竹田青嗣のレビュー一覧
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難解で知られる『精神現象学』の筋書きを “表象として” おおまかに把握するのに役立った。
ヘーゲルが問うたのは、個人と社会、公と私、理想と現実……これらの対立をどうするかということであった。今なお問われ続けている普遍的なイシューである。
カント倫理学を手厳しく批判した第4章が特に読みごたえがあった。
“しかし実際には、ここ〔カントの思想〕にあるのは、純粋な「普遍性」(理想)と「個別意識」(現実)とが、いかなる条件で一致するかを洞察する思想ではなく、この統一(徳と幸福の一致)が “存在してほしい” という単なる欲求なのである”(p203)
“両者〔感性と理性〕の一致あるいは統一と言っても -
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フッサールの中期の思想がコンパクトに示された『現象学の理念』を、著者が読み解いた本です。フッサールの議論構成をたどりつつ、著者が分かりやすくパラフレーズし、さらに用語解説やポイントごとのまとめも置かれています。
「あとがきにかえて―現象学の再興」では、著者自身の現象学解釈の要点と、現代の現象学批判や誤解に対する反論がなされています。著者は、フッサール現象学の中心課題は「確信成立の条件」を解き明かすことにあるという立場に立っており、そこからデリダをはじめとする現代思想の現象学批判が当たらないことを説いています。また、新田義弘や谷徹など、現代日本を代表する現象学研究者の解釈に対する疑義が提出され -
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ネタバレ日の丸・君が代から始まった加藤・橋爪の毎日新聞の論争が、司会の竹田を交えた鼎談である本著を生みました。左からの主張ともいうべき国際関係論の加藤は「もし責任があるとすれば、戦後真実を語らなかった責任だとして、家永三郎・井上清・丸山真男ではなく、三島由紀夫こそ、その責任を正しく追及した人だ」と展開する。また、死んだ300万人の日本人たちへの責任はまずアジアで死んだ2000万人への責任に真直ぐに向かうことから始まると。これに対して右からの主張ともいうべき社会学の橋爪はむしろ天皇機関説的な立場から「天皇という場に選択の余地がなく座らされた個人の責任を追及したくない、それは主権者である日本国民としてのプ
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『道徳の系譜』を読んだだけでは分かりにくかったニーチェの思想の全体像を概観することができた。
生と欲望を人間の本性として肯定し、それを阻害するヨーロッパ的価値観(キリスト教がその代表)を批判したニーチェ。
生の肯定と、ロマン主義と現実主義の彼岸にある思想の探求、という出発点は共感できるけど、思索の末に導かれる結論には直ちに同意することはできない。
「真理なんてない」と言ってしまえば全ての科学は存在の根拠を失うことになるし、キリスト教批判を敷衍した「道徳」批判はいかにも過剰反応という感じがする。まあそんなラディカルさがニーチェの魅力なのかもしれないけど。
著者は、「ニーチェの思想は -
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ようやく、『精神現象学』のあらましが分かりました。人類の「精神」の成長の歴史を俯瞰し、人類思想史の流れを追う、というような壮大なプロットを(猛烈に難解な言葉で。。)語っている、ということのようです。ようやく『精神現象学』が読み進められそうだ。。
気に入ったのは「行動する良心」。ちょっと引用。
「「良心の人」は、生活のなかのさまざまな場面で、そのつどどういう態度や行為を取るのがもっとも「良心的」だろうか、と考える。彼は、もはや宗教的権威も、習俗のルールの権威も善の基準足りえないことをよく知っている。・・・しかし、にもかかわらず、結局正しいことの基準などないのだとは考えず、いかに判断し、行動する -
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これは、意識が絶対知に至るまでの物語。
人類の歴史が、個人の精神的成長過程に重なって見える。
だからだろうか、私には成長記録あるいは観察日記に近い印象を受けた。
意識が辿る道を追体験できる感覚が面白い。
ただ、「どうすべきか」という問いへの「応え」を示してくれているようには感じなかった。
以下、印象に残った文章を抜粋
人間の欲望の本質は、「自己価値欲望」という点にある。したがって、「自己の欲望」はまた、本質的に他社による「承認の欲望」を含む。さらに、人間は社会生活を営んでいるため、どんなことであれ、「他社の承認」なしに実現する欲望は存在しない。このため、人間社会は、まずは「承認をめぐる闘争