己了解だった。過去に起こったことは無数にあるが、それらの「出来事」を手がかりに自分たちのあり方を解釈し了解しようとするのだ。同じように、社会を理解するとは、われわれが自分自身を取り囲んでいる関係の意味を自己了解することだ。社会の中の無数の出来事を手がかりに、それが自分たちにとってどのような関係と意味をもっているのかを、解釈し理解することである。要するに、心も、歴史も、社会も、事実の集積ではまったくないし、まして事実そのものの認識ではありえないのだ。 一九世紀以降の人文科学、実証科学は、人間と社会の問題を「事実学」として捉えようとしたために失敗した、そうフッサールは言った。それは自然事物とは違う独自の「本質」をもっており、この「本質」をとらえないといけない。だから人間や社会についての知は、「本質学」でなければならないのである。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「世の中には差別者と被差別者がいる、とはじめに考えないほうがいい。差別は、好き嫌いと同じように、人間関係に普遍的につきまとうできごとである。誰でも、そういう立場におかれたら、つい差別してしまうということがあるし、またされることがある。絶対に人を差別しないし、されない、という人はほとんどいない。そこで、人がつい差別してしまうことの、言い換えれば「差別するという経験」の本質契機を取り出してみると、つぎのようになる。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「一般的に言って、つい差別してしまう体質の人は、自分の自然なアイデンティティに不安があるからだと言える。自分なりの自己価値をそれなりに持っている人は、他人を差別する内的な理由が少ない。自己価値に不安があるほど、そういう機会があると無意識裡に他人の価値を相対的におとしめ、自分のアイデンティティを引き上げようとするのだ。 だがこのことは、人間の価値を、社会的な一般通念にだけあわせて受け取るということである。つまり、その人はいつでも社会の通念的な価値の中で生きており、しかもそのことに無自覚なのだ。 だがこういう態度はその人自身にとっても一つの危機でもあるといえる。もし自分が世間的な一般的価値からずれてしまったとき、決定的な打撃をこうむることになるからだ。勉強できるのが偉いとか、金持ちが偉いとか、そういう一般価値の中だけに自分を投げ込んでいると、自分が一般価値の秩序から落ちこぼれて挫折したときには、自分を救うことができない。違う考え方ができないからである。要するに、その人は狭い価値観、世界像の中に自分を閉じこめている。つまり世間の一般ルールをわれ知らず絶対視しており、うまく行っているときはいいが、少しでもこの価値規範からはずれると結局自分自身を苦しくするのだ。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「ともあれ、よい「自己了解」は、「ほんとうの自分」を探したり、自分自身の声をひたすら自分で聴くことではやってこない。それは自分についての他者の声をよく聞き取ることで、はじめてもたらされる。一歩すすんで言えば、自分自身の自己像と他人による自己像の間の「視差」(視線のズレ)を通してはじめて人は自分のあり方をよく了解できる。他人の声だけが、自分の過剰な思いこみやバランスを欠いた防衛や攻撃性などを教えてくれるからだ。 もちろん他人の声は万能ではないし、つねに他人の声にあわせるのがよいというわけではない。他人の声だけを頼りにしていると自分の主体が危くなる。他人の声を最終的に判断するのはやはり自分なのである。しかし一つ覚えておくべきことがある。もし他人がなんらかの理由で自分に攻撃やルサンチマン(ねたみ)を向けているのでなければ、他人の声は、つねに「正しい」とは言えなくともつねに「正直」な声だということだ。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「この本の狙いは、「哲学とはどういうものか」についてのある感触を理解してもらいたいということにあった。わたしなりに言うと、それは、自分や自分の周りの世界について当たり前と考えられていること、自明になっていることを、もう一度しっかり深く自分で考え直すための思考の方法である。だが、何のために? わたしはすでに世界像について話した。われわれはある社会に生まれ、その社会の持つ世界像を自然な世界像として受け取る。「真の世界」というものも、「世界の真理」というものも存在しない。われわれはさまざまな世界像をもち、さまざまな多様な価値と欲望を抱きあって互いに関係しているだけだ。 だから、世界を知るということは、世界それ自体を知るということではなくて、世界についての自分の理解のありかた、また自分と他人との関係のありかたを了解する、ということなのである。そして大事なのは、このことは決して知識の問題ではないということだ。もしも、世界が客観であるとしたら、現実が複雑な事実の総体だとしたら、世界を深く理解するということはそのために何十年もかかるということだ。つまり、それは知識勝ちということであり、たくさん勉強したり読書したりできる条件をもった人だけが、世界を正しく知ることができるということになる。でもそんなことはない。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「いちばん大事なのは、われわれが世界を深く知るということの意味、その原理をつかむことである。もしそのことがうまく行けば、われわれは世界の全体を知ろうなどと思わないで、むしろ問題や困難にぶつかったときにどのような態度が自分にとってベストかについて、納得のゆく考え方ができるだろう。われわれはただ一度だけしか生きることができない。だから自分の生のありかたをほんとうに深く納得して生きうるかそうでないかは重要なことだ。まさしくそういう意味で、哲学は深くよく生きるための思考の優れた方法なのである。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
「もし哲学に興味が湧いたら、まず哲学者たちがこのことをどんなふうに伝えようとしているかを受け取るといい。そして、なるほどという納得がやってきたら、それだけでも一つのことだ。そして君が、もしそれ以上に哲学の世界に興味を引かれたら、そのときはとことん勉強して、いま廃れかけている哲学の本質をもういちど建て直すことができるかどうか、試してみてほしい。この仕事は、遅すぎるということはなくていつからでも大丈夫だ。なぜなら、哲学の本質的な仕事というのは、まさしくそういう試みとして歴史の中で何度も建て直されてきたものだからである。」
—『哲学ってなんだ 自分と社会を知る (岩波ジュニア新書)』竹田 青嗣著
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竹田青嗣先生と苫野一徳さんの初の対談本、
一気に読んでしまいました。
普遍暴力をいかに逓減するか、という問いかけ。
ずっと頭にこびりつきながら問いかけていたことは、
「ではどうやったら具体的に、日常においてそれが可能か」
ということ。
仕事や、家庭、あるいはそれぞれの共同体の中で、
「場」を創設していくには?
あるいは確かによくできた原理かもしれないが、
覇権主義の現在の世界システムで、「相互承認」の感度を世界的に育んでいくことはできるのか?
人間には理性とは別のエゴイズムの原理があって、道徳はおろか法をも掻い潜ってそれが制御不能なものになるのが人間の常ではないか。
(いじめや学級崩壊やパワハラの現場や無秩序な街を前にして、
私たちは「原理」を確認し「対話」をできるか)
現代社会の強固なシステムと欲望、
あるいは、「そもそも」を振り返り考える思考回路が形成されていない人が多数ななか、
「対話のテーブル」をつくることはどこまで可能なのか。
一部の天才たちがギリギリまで考え抜いて宝石のように残った「原理」は果たして本当に暴力と経済の原理で動く現場や社会を動かす力になりえるのかどうか、ということです。
さて、
哲学というのは、
物事の「そもそも」の本質を、誰もが納得できる言葉で見つけ出していく営みです。
世界の説明には、
物語の方法か、原理の方法か二通りしかありません。
それぞれに長所と短所があります。
前者の代表が「宗教」「神」(スピリチュアル含む)ですが、
決して普遍的なものにはなり難いのです。
他方、後者の営みは誰にも疑えない出発点から思考をスタートさせていきます。
哲学は「真理探究の学問」とよく言われますが、そうではなく「言葉はそもそも真理を言い当てることはできない」ということが、常識です。
「正しい絵」ではなくて「万人がなるほどと納得できる絵」が描けるかどうか、なのです。
哲学の方法は、科学の方法も生み出し、物質の最小単位、構造、動因、全体像という現代物理学に至るまでの枠組みを作り上げているのです。
私自身は、キリスト者であり、世界の根源には「大いなる意志」が働いていると直感し、確信し、それに賭ける立場でありますし、
「認識」以前に「存在」が先立つ、と「思う」、わけですが、
これは客観的には証明不可能です。
だからと言って「ない」「別の何かだ」とは「わからない」。
哲学は、「欲望相関性」の相で還元していく。
これはつい「真理」を巡って議論しがちで何千年決着が永遠につかない宗教の世界でも「これは確かにいいやり方だ」と思える知恵です。
現象学では、
「リンゴがあるから、わたしはそれが見える」
ではなく、
「わたしは、リンゴが見えている、と確信している」
という立場から議論をはじめていくわけです。
現代の世界をどうしていくか、という問題に対して。
世界とはこういうものだと言い切る体系化された説明が挫折した後、
なんでもかんでも相対化し、「人それぞれ」「ただしさなんて人それぞれ」「要するにみんな見えない権力」というポストモダン思想も座礁した中、
すでに葬り去られたと思われていたヘーゲルやフッサールの中に現代にも通用する普遍的な思考法があると言います。
対談の中で、興味深かったのが、
「権力をなくしてしまえ」「資本主義を解体してしまえ」「国家を揚棄せよ」
というのではなく、
「どういう権力であれば正当であると言えるのか」
「国家同士の自由の相互承認」の可能性を現実的に追求している点です。
「哲学対話」「本質観取」
また身近なところで定期的にやってみたいと思います。 -
Posted by ブクログ
透徹した客観性でもってシステマチックにハイデガーの思想を整理しており(その問題点も含めて)、大いに理解を助けてくれた。特に『存在と時間』を解説した第2章・第3章がよかった。以下は『存在と時間』の主なキーワードについての引用。
【実存】
人間は、自分自身のあり方に対してさまざまなレベルで欲望、関心、配慮を向け、そのようなものとして自分を了解している存在である。……ハイデガーは人間のこのような存在仕方の独自性を「実存」と呼ぶ。(p.57)
【世界内存在】
では、人間は「世界内存在」であるとはどういうことか。……人間は「世界の内に存在する」とか「世界全体と深く関係している」という意味で受け取るなら、それは典型的な誤解。……実存論的な世界の見方は、「世界とは個々の人間によって現に生きられているその世界である」という感じ(p.60)
【世人】
「世人自己」、つまりたいていの「私」は、差しあたり「おのれに固有な自己」という自分の存在を了解しないで、むしろ「世人のほうから」(=世間の価値基準から)自分自身が何であるかを了解している。(p.85)
【被投性】
「被投性」は、ハイデガーの言い方では「人間存在が〈否応なく存在しつづけなければならないという重荷〉として存在すること」だが、もっと大きくとると、人間が必ず「何らかの存在与件として規定されていること」(p.102)
人間が「存在」へと投げ込まれていること。つまり自分の存在の根拠を自分で持たず、たまたま世界に投げ込まれている、というニュアンス(第2章注5、pp.121-122)
【情状性】
……自分の「生きている」ということを可能にしている根本的な根拠と言えるものは何か、と問うてみる。……ハイデガーによると、その最後のものが「気分」なのである。……「気分」を何か特定の「感情」や「情緒」と考えると分かりにくい。……感情や情動がつねにすでに動いていること。このことが、……人間的な心の働きの土台をなしている。(pp.92-93)
【了解】
「了解」はいわば“自分の心の色模様を感じる”ということだが、それは単に“自分の気分を知ること”を超えて新しい自分の可能性(=目標設定)を指し示すことでもある。(p.98)
【語り】
「語り」という契機の力点は二つある。第一点は、人間の了解可能性(したがって「情状性」の分節可能性も)がすでに「言葉」の網の目によって規定されているということ。第二点は、これがさらに大事な点だが、人間の存在がけっして孤立した存在ではなく、つねにすでに他者たちとともにあるような「現」として存在していることをも示している、ということである。(pp.102-103)
【頽落】
「世人であること」、ふつうの人間として日常的に生活していること、それは「本来的な」存在仕方から何らかの理由で「頽落」していることを意味する。(pp.85-86)
……「平均的日常」における人間存在はすでに「頽落」している。それをどう性格づければいいか。ハイデガーの与えた指標は三つ。1「空談」、2「好奇心」、3「曖昧性」である。(p.105)
※著者の疑義:〔「本来性-非本来性」という二項区分〕は、平均的日常、世俗の生活、世間、これらが人間からその「本来性」の可能性を奪っているのだから、これを捨て去れというニュアンスを強く持っているのだ。これはいかにも唐突な感を与える。……ハイデガーは「本来性-非本来性」という二項区分によって、人間の平均的日常の全体が、ほんとうの生き方から隔たったもの、「非本来的なもの」である、という観点をいわば外側から持ち込んでいるのである。(p.113)
【空談】
人間は他者と“語りあう”。……人間同士が互いにその実存のほんとうの可能性を取り交わしあう可能性が潜在的に開かれている、ということでもある。ところが、ふつう日常的には人間は、そのような可能性として「語り」をもたない。四方山話や井戸端会議やどうでもいい日常茶飯のおしゃべりとして、それを持っているにすぎない。(pp.105-106)
【好奇心】
日常的な生活における人間は、〔「了解」の要素である〕「視」を、自分と他者の実存の深い可能性に向かってめがけるためにではなく、ただ何となく“面白いものはないかな”という仕方でもっている、とハイデガーは言うのだ。(p.106)
【曖昧性】
「了解」は本来的には、人間が自分の存在の新しい「ありうる」をめがけて「投企」するものである。しかし、〔社会問題など〕について一般的な意見を言うことは、じつは自分の固有の「ありうる」とは少しもかかわっていない。「曖昧性」は、そのようにして、……人間の本来の了解のあり方を忘却させ隠蔽している――(p.109)
【不安】
「不安」はその対象が「無」であるために、かえってわれわれに重要なことを教える。……人間存在が本質的に「単独」であること、また本質的に「自由」であることを開示する。……そのとき、人間は一瞬「頽落」も状態からほどかれることになる。人間は世事における「気遣い」、つまり「あれこれのことをしなくてはならない」から遮断されて、いわば「何をすべきかがまったく自分自身に委ねられている」という状態に置かれる。(pp.115-116)
【先駆】
〔人間がその存在の本来性をつかむ〕ためには人間は恐るべき可能性としての「死」を隠蔽せず、自分のものとしてそれに向き合うという態度を取る必要がある。この死へと向き合う自覚的な態度を「先駆」と呼ぶ……(p.130)
【良心】
……「良心」とは、現存在自身が、おのれの内部から、自分自身に向かって、「本来的な自己自身であれ」と呼びかける声なのである(p.131)
【決意性】
この「良心」をもとうとする「決意性」は単に自分の中の“決意”を意味するだけでなく、むしろ本質的に「他者」をめがけるべきものだということである。(p.136)
【先駆的決意性】
単に「本来的」たろうとする決意ではなく、「死への自覚」において本来的存在たろうとする「決意」。……〈世俗的な気遣いを捨てて(もちろん死への気遣いも)、これこそほんとうだと思えることに向かって(状況を見出し)、他者たちと共に、実践的にガンバル〉というようなことになる。(pp.137-138)
【本来的歴史性】
「本来的歴史性」とは、自分の属する時代、共同体、民族から「善きもの」の具体性を受け取り、その具体的な目標をめがけて生きようと決意することにほかならない。(p.167)
※著者の疑義:共存在の単位がなぜ民族であって、それを超えた単位、あるいはそれ以下の単位でないのか、またなぜある特定の共同体に限定されるのか(p.167)