若林正恭のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ前半はアメフトに全力で取り組むがどこか中途半端で、強豪校に奇策で挑むもあっけなく惨敗。青天。そして、そこから堕落高校生活。こういうやついるなと思える。一昔前の落ちぶれ高校生。
そして落ちるところまで落ちた後の再起。頭と眉毛を剃り上げてアメフトに全てを捧げる。この辺まではよくある話でなんとなく中弛みしたけど、後半最後の池の上との試合の盛り上がりが半端なかった。最後の永遠。歓喜。シーシュポスの神話。倫理の岩崎。いろんな場面がテンポよく脳内に駆け巡り、読んでいる自分も気づいたら涙が…
思えば、自分もいろいろ中途半端で、そこそこにやってやめてばかり。そんな中でも今の仕事は魂を捧げている。違う本で読んだが、人間意思と覚悟があればなんだってできるということ。まぁその二つが限りなく難しいものなんだが。もっと頑張らなきゃと勇気をもらえた。
最初は主人公の顔が、若林の顔で強烈に浮かんできたけど、読んでいるうちに自分と別アースの自分が主人公な感を得る。その手法にも脱帽だが、それだけでなく、ラップのリリックを混ぜつつ、ゾーンに、入ったスポーツ選手のトランス状態を描く技も見事。そしてラスト。題名の伏線回収。どこかで使われてるような感じもする書き方だけどもすごいと思った。
読んでよかった!若林へのリスペクトが止まらない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ若林:國分さんの『はじめてのスピノザ』には、体験を伴った真理について描かれていますよね。それを読んでこんなことを思ったんです。25歳くらいのときに、面白かったら玉を転がすという番組に出て、100人くらいいるのに3個しか転がってこなかったんですよ。おそらく最低記録でしょう。そこで僕の真理はバラバラに崩れたんです。何が言いたいかというと、若い時って体験が伴っていないからこその自信過剰ってあるじゃないですか。それと、スピノザの言う自己を変容するくらいの確実性というのは、似て非なるものなんですかね。
國分:うまくお答えできるか分からないんですけど、僕も若いころ、学会で発表してボロクソに言われる経験があって、そのとき、自分には確実だって本当に思えているのに、それが受け入れられないことに猛烈に悩んだことがありました。若林さんがいまお話ししてくれたことと似た経験かも知れない。
今もあまり変わらないかもしれませんけど、でも、以前よりは自分が信じ込んでいることを距離をとって見ることはできるようになったかなと思います。それはやはり体験を伴った真理を以前よりも手に入れたからかなと思うんです。若いときは、自信が先行しすぎて、体験していないのに体験した気になっていたようにも思えます。
若林:キューバやモンゴルに行って思ったのは、承認欲求と所属の欲求の両輪があるとして、その2つが同じくらいのサイズだと人は安定するのかなということです。いままでの僕は、承認欲求のタイヤがめちゃくちゃデカくて、所属の欲求不満が強かったんですが、同じような走り方をしている人が多いんじゃないかという気がしています。
たとえば、Instagramで、フォロワーが何十万人いても、夜は孤独になってしまう。そういう感じの人はけっこういるんじゃないでしょうか。哲学って、そういう所属の欲求というか、仲間の意味に対してけっこう研究は積み重なっているんですか。
國分:承認についてはそれこそヘーゲルから始まる研究の伝統があります。でも、若林さんが承認と所属や仲間の問題を分けられたのは非常に鋭くて、他者から承認されることと、何かに所属したり、誰かと仲間になることって全然違いますよね。承認というのはやはりどこか独りぼっちなんですね。そして、やっぱり哲学には一人で考えるというのが基本にある。だから、さきほど言ったように、哲学は仲間みたいな関係についてはあまり考えてきてないと思います。
若林:それも興味深いですよ。思索ってひとりのものなんですか。
國分:そこが大問題なんですよ。若林さんの文章は、自問自答を台詞の形でよく書いていますよね。あれは素直な感覚として、自分の中で対話をしている感じがあるということですよね。
若林:そうですね。ずっと、自分としゃべっているような人間なんです。
國分:哲学の始まりにいるソクラテスもそう考えていたようですし、20世紀の哲学者ハンナ・アレントもそれを受けて、ものを考えることは自分と対話することだと言っています。孤独の中で自分自身と対話するのが思索なんだと。
アレントはそこから非常に大切な結論を導き出していて、思索は自分自身との対話であるから、思索を仕事にしている哲学者が一番やってはいけないのは、自分に嘘をつくことだというんです。自分に嘘をつくと、自分自身と対話できないんです。「お前、さっき、いいって言ったじゃん」「言ってないよ」となったら、自分の中で対話が進まないからものを考えることができない。
変に持ち上げるわけじゃないですけど、自問自答の形で書かれた台詞をみて、若林さんは自分に嘘をつかない人なんだろうなってすごく思ったんです。
國分:前回の対談から1年ぶりですが、この1年間はコロナで大変でした。大学は講義も会議も全部オンライン。でも、先週、やっと対面の授業ができたんです。そのとき最後に自分の率直な感想として出てきたのが、「オンラインではいったい何に時間をロスしていたんだろう」という疑問でした。オンラインより対面の方が圧倒的に効率が良かった。非常にたっぷりと話ができたんです。
授業ってどこか演劇に似ていて、毎回が舞台なんです。授業中に学生が質問してくることもありますけれども、それよりも、自分の発言が受けてるかスベってるか、その反応を受けて僕もその話題の語り方を学んでいき、学生はその内容を学んでいく。授業ではこれが猛スピードで繰り返されているんですね。思えば、いまはテレビを収録するスタジオにもお客さんがいませんよね。すごくやりにくいんじゃないかと想像しますが、どうですか。
若林:やりにくいです。相方は共演者を笑わせる方が得意なようで生き生きとしていますが、僕はきついですね。山里亮太と無観客漫才を2時間やったんですけど、反応がないから地獄でした。授業とか、一人で喋るって大変ですよね。この前選挙があったので政見放送を見ていて、当然、全員一人じゃないですか。あれって言葉に力を入れるのが難しいよなと。前にキューバに行った時知ったのが、カストロが革命広場で人を集めてスピーチしたら、6時間誰も帰らなかったらしいんですよ。エンタメじゃないですか。ラップみたいな感じもして、いま喋ることと気持ちの連動性に興味があるんです。
國分:カストロの6時間はすごいですね。普通じゃ考えられない。比べたらおかしいかもしれませんけど、前総理の菅さんの話なんて、聞いていても全然言葉が頭に入ってきませんでしたね。多分自分の口から出ている音声と意味が、自分の頭の中で結び付いていなかったんだと思います。官房長官時代から、事態をごまかすような発言を散々してきたから、むしろ、音声が持っている意味をきちんと受け取っていたら精神が危うくなっていたのかもしれません。その結果として、言葉が聞き手に届かない話し方が出来るようになってしまったのではないか。
若林:何が幸福なのかについての認識は多様化し、細分化されてきてるじゃないですか。高度経済成長の頃の日本の幸せ像はいまやばらばらになっている。テレビもゴールデンで冠番組を持っても、もうゴールじゃない。だから各々が何が好きかを考えることが始まったの、ここ数年だと思うんですよ。そうすると実は、哲学的なことを自然と皆がやっていますよね。自分で考えなきゃいけなくなっちゃった。だから今こそ、哲学は有効なんじゃないのかなと思うんですよね。
國分:本当にそう思います。さっき「頭の中で概念を組み立てて結論にたどり着く」って言いましたけど、これは様々な場面で必要な能力ですよね。ある概念をぱっとつかんで、理解して、他のところに応用する能力がビジネスで役に立たないはずがないので、哲学やってたのに就職がいいんじゃなくて、哲学やってたから就職がいいっていうふうになるはずなんですけどね。ゼミではずっとそう言ってました。ただ、哲学的なものの考え方が企業活動でも有効な面を持っていることは、いまではかなり理解されているかもしれません。企業の研修で哲学を講じてくださいという依頼はよくあるんですよ。
國分:いつも刺激がある状態に置かれていると、よっぽどの刺激がないとドーパミンが出ない状態に脳が慣れてしまうと言います。つまり退屈しやすくなる。だから集中力もつかない。都市にいてたとえばネットゲームとか過激なことしかない状況に置かれていると、そのような状態になってしまうのではないでしょうか。退屈しない人間というのは、本を読んだりお茶を飲んだりしただけでも幸福感が得られる状態をつくれている。たとえば、ネグレクトされたり、虐待を受けている子どもはずっと緊張状態に置かれているために、落ち着いた状態に耐えられなくなってしまうと言われています。
若林:芸人のレジェンドと呼ばれるような先輩たちを見ていて思うんですけど、一生使いきれないほどの資産を持っているはずなんです。でも仕事を辞めない。つまりお金じゃないんですよね。テレビで活躍するのは、ものすごく自己有用感を高めることだと思います。衣食住じゃ使い切れないぐらい金を稼いでも、そこから降りるということは非常に難しい。
國分:前の対談で当事者研究についてお話ししたと思うんですが、いまアスリートの当事者研究が盛んになっていると聞きました。トップアスリートでなくとも、小さい頃からスポーツを頑張ってきた人の引退後のケアが全然ない。だから、引退後の苦しくなった時にどうするかについて盛んに当事者研究が行われているとのことです。
芸を見せたり、創作活動をする人にも共通することがあると思います。活動を続けないと自分を保てない人たちは一定数いると思うので、そういう人は続けた方がいいですが、辞めたいのに辞められないとか、辞めた後に苦しくなるんだったら、それはサポートがあってもいいのかもしれない。こうじゃなきゃいけないというのではなくて、どうしたら張り合いがある生き方になるのかということだと思います。
若林:少し前ですが、若い世代で「チル」っていう言葉が流行っていた時があるなと感じたことがあります。シーシャを吸ったり、ゆったりする時間を持つのを大事にしている。学生さんと話していて、資本主義を推し進めてきた上の世代に対して、批判的だと感じることはありますか。
國分:批判的な勢力も増えていると思います。アメリカではZ世代というのがひとつの指標になって論じられもしています。他方で、若い世代を見ていると、この現状に何とか適応しながら生きる術を知っているという感じも受ける。Twitterで意見を言って炎上することがあるじゃないですか。そういう話を若いことしたら、「國分さんね、Twitterやインターネットは素直に意見を述べる場所じゃないですよ。夜道みたいな場所で、夜道は一人で歩かないでしょ」って言われたんですよね。その「夜道」の中でアカウントを使い分けながら、危ない場所を避け、友達と楽しく話したり、情報収集したりするんだと。これはデジタルネイティヴの子たちが身につけてきた適応の術なんでしょうね。
だから僕が「でも、僕がTwitterを始めた頃は、好き勝手なこと言って議論したりしてたけど」って言うと懐古趣味と言われる(笑)。これは資本主義ではなくインターネットの話ですけど、いろいろきつい中で、彼らなりの生き残り戦略を考えてきている。なので物申すぞっていうZ世代的な人たちもいる一方、この荒野のような世の中をどうにか生き延びようとしてる若い人たちも多いと感じますね。
若林:そうしないと生きていけないっていうのはあるかもしれないですね。これも若い子に聞いたんですが、婚活アプリでは40手前くらいの、いわゆる非モテだけどお金を持っているお医者さんに、23,4の女の子の需要がすごいらしいんですよ。若い子はそれだけでかなりモテて、おじさんが高いものを食べさせてくれる。でもこんなに歳の離れた人とは結婚できないとなって、同世代に目を向けると、まだお金を持っていないので魅力的に見えない。これは社会の断片だと思うんですが、それを聞いて、原始的な恋愛に戻っているんじゃないかと感じました。石器時代とかは強い男が当然モテただろうし、力のあるところに女性が集まった。つまり資本主義が進んで、人間関係が初期に戻っている。
國分:婚活アプリの話、非常に面白いですね。その話は、恋愛や結婚に関しても自由市場の考え方が完全に浸透したという風に捉えることができると思います。お金にしても結婚にしても、もともとはものすごく規制があったわけです。お金の流れというのも規制されるのが当たり前だった。例えば、1964年に海外渡航が自由化されても、外国に持ち出せる現金は年1回500ドルまでだった。海外との商取引にも規制があった。そもそも歴史の中でお金の流れというのはずっと規制されてきたものなんですね。
恋愛に関しても、放っておくと必ず誰かがあぶれてしまうから、お見合いや許嫁といった制度的な規制があった。それが生きていく知恵だった。でも近代に入って、皆がそれは嫌だと思ったわけです。もっと自由に生きたいと願った。近代文学においても、身分が違うから結婚できないというのは大きなモチーフでした。
ここで問題なのは、そうやって近代の人間がもとめた自由と、自由市場のもたらした自由が果たして一緒なのかということですね。
婚活アプリは、恋愛の自由市場が完璧に定着したところに登場した新しい株式市場みたいなものじゃないでしょうか。40前後の医者がその歳まで独身なのも、規制がゼロだからですよね。昔だったら結婚させられていた可能性が高い。
恋愛に限らず、人類史においては規制が大きな役割を果たしてきた。ところが、近代は自由を求めてそれらを次々に廃止してきた。その果てに、あらゆる場面を自由市場が覆い尽くすようになり、単に競争が激化した社会になってしまった。それはキツい。しかし、規制があった頃に戻るのは多くの人は嫌がるだろうし、もはや無理。これは後期近代の様々な場面に見いだせる普遍的問題だと思います。
若林:近代以前に戻りたいか、このままがいいのかはものすごく難しいですね。規制があった頃の文学を読むと今でよかったと思うし、でも今は今でシビア。婚姻率も下がっているし、少子化でもあるわけで、色々な理由があると思いますが、恋愛市場が自由化したのもおおきいですよね。
國分:何らかの形で安心を作っていけば、規制ではなくて、自由を保ちながら生きていける気がします。お金に関しても、安心がいくつものセイフティネットで保障されていれば必要以上に働く必要もない。恋愛や結婚にしても、生活に安心があれば、人が人を好きになるのは決して稀なことじゃないわけだから、どんどん減っていくことはないのではないか。じゃあ、どうやってその安心を作るか。それを考えないといけない。
若林:2月に東京ドームでライブ(「オードリーのオールナイトニッポンin東京ドーム」)をやったんです。僕らの世代ぐらいのディレクターの人は若いころからブラックな環境で働いていて、東京ドームのライブもブラックなことを経験してきた人たちでチームを作っていた。そうすると、1個の企画を考えるのに何日も深夜まで無駄にも思える話をするんですよ。やっぱりこれって楽しいなと思っちゃった。
國分:それは分かります。
若林:効率もいいんですけど、効率重視世代の新しい世代の作品を読んだり見たりしても、なんかあんまり面白くない。僕のOSが古くて感動できないだけかもしれないけど、僕はこのOSでやっていくしかないしな、と。やっぱり好きなんですよね、非効率なただ熱い時間が。そればっかりでは良くないんですけど。
國分:世の中的にはコンプライアンスが大事だし、非常に難しいとも思いますが、熱くなって夜遅くまで話し合いをすることがあってもいいんじゃないですか。強制してはいけないのは分かるけど。でも、それがちょっとでも強制っぽく見えるといけないっていうんで、四角四面にこれは駄目ですって言う規則が増えちゃっているんですよね。
若林:そうですよね。だからフロー状態に入ってるメンバーで会社のチームができて、その人たちが走っちゃうことまで良くないよねって、そこに規則が侵食してくるのはもったいない気もする、くらいの話かも知れないです。
國分:どうしたらいいのかな。人間が仕事や勉強をする時に、なんの強制力も働かないことはあり得ないと思うんですよね。宿題とか強制じゃないですか。もちろん僕は強制に賛成したいわけじゃないし、そしてこういうことを言うと、ドラマの『不適切にもほどがある!』みたいに受け止められちゃうから難しいんですけど昭和を肯定したわけでもない。
ただ、人間が熱中することを阻害するような規則が次々とできることは、おっしゃる通り大変もったいないことだと思うんですよね。働くときはがんがん働いて、もっと休めばいいと思います。週休3日ぐらいにして、働いている日は1日くらい徹夜するとか。
若林:本当にそうだなと今思ったのが、昔のおやじたちは土日、完全に休んでたじゃないですか。スマホとかないから。だけど、我々は日曜日にショッピングモール歩きながら仕事をしている。頭のどこかで、この時間って休んでいいんだっけと思っているのが不健康な気がします。メールで「あれどうなってますか」が入ってくる時もあるし、メリハリが利いていないんですよね。
國分:それはみんな感じると思います。有給休暇も絶対に取らせなきゃいけない法律があるわけですが、大学だと本当にナンセンスなんですよ。僕らなんて裁量労働制なので毎日職場に行くわけじゃないから、有給休暇を取るのはあまり意味がないんですよ。なのに、取らないと学部長が処罰の対象になる。だから、あまり忙しくない時期に有給休暇取得の手続きをする。実際に人を休ませるんじゃなくて、むしろ手続きをする時間を僕から奪ってるんですね。
國分:選挙は本当に時間がないですよね。そもそも民主主義は時間がかかるもので、時間がなければ考えることも調べることもできない。
あと、労働で疲れ切っていたら民主主義はできないですよ。疲れたら考えられないし、調べられないから。だから、みんなが疲れたってなってる社会は、もう民主主義が死んで、面倒くさいから誰かやってくれっていう、独裁制が望まれる社会なんですよね。
若林:民主主義にかける時間がない、その末にこの間の都知事選の掲示板あるんだと思ったら、恐ろしいです。でも時間もないし、資本主義のほうが力が強いから、誰のせいでもない気もします。だから止まらないんでしょうね。
國分:若林さんは大学院生に講義をしてもらって、それがいろんな気づきになっていると前にもおっしゃっていましたよね。それは本当にいい話だと思います。現実と和解し始めた時、「もっとこうしておけばよかった」というのは、誰にでもあると思います。その時、知識や学問、哲学と言ってもいいと思うんですけと、そうしたものが自分の中に少しでもあると、そこからまた気づきを得ることができる。若林さんが茫然自失することにはならず、自分が納得することを大事にしていきたいと自信が持てるようになったのも、知識がちゃんとあるからですよね。
この対談を通して読んでいただいた方には、ちょっとした知識、例えば「ネオリベって初めて聞きました」でもいいんですけど、それが元になって、こうしていきたいという自信になって欲しいと思います。自信というか、確信かな。これはこうであるっていう確信がないと、人間は本当に生きづらいと思う。
若林:カルト宗教とかでも閉じ込めて、外部の情報を入れないようにするじゃないですか。ネオリベの大きな枠組みの中で、外からの刺激や風穴を開ける針が入ってこないと、その中で地獄の回し車が始まっちゃう。だから、勉強というとちょっとお堅い言葉になっちゃうけど、知識は大事ですよね。
國分:ネオリベや「設定された目的-手段」の独占状態は、まさにカルト宗教と一緒だと思います。その外側があるって思わせないんだから、本当は外側がバリバリにあるわけで、それに気づいて行動をしないといけない。
若林:ネオリベの外側を作らない力はすごいですよね。でも郊外に住んで気がついたんですが、東京を抜けるくらいで、ネオリベの帳が実は終わるんですよ(笑)。勉強だけじゃなくて、エンタメや推しを見る、音楽を聴くなんかも、水を差すというか、外側を知る感じになりますよね。
國分:空気に対して水を差す。そしてこのネオリベというカルト集団の外側に行くと。
若林:この対談も、本屋で目的と手段がなきゃダメなんだっていうネオリベの本の隣において欲しいですね。なんか爆弾を仕掛けてあるみたいな感じで。
國分:ビジネスマンとかで本当にちょっと怒る人がいるんじゃないかなと思って、心配にもなります(笑)。
若林:僕はビジネス書を読んでて、20代はブラック気味に仕事して強みを見つけて、30代でその強みをもとに、社会的資本で仕事すんだよ、みあたいなのが嫌なんですよ。だって20代で死ぬかもしんねえしって、思う。「享受の快」でも哲学でもカウンターパンチを1個2個自分で持っておくのは大事ですよね。
いま子どもを幼稚園に送った後に、喫茶店でネタや話すことを考えている時間が本当に好きなんです。もしかしたら、舞台でそのネタをやるより好きかもなと思うくらいです。それが僕が見つけた「享受の快」で。なので、これを読んでる人に勇気を持ってほしいと思います。それがネオリベの帳にワインをぶちまける力になる。
國分:若林さんがおっしゃった、勇気という言葉がじわじわ沁みてきています。勇気を持つためには確信が必要。確信を持つためには、知識、認識、勉強、哲学、なんでもいいけど、まずはネオリベの帳の先があることを知るだけでいい。それが伝わることで、「設定された目的-手段」の独占状態を変えられる気がします。この対談が、その手助けに少しでもなればいいですね。AIの普及で大忙しになったら、また違う問題が出てくるかもしれないですが(笑)。 -
Posted by ブクログ
好きな人×好きな人の対談は面白いのか?
そりゃあ面白い
良かった
So Good!
急に英語、どうした?
まぁいい
とにかく良かった
若林さんが感じた雑多な事柄に、國分先生が哲学的な解答を提示する
そんな構成が多く見られた
でもベクトルは逆に向いてたんじゃなかろうか?
実は哲学的な話を若林さんの疑問が「解説」となっていたような気がする
これってこんな気持ちを表現するために生まれた考え方なんじゃねーか?みたいな
まぁ、とにかく頑張り過ぎないことが大切
わいは二人の対談からそんなことを受け取った
お二人はもしかしたら、いやこんなことは渡してないと言うかもしれんが、こっちの勝手である
以上 -
Posted by ブクログ
とても面白かったです。
若林さんの「表参道のセレブ犬〜」と國分さんの「暇と退屈の倫理学」のファンとしては必読の書でした。
また、最近「急に具合が悪くなる」を読み、映画も観た自分にとって、資本主義の限界と「人間」という自然の生き物である我々との相性の悪さを感じていたのですごくタイムリーな話題でもありました。
若林さんは「表参道のセレブ犬〜」の頃から一貫して、ずっと「資本主義」「新自由主義」「成果主義経済」のような今の社会を動かすシステムに対して、"今の社会の第一線にいながらも"疑問を持ち続けているのがとても面白い方だなと思います。
私自身も今後の働き方や生き方について、どういう方法が一番幸せなのか改めて考えるきっかけになりました。 -
Posted by ブクログ
この本は対談形式なので、完成された思想を読むというより、知識人がどう考えて、どう迷って、どう言葉にしていくのか、その途中を見られるのが面白かったです。
内容自体も、いわゆる知識人同士の難しい対談というより、かなり生活に近い話が多くて、普通に生きている側から見ても共感できるところが多かったです。
ただ、読んでいて少し距離を取って考えないといけないとも感じました。
本の中でも触れられていますが、國分さんや若林さんのように、資本主義社会の中で一定の成功を収めている人が、競争や資本主義への違和感を語ることに対して、
「成功した側の人がそんなことを言っても」
という批判は当然あり得ると思います。
ただ、その批判を本人たちもある程度理解した上で話していることが、個人的には意外でした。
自分は、こういう自己認識を持ちながら語る人を、これまであまり見てこなかった気がします。
そして少し考えたのですが、もしかすると、こういう人たちが人気になる理由の一つは、
「自分だけが社会の競争に疲れているわけではない」
と思わせてくれるところにあるのかもしれません。
世の中はどこまでも競争で、もっと働け、もっと成長しろ、もっと効率化しろと言われ続ける。
そこに疲れている人にとっては、社会的に成功している人でさえも同じような違和感を持っていると知ることで、少し救われるところがある。
自分も、そこにはかなり共感しました。
ただ同時に、現実にはその競争から完全に降りることも難しい。
生きていく以上、仕事もするし、お金も必要です。
競争から距離を取りたいと思いながら、競争に参加しなければ生活できない。
その矛盾は、読んでいる間ずっと感じていました。
もう一つ印象に残ったのが、「目的」に関する話です。
最近、書店のビジネス書の棚を見ていると、
「こうしなければいけない」
「こうすれば成功する」
「最短で結果を出す」
みたいなタイトルが、以前より増えているように感じます。
もちろん自分の見方が変わった可能性もあります。
ただ、社会全体が少しずつ「目的を持て」「成果を出せ」という圧力を強めているようにも見える。
このあたりは、國分功一郎さんの『目的への抵抗』を読んで、もう少し考えてみたいと思っています。
そして、この本を読んでいて、一番自分に返ってきた問いがあります。
自分が今、哲学や思想の本を読んで、こんなことを考えていられるのも、ある程度の時間的、経済的な余裕があるからです。
つまり、資本主義や競争社会から距離を取る思想を学ぶためにも、結局は資本主義の中で得た余裕が必要になる。
これは少し皮肉な話です。
そして、その余暇を使い切った先に何があるのか。
そこで得た思想を持って、また新しい労働に戻るのか。
それとも、今までとは違う働き方や生き方を選べるようになるのか。
そこには少し不安があります。
最近、自分は「学びの毒」というものについて考えることがあります。
哲学や思想を学ぶことは、必ずしも人を楽にするわけではないと思います。
むしろ、
「なぜ働くのか」
「なぜ競争するのか」
「なぜ成功しないといけないのか」
という問いを持つようになる。
今までなら疑わずに参加できていたものを、一度立ち止まって考えてしまうようになる。
その意味では、哲学には少し毒がある。
一度疑問を持つと、以前のようには無邪気に競争できなくなる。
自分は今、その毒の部分にかなり惹かれているのだと思います。
ただ、ここにも危険があります。
資本主義を批判したり、競争社会を疑ったりすること自体が、居心地のいい場所になる可能性もあります。
思想を現実から逃げるための道具にしてしまう。
考えることばかり上手くなって、現実の中で何かを作ったり、働いたり、責任を引き受けたりすることから遠ざかってしまう。
そこは、自分でも警戒しておかないといけないと思っています。
そして最後に、一番正直なことを言えば、自分も経済的な立場を手放すのは怖いです。
実際、一度かなり手放した経験があります。
その頃と比べれば、今は以前ほどお金や立場を絶対的なものだとは思わなくなりました。
ただ、それで本当に幸福になったのかと聞かれると、正直よく分かりません。
でも、一つだけはっきり言えることがあります。
以前より、不快感は減りました。
嫌なことを我慢する時間は減った。
自分の時間を自分で決められる感覚は増えた。
もしかすると、幸福を考える時に、
「幸福になったか」
という大きな問いだけではなく、
「不快な時間が減ったか」
「自分で選べる時間が増えたか」
という見方も必要なのかもしれません。
『帳の向こう』を読んで感じたのは、競争から完全に降りることでも、資本主義を否定することでもありませんでした。
むしろ、
その中で生きながら、どこまで競争や目的に自分自身を明け渡さずにいられるのか。
その距離感を考える本だったように思います。
自分自身もまだ答えはありません。
ただ、こういう問いを持ってしまった以上、以前と同じようには生きられない。
その少し不安定な感覚も含めて、今回この本を読んでよかったと思っています。