若林正恭のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
何となく、同じ実感を抱えているというか、他の本でも読んだような議論を実感に即して議論してくれている。
感想としては、ここで述べられている議論を、自分の考えの整理と合わせて、他で読んだ本を引き合いに出して深めてみたいと思う。引用とかが正確ではないのは悪しからず。
〇社会の個人化について
<中間団体がなくなり、「その代わり責任は全部あなたが取ってください」>
<婚活アプリは恋愛の自由市場が完璧に定着したところに登場した新しい株式市場。40前後の医者がその歳まで独身なのも、規制がゼロだから。昔だったら結婚させられてた可能性が高い→恋愛に限らず、人類史においては、規制が大きな役割を果たしてきた。近代は自由を求めてそれらを次々に廃止してきた。その結果、あらゆる場面を自由市場が覆い尽くすようになり、単に競争が激化した社会になってしまった。でも規制があった頃に戻るのもきつい。>
これはパトリック・J・デニーンが『リベラリズムはなぜ失敗したのか』で述べている通りだと思う。「リベラリズム(=個人主義)」が蔓延した⇒モラル・道徳をぶち壊し、その結果現れた問題を、国家の法で抑制するように頼る。⇒政府の権力は増す。社会に蓄積された道徳的な資源が失われる。
個人化は規範をぶち壊す。それで得られたものもあるけど、やっぱりしんどい社会なんだよな、と。じゃあ、規範を戻せばいいのか?と言われるとそれも違う。
〇疲れる労働
<同じことを反復する仕事は確かに退屈だったかもしれないけど、今は精神をすり減らすほどのフレキシビリティが労働者に求められている。>
<自己啓発本が売れなくなってきている。バーンアウトやウェルビーイングが増えてきた。> そもそも、資本主義社会においては、常に成長が求められてきている。だから疲れるんだよね。これは、ビンチョル・ハンの『疲労社会』で述べられているとおりだと思う。資本主義社会では、効率を上げることが最大の目的。この社会の住人たちは、「従順な主体」ではなく能力の主体である。してはならない、すべきの社会ではなく、できる、の社会である。能力社会が生み出すものは、できないものとしてのうつ病患者と無能な人間。
あるいは、山田陽子の『働く人のための感情資本論』で述べられている議論も引き合いに出したい。職場では感情は資本とされ、その感情管理を行うことで、「有能」とみなされる。これはそのまま引用するが、「感情資本主義社会では感情コントロールが自己感覚や能力感の中心に位置するとみなされるゆえ、自らの感情をコントロールすること、他者の感情について共感的に理解しつつ、それに巻き込まれない態度を習得することが精神的にも社会的にも強きもの、社会的優越の証とみなされる。自分の感情であろうと他者の感情であろうと、感情をきめ細やかに感じたりする一方で決してそれに没入せず、一歩引いた態度でコントロールすること、手続きに則って発話することが他者と状況を操作することにつながり、ひいては他者と状況を支配する権力になりうる。そしてこのような能力や権力を持っているか否かが出世や昇進、富や人脈の拡大、社会階層の異動に大きく影響するという意味で、感情は「資本」たりうる。」
要するにこの社会では、「能力があること」が至上とされ、そのためには「感情」すらも資本として扱わなければならない社会。そんな社会じゃ疲れてしまう、というのは当然のこと。
この本の中で<やっとみんな疲れてきた>と言っているけど、同じく『疲労社会』では、「そのような状態から解放させるための「疲労」こそが人々を連帯させ」ると述べてられている。やっとみんな疲れてきた社会を実感しているのは、その連帯の端緒なのかもしれない。
〇暇な時間がない
<目的を持たないものは、確かに今の社会では強烈に排除されている。>
<目的も手段も持たない快を享受する勇気を。>
公園で投網をする「変態」のように、何の意味も持たない時間を持つ贅沢さを持つ勇気を持つことの贅沢さ。
ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』の議論のとおり、現代社会の余暇は、生産のサイクルの中の「気晴らし」の時間にしか過ぎない。日々の労働で疲れた体を養うための休みは、もはや休みではなく、労働。もはや余暇は生産の時間。時間をつぶしたり、純粋に浪費することは我々にはできない。「貨幣と時間の排泄物となったのもむしろ我々の方なのである。」
〇資本主義社会・消費社会への批判
<消費社会は、これまでと比べ物にならないほど、僕らの感性を徹底的に規定していると思う。>
<今の経済システムって、人を焦らせたり、恐怖させたり、心配させたりすることで動くようになってますよね。>
<「なんでこんなに大騒ぎしてお金儲けしてるんですか?」というすごくシンプルだけど極めて重要な問いが考えられていない気がする。>
<資本主義が極まっていくと、資本主義というシステムを外から見ること自体もできなくなる気がする。>
<資本主義は仕組みでしかないから、止められない。法律を作るとか、人為的に止めるしかない。>
これは、佐伯啓思の『貨幣と欲望』でも議論されている。資本主義は本質的に不安定である。資本主義の拡大はなぜ止まらないのか。その原因は貨幣にある。貨幣はあらゆるものの価値を代替する。それを求めて、教義も信念もない「資本主義」が現代社会を支配している。そもそも資本主義社会は、いかにして資源を確保して生産を高めるかではなく、いかにして総消費量を増加させ雇用を確保するかが主眼となる。「資本主義の「精神」とは、自己を喪失した人間が、その不安から逃れるためにひたすら前のめりになりながら、何かを求めて走り続けているようなもの。資本主義は本質的に「不安定」なのである。」
そして、そうした資本主義が止められないと思うのは、マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』で述べられているとおりだ。「資本主義の終わりより世界の終わりを想像する方がたやすい」「ネオリベラルな資本主義が唯一の持続可能な政治経済システムであると了解し、その地平の彼方を求める、いや、想像することさえもが不可能になってしまった、つまるところは「この道しかない」ということが謎の常識と化してしまった世界。」ただ「「当たり前」とされているものを「誰もが勝手に変えられるもの」と変えていける政治的な行為主体が必要だ。」
もはや、資本主義は、法律とかそういったものでしか止められないのかもしれない。
<資本主義という宗教。東京だから?日本だからうまく行っている?駆り立てられるような感覚>
これは気づかなかった。ずっと東京にいるし、海外旅行もしたこともない。ちょっと都会から離れて暮らしてみれば、そう感じるのかな。
〇格差の固定化
<老人になると、「主観と客観の対立」が消滅する。しかし、今の若い世代は、格差を固定化されたものとしてみなしている。「現状を変えよう、それを乗り越えよう」という理想の気持ちを若者が持つのを社内の側が全力で阻止しようとしている。雇用はこれ以上ないほど流動化しているのに、階級は強烈に固定されている。和解に向けてのストーリーそのものが難しくなっている。そもそも対立も起こらない?>
<「格差があるのがあたりまえでしょ」という時代にそれに抗ったら苦しい。だから物分かりがいい。でも、平等を求めてもいいと思う。>
格差が固定化することによる諦めみたいなものがあるのは、実感する。みんな「中間層」になっているからかもしれない。石井洋二郎『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』でも中間層について議論されている。
中間層は「遊び」がない。支配階級は余裕があり、ハッタリやペテンもつきものであることを許容し、本気になり過ぎない。中間層は無知が暴露されることを恐れ、不安に思い続ける。結果彼らは日々の行動においても、順応主義、厳格主義、禁欲主義となる。その端的な表れが子供の数。支配階級は二人以上。中間階級は一人台。庶民階級は二人以上。支配階級への上昇可能性を持った集団に属してはいるものの、まだ上昇を保証されたわけではないために、「自己への確信」を抱けない人々が、「今ある姿とあるべき姿との一致」を目指して自らに厳しい義務を課し、子供の数も控えめにして出費を切り詰め、来るべき将来のために現在の欲望を抑制する。
〇インターネットについて。
<Twitterやインターネットは素直に意見を述べる場所じゃない。夜道みたいな場所で夜道は一人では歩かないでしょ→デジタルネイティブが身につけてきた適応の術。>
<若い人に「とにかく飲み会をやって、ひとの悪口たくさん言った方がいいよ」って言ってます。「そうじゃないとネットで書きたくなるだろ」>
これは朱喜哲『公正(フェアネス)を乗り越える』の議論を想起させた。
「重要なのが、「公と私」の区別。私的空間は「英国紳士のメンバー制クラブ」。公的空間は「中東のバザール」。バザールでは市場として、さまざまな人が集まり、取引をする。そこでは利害が駆け引きされ、商談という共同行為に臨む。居心地が悪い時もある。しかし、クラブに戻れば、気心知れた間柄で深いコミュニケーションがなされる。そこではバザールの愚痴もあるかもしれない。サイバー空間は、公と私の線引きの合意が難しい。ソーシャルメディアのトラブルは、公私の位置付けの齟齬によるのではないか?」
飲み会が「クラブ」だとしたら、インターネットは「バザール」。その使い分けをしないと、公共空間である「バザール」は無秩序なものになりうる。
〇だからそんなこと言えるんだろう。
<脱成長とか、資本主義批判してるけど、それはお前が資本主義の勝者だからだろと批判される。それはそう、反論すると泥試合になるからそれはもう、金持ってるからとしか言えない。→斎藤幸平さんも同じ批判を受けている→でもそう批判を受けるのは嫌、若い時から自分は、コインシャワー使ってバイクで気持ちいい風を浴びていた時から、消費社会が喧伝する快と実感の快の差異を考えていた。>
これは引用とかじゃなく、実感として思う。正直、受験・就活と、周りが同じ「競争」の社会にいると、そこを乗り越えないと「食えない」となってしまう状況だと、資本主義社会に批判する余裕しかない。いま、社会人になって、やっと落ち着いてきたから共感できているのだだけど、これで職を失ったりしたら、そんなことも言えなくなるのも事実だし。
〇春日
<春日、コスパタイパの男で、資本主義の権化のように見えるが、実はそれ自体が快?資本主義が終わっても、スローライフの社会が訪れても、新幹線の発車ベルが鳴るギリギリまで雑誌を読んでいるだろう。>
ここは、流石としか言いようがない。
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Posted by ブクログ
若林正恭さんの作品は、『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』『ナナメの夕暮れ』に次いで『青天』が3冊目となります。
過去に読んだ2冊はエッセー的な作品でしたが、今回は小説そのもの。若林さんが小説を書くと、どんな物語になるのだろうと興味を持って読み始めました。
私が勝手に描いていた若林さんのイメージは、どこか世間を斜に構えて見ていて、「カッコいいことがカッコ悪い」と思っているようなところがある人かな。そんな若林さんの原点ともいえるものが、この物語では生々しく、そして生き生きと描かれていました。
主人公は、高校のアメフト部員。アメフトが好きなのに、真剣に取り組むことにはどこか照れがあり、部活動にも本気になり切れない。引退後は将来が見えないことに悶々とし、不良たちとつるんでみても、そちらの世界にも染まり切れない。そんな彼が、もう一度アメフトに向き合うことを決意し、後輩たちと本音でぶつかり合い、言葉だけでなく行動で示しながら、過去の自分の弱さを乗り越えていく物語でした。
何かに本気になるのは、時として恥ずかしいし、失敗すれば格好悪いし、頑張ったからといって必ず報われるわけでもない。それでも逃げずに真正面からぶつかってみる。そんな不器用な高校生の姿に、読んでいるこちらまで熱くなりました。
アメフトは戦術が重要で、ポジションごとに役割が細かく分かれているスポーツだということも新しい発見でした。高校ラグビーは好きでよくテレビで観ますが、高校アメフトはほとんど観たことがありません。日本の高校アメフトはどのくらいのレベルなのだろう? オードリーのお二人が高校時代に出場した試合映像が観られるのなら、ぜひ一度観てみたいものです。
今まで読んだ若林作品の中では、私は『青天』が一番好きです。高校のアメフト部が舞台ですが、アメフトのルールを知らなくても、試合の臨場感や緊迫感がしっかり伝わってきます。専門用語をすべて理解できなくても、選手たちが何を懸けて戦っているのか、その熱量が伝わってきます。
現役でアメフトに取り組んでいる高校生や、これから始めてみたいと思っている人にとっても、戦術や練習への取り組み方など、参考になる部分が多いのではないでしょうか。
でも、この作品の魅力はアメフトだけではありません。何かに夢中になること、自分の弱さと向き合うこと、そして仲間と本気でぶつかり合うこと。そんな経験が、その後の人生にどんな意味を持つのかを考えさせてくれる青春小説でした。 -
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目的と手段で溢れる現代、暇の枯渇は思考の枯渇。
数値化だとか言語化だとか、細かいところを切り捨てて目的のために必要なことだけクローズアップしがちな現代に、言葉にならない違和感を感じ始めていたところに、颯爽と現れた…と感じた一冊だった。
でも同時に、年齢や立場が自分にそう思わせていて、今の時代と必死に取っ組み合っている層と自分とが離れ始めているのでは…みたいな、怖さも感じた。自分が感じている違和感って、どのくらい浸透しているのだろう。
これからの読書や自分の思考の入り口になる本だった。ここから自分も、帳の向こうを見て考えていくんだ…という、言い知れぬワクワク感のある本。 -
Posted by ブクログ
まず、國分先生のこの議論についていける若林が凄いなと思った。と同時に、彼がこれまでグルグルと考えてきたことを解決してくれるのは「哲学」なんだ!と分かった瞬間、なんだか嬉しくなった。フラストレーションの塊のようなエッセイたちが、ただの感情論ではなくて、哲学的な発想に基づくものだったとは。そのことにいち早く気づき、國分先生との対談企画を思いついた、『文藝界』の編集者、浅井茉莉子さんは本当に凄い。
國分先生の本はこれまで書店で見ても小難しそうだと思ってスルーしてきたけれど、日常の中にあるモヤを言語化してくれるのが哲学だと分かり、一気に興味が湧いてきた。今度書店を訪れた際には國分先生の著書を手に取ってみようと思う。そして、2人と一緒に、この東京を覆う帳の向こうを覗いてみたい。 -
Posted by ブクログ
競争社会から意図的に半分くらい勇気を持って降りてみて、夕日を眺めて風を感じる。自然に対して純粋に感動する心を取り戻すこと。
三宅かほの仕事始めると本が読めなくなる。も同じ論調。拡大、成長から半歩降りて、余白を作ること。朝井リョウの生殖記も同じような論旨で、成長から降りてみよ、同調圧力大変だけど。
私も、私自身の哲学を、作るためにたくさん本をよんでいる。
若林正恭は、完全に降りちゃうとそれはそれで暇を楽しめない、というのも、まあそうかなと思った。嫌なこと、仕事も数割は残っていた方が余白も楽しめるのかなと。
暇は大事で、時間は貴重なんだから。暇を持つべきだけど、暇を楽しむ能力がなければ楽しめないし、忙しい社会ではその能力を育めない。 -
Posted by ブクログ
哲学入門としてめちゃくちゃ良かったと感じる。学問としての哲学とは違うんだけど、日常のこと考えたりとか、自分の楽しさってなんだろなってのを言語化するのにちょうどよかった。国分さんのほかの本、難易度低めとは言われているが、やはり読むのは大変なんだよな、と。自分の快楽は目的ありきなんじゃないかと言うのが痛感。20代は意味なき快楽をとても嫌っていた。エンタメ読書もしないようにしてきた、が、ある時読むラノベが面白くてたまらなかった。そんな自分が許せなかった。しかしその感覚を変えられるかもしれない。とても良い本だった。新刊購入で1800円くらいなのを渋っていた私の背中を押してくれた妻、ありがとう。
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Posted by ブクログ
この1週間、スイスに行っていました。
富士山よりも高い山々が目の前に広がり、自然の壮大さを肌で感じる日々でした。
柵のない道を歩いていると、普段は意識することのない命の輪郭がはっきりするような感覚がありました。生きている実感を持てた旅でした。
そして、山を眺めながらただぼーっとしている時間が、とても心地よかった。
朝焼けを眺めながらコーヒーを飲む。何かをするわけでもなく、ただ景色を見る。
現地の人たちも、そんな時間をとても大切にしているように見えました。
振り返ると、私たちは目的のために手段を選ぶことに囚われすぎているのかもしれません。
効率的に、合理的に、無駄なく。そんな考えから少しだけ外れて、何の役にも立たないような時間を過ごす。この本からはその重要性が得られます。
合理的ではない時間こそ、あとから振り返ったときに大切だったと思えるのかもしれません。
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Posted by ブクログ
面白かった!!
哲学と経済、現代社会、ビジネス、世代の移り変わり、時代の変化、流行、、、世の中を複合的に且つ多面的に語られていて、楽しみながらも勉強になった。
世の中のあれもこれも、例えば、ただ夕日を見ることや相方・春日さんの行動までもが、哲学や資本主義の話に結びついていく。
日々の生活で感じる雑多な疑問や違和感が、若林さんによって投げかけられて、國分さんによって学術的に解説・展開されていくのが、なんとも痛快だった。
目的と手段に侵食されない時間と場所、それが「楽しむこと」であり、いまではそれが「贅沢」になっている。
國分さんの著書「暇と退屈の倫理学」も気になった。
若林さんの二拠点生活の話も興味深かった。
私自身も 都市部と田舎両方の暮らしの経験があるので、都会と田舎での経済の違い、資本主義や価値観のズレ、コミュニティの一長一短がよくわかる。
何が良いでも悪いでもないし、正解はないけれど、世界は広いんだ、帳の向こうがあるんだと思うだけで、世の中の見え方も考え方の幅も違ってくる気がする。
対談形式なのでトーク番組のようなエンタメ感ありで、読みやすかった。
テレビでもラジオでも配信系でもいいから、番組として実際に対談している様子もぜひ見聞きしたいと思ってしまった。
また2人の対談の機会や続編があるといいな。