オスカー・ワイルドのレビュー一覧
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ネタバレ私の中で1.2を争うほどお気に入りの本になりました。
思いつきそうで思いつかなかったストーリーもさることながら、キャラクターがとても魅力的。
ヘンリー卿のレスバトルの強さ……
それが正しい、と思わせる自信と巧みな言葉で相手を沼に落としていく。この作品の人物、ほぼ全てが彼の被害者と言っても過言ではないな……と思います。
恐ろしいのは彼に悪気や恨みがあってそうしているわけではないというところですね……
ヘンリー卿からしてみれば、己の意見を口にしているだけ、アドバイスをしているだけ、戯れているだけなんだろうな、と……
後半のドリアンもとても魅力的。思わず読む手が止まらなくなりました。
バジルとのシーン、アラン・キャンベルとのシーンがとても印象深いです。
メイクを頑張る、ボディメイクを頑張る事ももちろん大切ですが、性格は顔に出るというから、内面を磨くことの方が大切なんだなと改めて気付かされた作品です。
見た目だけ取り繕っていても、邪な心は浸み出してしまうものなのですね。
全ての元凶といえば恐らくヘンリー卿なのでしょうが、ドリアンの結末、バジルの行末を知れば心の底からひどく悲しむのだろうな…と思いました。
あとはアラン・キャンベルも好きなのでもう少し彼を詳しく知りたかった。
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Posted by ブクログ
「なんと悲しいことなんだ!僕は歳をとっていく。そして恐ろしく醜い姿になっていく。この絵は若さを失わない。…反対だったらいいのに!いつまでも若さを失わないのが僕の方で、この絵が老いていけばいいのに。…」(P56)
3月は古典に触れようと思います。
そんな矢先に、読もうと思ったのがこの本でした。
人間、いつまでも若々しくありたいもの。しかし、鏡に映る自分は日を追うごとに歳を取って行きます。
主人公である、美少年ドリアンもそう思っていて、画家バジルが描く自分の姿を見て、冒頭の言葉を言い放った。
何気なく、情動的に出た一言。しかしこの言葉が彼の人生を大きく狂わせることとなったのでした。
絵の中の自分は、少しずつでも確実に、彼が行う悪行とともに醜く歪んでいき、その一方で「本当の」自分は全く変わらないまま…。
理想であった、絵の中のいつまでも変わらない自分の姿が、いざ、現実となってしまった今、彼の心の中の恐怖が、文面を通じて伝わってきます。
ただ、そこに絶対に起こり得ないという、共感しきれなさがあって、そこがなんとももどかしい。
気持ちはわかるんだけど、分かりきれていない…。
そんなもどかしさを味わいながら、頭を巡らせながら読み切りました。 -
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オスカー・ワイルド作『サロメ』は、預言者ヨハネの斬首のエピソードを下敷きにした戯曲である。新約聖書マタイ伝に記された「聖者の生首を所望する姫」という猟奇的な逸話は、モローやシュトゥック、カラヴァッジオなど多くの芸術家に取り上げられてきた。その中でもワイルドの戯曲は、創作としてのサロメの決定版といった趣きがある。ビアズレーの挿絵と共に、世紀末芸術の代表的作品といっていい。
この戯曲の中では、サロメは処女でありながら、文学史上稀に見る淫婦として描かれている。ヨカナーンの首を前にして陶然と愛を語るサロメの姿は凄まじいというよりほかなく、さらにその唇に接吻するとあっては、冒瀆だとして作者の本国イギリスでの上演が禁じられたというのも、無理からぬ話と思われるのである。
一方で、倒錯もここまで極めれば、いっそ神話的であるともいえる。古来、処女性と残酷性とは、しばしば表裏一体のものとして描かれてきた。純潔を守るため、または愛の成就のため、あるいは愛の証明のために、乙女が男を理不尽に破滅させるのは、いにしえより語り継がれてきた物語の原型のひとつである。
裸体を見られたためにアクタイオンを鹿に変えたアルテミス、愛するエンデュミオンに不死の眠りを与えたセレネ、求婚者に難題を課して死に至らしめたかぐや姫の逸話もある。彼女らがみな月に関わりの深い女性だというのが興味深い。サロメがヨカナーンを誘惑し、その生首に接吻をしたのもまた、月の光のもとであった(さうだよ、月は生娘なのだよ)。
甘やかな芳香の中に微かな腐臭を漂わせる熟れきった果実、今まさに風に散らされようとしている満開の薔薇、そんな印象の物語だ。福田恒存による美文調の翻訳が、この作品にいっそう麻薬的な魅力を与えていることは、言うまでもない。 -
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19世紀アイルランド出身の作家・劇作家、
童話も名高いオスカー・ワイルドの小説。
高校生の頃、旧訳を古本屋で買って
積読しっ放しだったことを思い出しつつ、
あまりに有名なため、
読まずしてオチを知ってしまっていたので避けていたが(笑)
まあまあ気に入っている光文社古典新訳文庫にて
第2刷が出たのを機に購入。
予想を遥かに上回る面白さに驚いた。
老若・美醜の問題に囚われるあまり
言動が常軌を逸していく主人公の混乱っぷりは他人事でもなく、
意外に感情移入して世界観にとっぷりハマることが出来た。
男性三人が同性愛の関係にあるのは明白なのだが、
それが罰せられる世の中だったため、
極めて婉曲かつ控え目に描かれているところが
個人的に好ましく思えるのだった。
この新訳は現代的な言い回しで綴られ、
読みやすく、お薦めしやすいが、
解説で紹介されている1950年発表の平井呈一訳の冒頭部分が
うっとりするほど色香が匂い立つような文体なので、
機会があったら読んでみたい。
尚、本書第10章以降で言及される、
ドリアン・グレイがヘンリー卿から贈られて耽読する
「悪書」はユイスマンス『さかしま』である。
[備忘]
岩田美喜「世紀末の夜の子供たち――『ドラキュラ』におけるアブジェクシオンの作用」
(東北大学英語文化比較研究会機関誌《川内レビュー》№3〈2004年〉)
ワイルドと同時代の同郷人ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』と
『ドリアン・グレイの肖像』のテーマ、モチーフの近似性を論じている。 -
Posted by ブクログ
大学で絵画を専攻しているのですが、人物画のモデルには、知り合いか他人かに関わらず、特別な感情が湧きます。
私はモデル本人に打ち明けたことはありませんが、ドリアン・グレイの画家がドリアンに打ち明けたのはすごい事だなと思い、それが印象深かったです。
制作中は実際会ってる時と違う気持ちにもなり、長く描いてると、絵の中のモデルとの付き合いが長くなり、妙な親密さを持ち、「私の知っている絵の中のモデルとは」を考えることがあります。
それは自分の見たかったモデルの姿とか、理想像であったり、一瞬の人間らしさを感じるたたずまいなどです。
だから自分が描いた絵画の中のドリアンが変貌していくなんて知ったら、とても悲しむことだなと感じます。
結構人物画は、モデルの一瞬の美しさを絵の中に閉じ込めたいから描くイメージだったのが、これを読んで少し変化したように思います。ドリアン・グレイの肖像を読んだら人物画を描きたくなりました。