オスカー・ワイルドのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
学生の時に英訳の授業で読んだのを思い出して、購入し読みました。
新鮮に最後まで読むことができました。
11章は頭や目がチカチカしましたが、他の章は読みやすく、気になってずっと読み進めてしまいました。
罰は必要だと感じるし、顔に出来たシミを消しに行くのも止めようと思いました。
また考えは変わるかもしれないけれど、ドリアン・グレイに対する複雑な気持ちは変わらないと思います。
恐ろしい本だった。
学生の時に、興味を持って和訳を読まなくて良かったです。
不真面目な学生だった自分に感謝です!
しかし今となってはこの本の美しさや、教訓となる文章から学んだことがあります。
今、読めたことに喜び、そして本にカバーをかけたまま本棚に戻そうと思います。 -
Posted by ブクログ
【孤読、すなわち孤高の読書】オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』――加工された肖像の時代に読む、静かな破滅の神話
人は老いる。
だが、肖像は老いない。 もしその逆転が可能なら——人は魂を差し出すだろうか?
私はこの小説を初めて手に取ろうとした時、奇妙な緊張を覚えていた。 同じ作者の『サロメ』を読む時の、あの官能と残酷が絡み合う劇的緊張とは異なる。
もっと冷たい、鏡の前に立たされるような緊張だった。
血ではなく、美。 叫びではなく、微笑。
それが『ドリアン・グレイの肖像』を読む前の私の姿勢だった。
[あらすじ]
画家バジル・ホールワードは、類まれな美貌をもつ青年ドリアン・グレイの肖像を描く。 そこへ現れるのが、退廃的快楽主義を体現するロード・ヘンリーである。
「若さこそが唯一の価値である」と囁かれた瞬間、ドリアンは願う。 老いるのは自分ではなく、この肖像であれ、と。
願いは叶えられる。
以後、彼はどれほど放蕩に溺れようと、どれほど他者を破滅へ導こうと、その顔には一片の翳りも浮かばない。 醜悪と腐敗は、ただ肖像の内部に沈殿する。
だが、罪は外面を逃れても、存在を逃れない。
やがて彼は、自らの魂の具象である肖像を破壊しようと刃を向ける。 翌朝、床に横たわっていたのは老いさらばえた男の死体であり、壁には再び若く美しいドリアンの姿が輝いていた。
[世紀末ロンドンという温床]
発表当時のヴィクトリア朝社会は、表面上は道徳を標榜しながら、裏面では退廃と偽善が渦巻いていた。 審美主義の旗手であったオスカー・ワイルド(1854〜1900)は、道徳よりも美を優位に置く思想を体現した存在だった。
しかしその思想は、同性愛を罪とする時代と激しく衝突する。 ワイルドは裁判にかけられ、投獄され、社会的に抹殺される。
この小説は単なる幻想譚ではない。 それは、社会が人間の欲望をどのように裁くかという、危険な問いの文学的実験であった。
[ワイルドという奇才ーー生を芸術化した男]
ワイルドは作品を書いただけではない。 彼は自分自身を作品化した。
華麗な機知、逆説に満ちた警句、完璧に計算された装い。 彼は人生を演出し、美しく破滅した。
美と道徳の対立を描いた作家は多い。 だが、自らの身体でその対立を証明してしまった作家は、そう多くない。
ドリアンは虚構である。 しかし彼の破滅は、ワイルドの未来を予告する影でもあった。
[ジッドとの交錯ーー欲望の文学的証言]
ワイルドと交わった人物の中で、特筆すべきはフランスの作家アンドレ・ジッド(1869〜1951)である。
若き日のジッドは北アフリカでワイルドと出会い、その身体的関係を含む親密な体験を、後年の回想や著作の中で率直に記している。
それは単なる逸話ではない。欲望をいかに肯定し、いかに文学へ昇華するかという問題の原点だった。
ジッドにとってワイルドは、「欲望を生き切った存在」であった。 その生は警告であり、同時に解放の扉でもあった。
『地の糧』における若さの賛歌、道徳への懐疑は、ワイルドの残響なしには語れない。
[現代への問いーー加工された肖像の時代に]
現代は、誰もが自分の肖像を所有している。 ソーシャルメディアに並ぶ顔は修正され、加工され、老いも疲労も削除される。
我々はもはや肖像に老いを引き受けさせているのではないか? ドリアンは一人ではない。 スマートフォンの中に、無数にいる。
だが、加工された肖像は罪を吸収してくれない。 承認欲求、嫉妬、虚栄——それらは画像の外側に沈殿し、静かに人格を侵食する。
ワイルドの物語は予言ではない。 構造の提示である。
美を絶対化した瞬間、人は倫理を後景に退ける。 そして倫理を後景に退けた瞬間、破滅は始まっている。
[静かな恐怖としての名作]
『ドリアン・グレイの肖像』が恐ろしいのは、血なまぐささゆえではない。 それは鏡の物語だからだ。
ページを閉じた時、私たちは気づく。 老いているのは誰か? 変質しているのはどこか?
もし肖像がすべてを引き受けてくれるなら、人は安心して堕落できるだろう。
だが現実には、肖像は沈黙している。
だからこそこの小説は、百年以上を経てなお、静かな恐怖として読者の内面に棲み続けるのである。 -
Posted by ブクログ
私の中で『サロメ』といえば、ビアズリーの悪魔的で蠱惑的なあの絵、あるいはモローのあの幻想的でアイコニックなあの絵。どちらもインパクト抜群でつい見入ってしまう歴史に残る絵ですが、当の文学作品は読んだことがなく、結局このワイルドの『サロメ』に私を導いたのはやはりビアズリーでした。ビアズリーの生涯を知るにつけて、ワイルドのサロメを読まずにはいられないわけだったのですが、もうひとつ、オスカー・ワイルドという人間への興味も、そこにはありました。
本書はオスカー・ワイルドのサロメを平野啓一郎版新訳として、現代に生きる私たちに馴染みやすい文体で読める、という楽しみ方だけでなく、平野氏によるサロメの解釈、さらには本作にまつわるさまざまなことがらについてのとても充実した解説がついてあって、実際、本編よりこちらのほうに多くの紙面があり、大変読み応えがあります。なんというか、ワイルドもすごいけど、平野氏もすごいというか、さすが一流の文学者だなと。私なんかは、聖書のことなどまったくの無知ですから、ただ本編をはじめから終わりまで読むだけでは、わかったようでほとんどわかっていなかったのだなと解説を読むと感じます。また、平野氏も述べていますが、私のようなビアズリーの絵から入った人間にとっては、ここに描かれるサロメの人物像はビアズリーの絵から連想されるそれとは違った印象を受けます。そこにあるのは、少女の幼気な悪の囁き。たぶん私はまだ本作の半分も理解できていないのだと思います。いろいろ知って、読めば読むほど、景色が広がる作品なのだと思います。 -
Posted by ブクログ
永遠の若さを手に入れた美青年ドリアン・グレイ。彼が悪徳に染まり、魂の純粋さを失ってゆくにつれ、彼自身の肉体の代わりに彼の肖像画が醜く老いてゆく…。ドリアンの美をカンバスに留めた画家バジルは彼の堕落に失望し、やがて破滅する。一方バジルの友人で人を煙に巻くような貴族ヘンリーは、ドリアンと意気投合し唯美主義的な享楽へと彼を引き込む。
ドリアン・グレイを挟んで神と悪魔が対立する構図のようにも読めるが、詳細な後書きを読むとバジルとヘンリーはオスカー・ワイルドの二つの側面とも読めるだろう。
ホラー小説のバリエーションとして楽しむことも可能だろう。思えば「ドリアン・グレイの肖像」はブラム・ストーカーの「ドラキュラ」とほぼ同時代の作品である。そういえばドラキュラもまた、永遠を手に入れようとしたキャラクターであった。