あらすじ
2500年の哲学の歴史に新たな展開が始まる。価値不在の現代に価値と意味の原理論を立て直す意欲作。「世界を分節するのは欲望だ。欲望が、価値と意味を世界の中に織り出してくるのだ」。プラトン、アリストテレスからデカルト、カント、ヘーゲルをへてニーチェ、フッサール、ハイデガーへと続く哲学の歴史を総覧し、さらにその先へと哲学の可能性を拓く。2000枚超!!
世界を分節するのは欲望だ。欲望が、価値と意味を世界の中に織り出してくる。価値不在の現代に、価値と意味の原理論を立て直す意欲作。
現代の哲学(思想)は、幻影の問題を抱えて虚妄な議論の巨大な迷路のうちへと迷い込んでいる。「本体」の観念を完全に(すなわち哲学的根拠において)解体することによって、われわれははじめて、認識一般にとって何が可能なのか。何が認識不可能なのか、普遍認識が成立する条件と構造が何であるかを解明できる。またこの解明からのみ、どのような新しい知と学の地平が開かれるのかを明らかにすることができる。本体論の完全な解体こそは、現代社会における哲学と思想の再生のための、不可避の始発点である。
「真」とは、「善」とは、「美」とは? 哲学究極の問いへの回答!
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Posted by ブクログ
まだ読んでいる途中だが、40%ほど読んだ。
間違いなく名著。先構成の誤謬についてハイデガーの了解やメルロポンティの身体論をとりあげラントグレーベ(存在の深さ、身体の受動的先構成、超越論的主観性の流れ)やリクール(予構造、予持、予視、予握)ら現象学者の批判をおさえ、ニーチェの遠近法から的確にそれらを反証する。
さらにヘーゲルの自己意識としての欲望を参照してゆく。
カント読解も凄まじい制度でメイヤスーへの批判からカントのアンチノミーについてがよく分かるようになっている。
メイヤスーやマルクスガブリエルを馬鹿のように有り難がる日本人のウンコなスネ夫ゴキブリメンタルに一撃を加えている。
明確に現代思想系の國分功一郎や松本卓也らと異なるスタンスをとる。
まずなによりテキスト読解そのものが欲望相関的、目的相関的でプラチック域がないことに気づかされる。この点、山本哲士と比較すると面白い。
アナクシマンドロスから入りパルメニデス(一なる存在)とヘラクレイトス(生成)との対立、そこにある感覚的なものと超感覚的なものの対立における時間の問題、この分裂を克服しようとしたヘーゲル。
エンペドクレス、レウキッポスからアナクサゴラスのヌース論へと、そこからソクラテスを論じニーチェ(禁欲主義)、プラトン(普遍性)、クセノフォン(人間の生に根差した道徳の再考)によるソクラテス読解を総覧。
プラトンをカント、アリストテレスをヘーゲルに対応させたり、もちろん本書における竹田青嗣はアリストテレス-ヘーゲル-竹田青嗣となっている。そのことが明確に意識されての構成だろう。
ともあれ松本卓也が指摘したアリストテレスの鬱病論の意味もこの本でようやく根っこから分かった。ハイデガーによるアリストテレスの時間論の読解は有名だが、アリストテレスは時間を空間化し論理学を整備してイデアを唯物論的なレベルにて批判、デュナミス、エネルゲイア、質料、形相、不動の動者(第一原因)などを構想。
哲学など門外漢でフワッとしていた理解が本書で全て理屈でつながりスッと頭に記憶される。
またヘーゲルの思考の思考はフーコーの問題構成、欲求の満足による矛盾の廃棄は、50年代ラカンのフリュストラシオン(欲求不満)に対応していることも本書からすぐに分かる。
生成のニーチェと存在のハイデガーとの古代ギリシャにあった対立の再現や力、動因の不可視問題も面白い。
ゴルギアステーゼはお馴染みとして、そこからヒュームの方法的経験論に至りカントを高精度に読み込む。
フィヒテ-シェリング-ヘーゲルと続くドイツ観念論の流れも分かりやすい。
またフッサールへの先構成批判に対するさらなる批判はかなり面白く現象学は構造主義、言語の作動が扱えない、という僕の疑念にも、こたえてくれた。
僕はレビューで竹田青嗣の哲学への批判をみることがあるが誰一人、何がどう甘いのか、どこに問題があるのか論理的に指摘しているものを観たことがない。ポエムのような批判をしても意味がないし、そんなに竹田青嗣の哲学を理解するのは簡単ではないとだけ言っておこう。自分で理論生産しないカスがピーピー騒ぐことほど頭の悪いことはない。なお僕は理論生産している側の人間である。
竹田青嗣の特徴は、ヘーゲル、フッサール(とニーチェ)をもっとも重視して近代的人間欲望における誤認(差違)を引き受ける自己技術として現象学を近代の可能条件にすえている、この点にあると思う。
一般意味の超越論的構成しか問えないフッサールに対してハイデガーの実存相関、道具的意味(気遣い)の一般意味にたいする優位を洞察したり、極めて重要な考察を多く含み、もっとも完成度の高い哲学の一つにあると思う。
またショーペンハウアーの幻燈の比喩が引用されているが、ひとつの灯(単一の主体、意志)が多様な表象を現象する旨が述べられており、本書の文脈においては盲目の意志が汎神論を駆逐した点が焦点されるが、この点に近代哲学の主体化、単一化、モノフォニー化、つまりカントの超越論的統覚の作動を観てとれる。
フーコーでいう狂気の排除があるということ。本書を読んで改めて西洋の哲学のモノフォニー化の強さを思い知った。フーコーがなぜあのようなポリフォニーの哲学(脱欲望、快楽プラチック、述語性)に向かわざるえなかったかがよく分かる。
ともあれ現代思想を理解する上でも近代哲学の最高到達点にある竹田青嗣の参照は極めて有効。
哲学の基礎のない人にとって最高の入門書でもある。
なお今の日本の保守がバーグ的(カント的)な物自体パラダイムを中心にシェリング的な汎神論的バックラッシュを惹き起こしているのもこの本からよく分かる。
他にもカントに対するロック、コンデャック、フィヒテの第一動者の話やヘーゲルの意識、自己意識、理性、精神、宗教、絶対知とか存在、本質、概念、理念など興味深い話は書ききれない。
ハイデガーの現とか始原論の話もある。
これでまだ40%を読んだ感想に過ぎない。
この本を読むまではカントのアンチノミーすらフワッとしていて数学的アンチノミーと力学的アンチノミーの狙いはおろか結論の区別すらなく、ヒュームとフッサールの関係も何も知らなかった。ショーペンハウアーなど名前しか分からなかったほど、古代ギリシャ哲学に関しては全くなにも知らず。
それが今では人に論理を解説できるくらいには頭に入った。
わずか数週間読んだだけで、哲学門外漢でも、これだけ基礎が身に付く。
そういう本。
あとヒュームのところは本当に重要で、原因本体を解体することで、いかなる欲望からそのように原因が措定されるかを洞察する。
独断論的物語の因果関係の今日的氾濫を理解する者にとってこれがいかに決定的に重要かは説明を必要としない。
なおフーコーにおいては原因が言説によって措定されると見なされて、言説プラチック分析に向かう。
欲望相関と言説相関、目的相関とプラチック相関、ここに近代哲学とフーコーとの最大の違いがある。これはテキストの読み方、およびその読み方に内在する権力関係の差違を構成する。
もしフーコーを学びたい人がいたら本書とつきあわせて取り組むと良い。
Posted by ブクログ
それにしてもこれは名著。なんでもっと評価されないのかと思います。これまでのわたしの疑問に確実に応えてくれている。人工知能の問題、脳科学の問題、科学的思考と哲学の関係、そもそも意味と価値の本質など、すべてを挙げればキリがないが、欲望論的立場から完璧に応えてくれている。そしてこの欲望論を超える思考(というか理説)に出会ったことがない。全てを超えている。わたしの知る限りの最高峰の説得力ある世界理解ではないかと思います。引き続き第2巻に進みたいと思います。
Posted by ブクログ
多年にわたる研鑽を経て形成された著者の現象学および欲望論の立場を包括的に論じた本で、著者の思想の集大成ともいうべき内容になっています。
著者の主張のすべてに賛同できるわけではないとはいえ、これまで著者の仕事を比較的丹念に追ってきた者としては、それなりに期待をもって本書を読みはじめました。ただ正直なところ、すこし期待しすぎだったかと感じています。
思えば、これまで著者が刊行してきた著作の大きな魅力として、フッサールやニーチェといった西洋の哲学者の思想を、他の著述家にはなしえないきわめてクリア・カットなしかたで説明し、読者を哲学の世界へと誘ってきたことにあります。ところが本書では、著者の現象学および欲望論の立場についての解説は、他の入門的著作と同様に「欲望相関性」というシンプルな原理が提示されるにとどまっています。その一方で、仏教や古代ギリシア哲学、近代哲学、ハイデガーやウィトゲンシュタイン、あるいはポストモダン思想やメイヤスーなどの現代的な思想などが参照されているのですが、それらのいずれもが独断的な本体論か、もしくは相対主義的懐疑論にすぎないという大鉈で裁断することに終始しており、個々の思想の内実に踏み込んで積極的に思想的対話をおこなう姿勢を欠いているといわざるをえません。
元来わたくし自身は、欲望論の原理そのものには哲学的な議論としては詰めが甘いと感じており、むしろその応用可能性にこそ見るべきものがあるというスタンスをとっていることもあり、700頁超にわたるこの大著を読み終えて、徒労感が残ったという感想をいだいてしまいました。