林望のレビュー一覧
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原作の『源氏物語』を正確に味わいながら、現代小説を読むようにすらすら読める。「名訳」を超えた完全現代語訳が、ここに誕生。装訂には、「コデックス装」という装本スタイルを採用。どのページもきれいに開いてとても読みやすく、平安から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という奥ゆかしい装訂を彷彿とさせる造り。一巻は、桐壺 帚木 空蝉 夕顔 若紫を収録。
カテゴリは歴史もしくは古典だろうなと思うものの、こんなに読みやすい源氏物語ならもはや国内「小説」と言っても過言ではなかろうというのが正直な気持ちです。子供向けの省略した源氏なら読んだことがあるのですが原文はとても手が出せず、でも日本のこんなに有名な作品を知らずにいるのは恥ずかしいなと思い、しをん先生が絶賛していたのを機に読みました。本当にすらすら読めて感動・・・きっと昔の人はこれをむさぼるように読んだんだろうなとようやく理解できた。紫の君に対する源氏は若干引くけど、でも当時は恋愛=男性にとって仕事と同じくらい必須のものだったという考えからすると、源氏にとってはようやく待ち望んだ出会いだったんでしょうね。続きも読めそうです。 -
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原作の『源氏物語』を正確に味わいながら、現代小説を読むようにすらすら読める。「名訳」を超えた完全現代語訳が、ここに誕生。装訂には、「コデックス装」という装本スタイルを採用。どのページもきれいに開いてとても読みやすく、平安から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という奥ゆかしい装訂を彷彿とさせる造り。一巻は、桐壺 帚木 空蝉 夕顔 若紫を収録。
カテゴリは歴史もしくは古典だろうなと思うものの、こんなに読みやすい源氏物語ならもはや国内「小説」と言っても過言ではなかろうというのが正直な気持ちです。子供向けの省略した源氏なら読んだことがあるのですが原文はとても手が出せず、でも日本のこんなに有名な作品を知らずにいるのは恥ずかしいなと思い、しをん先生が絶賛していたのを機に読みました。本当にすらすら読めて感動・・・きっと昔の人はこれをむさぼるように読んだんだろうなとようやく理解できた。紫の君に対する源氏は若干引くけど、でも当時は恋愛=男性にとって仕事と同じくらい必須のものだったという考えからすると、源氏にとってはようやく待ち望んだ出会いだったんでしょうね。続きも読めそうです。 -
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原作の『源氏物語』を正確に味わいながら、現代小説を読むようにすらすら読める。「名訳」を超えた完全現代語訳が、ここに誕生。装訂には、「コデックス装」という装本スタイルを採用。どのページもきれいに開いてとても読みやすく、平安から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という奥ゆかしい装訂を彷彿とさせる造り。一巻は、桐壺 帚木 空蝉 夕顔 若紫を収録。
カテゴリは歴史もしくは古典だろうなと思うものの、こんなに読みやすい源氏物語ならもはや国内「小説」と言っても過言ではなかろうというのが正直な気持ちです。子供向けの省略した源氏なら読んだことがあるのですが原文はとても手が出せず、でも日本のこんなに有名な作品を知らずにいるのは恥ずかしいなと思い、しをん先生が絶賛していたのを機に読みました。本当にすらすら読めて感動・・・きっと昔の人はこれをむさぼるように読んだんだろうなとようやく理解できた。紫の君に対する源氏は若干引くけど、でも当時は恋愛=男性にとって仕事と同じくらい必須のものだったという考えからすると、源氏にとってはようやく待ち望んだ出会いだったんでしょうね。続きも読めそうです。 -
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原作の『源氏物語』を正確に味わいながら、現代小説を読むようにすらすら読める。「名訳」を超えた完全現代語訳が、ここに誕生。装訂には、「コデックス装」という装本スタイルを採用。どのページもきれいに開いてとても読みやすく、平安から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という奥ゆかしい装訂を彷彿とさせる造り。一巻は、桐壺 帚木 空蝉 夕顔 若紫を収録。
カテゴリは歴史もしくは古典だろうなと思うものの、こんなに読みやすい源氏物語ならもはや国内「小説」と言っても過言ではなかろうというのが正直な気持ちです。子供向けの省略した源氏なら読んだことがあるのですが原文はとても手が出せず、でも日本のこんなに有名な作品を知らずにいるのは恥ずかしいなと思い、しをん先生が絶賛していたのを機に読みました。本当にすらすら読めて感動・・・きっと昔の人はこれをむさぼるように読んだんだろうなとようやく理解できた。紫の君に対する源氏は若干引くけど、でも当時は恋愛=男性にとって仕事と同じくらい必須のものだったという考えからすると、源氏にとってはようやく待ち望んだ出会いだったんでしょうね。続きも読めそうです。 -
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原作の『源氏物語』を正確に味わいながら、現代小説を読むようにすらすら読める。「名訳」を超えた完全現代語訳が、ここに誕生。装訂には、「コデックス装」という装本スタイルを採用。どのページもきれいに開いてとても読みやすく、平安から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という奥ゆかしい装訂を彷彿とさせる造り。一巻は、桐壺 帚木 空蝉 夕顔 若紫を収録。
カテゴリは歴史もしくは古典だろうなと思うものの、こんなに読みやすい源氏物語ならもはや国内「小説」と言っても過言ではなかろうというのが正直な気持ちです。子供向けの省略した源氏なら読んだことがあるのですが原文はとても手が出せず、でも日本のこんなに有名な作品を知らずにいるのは恥ずかしいなと思い、しをん先生が絶賛していたのを機に読みました。本当にすらすら読めて感動・・・きっと昔の人はこれをむさぼるように読んだんだろうなとようやく理解できた。紫の君に対する源氏は若干引くけど、でも当時は恋愛=男性にとって仕事と同じくらい必須のものだったという考えからすると、源氏にとってはようやく待ち望んだ出会いだったんでしょうね。続きも読めそうです。 -
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原作の『源氏物語』を正確に味わいながら、現代小説を読むようにすらすら読める。「名訳」を超えた完全現代語訳が、ここに誕生。装訂には、「コデックス装」という装本スタイルを採用。どのページもきれいに開いてとても読みやすく、平安から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という奥ゆかしい装訂を彷彿とさせる造り。一巻は、桐壺 帚木 空蝉 夕顔 若紫を収録。
カテゴリは歴史もしくは古典だろうなと思うものの、こんなに読みやすい源氏物語ならもはや国内「小説」と言っても過言ではなかろうというのが正直な気持ちです。子供向けの省略した源氏なら読んだことがあるのですが原文はとても手が出せず、でも日本のこんなに有名な作品を知らずにいるのは恥ずかしいなと思い、しをん先生が絶賛していたのを機に読みました。本当にすらすら読めて感動・・・きっと昔の人はこれをむさぼるように読んだんだろうなとようやく理解できた。紫の君に対する源氏は若干引くけど、でも当時は恋愛=男性にとって仕事と同じくらい必須のものだったという考えからすると、源氏にとってはようやく待ち望んだ出会いだったんでしょうね。続きも読めそうです。 -
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林望「謹訳源氏物語」、第十巻を読み終えて、これにて「完」。
第一巻から第七巻までは光源氏を中心にした物語、そしてこの度読み終えた第七巻から第十巻は、ほぼ二世代後の薫と匂宮を中心にした話。昨年夏に第七巻まで一気に読み、今回残りの三巻をまとめて読んだのは、くしくもちょうどいい区切りだったということだ。
この三巻の主人公である薫と匂宮は、いずれ劣らぬ輝くばかりの貴公子ながら性格・行動など実に好対照に描かれていて、興味深くも読み進めたと云うところだろうか。好色で目をつけた女性には理不尽であろうとなかろうとモノにしたいという行動力を持ち、しかし移り気な中にも情の深さは人一倍という匂宮。一方で出家を望みながらもこの世の未練も断ちがたく、亡くなってしまった一人の女性への思いを断ち切れない薫。感情に委ねるのではなく理性でもってやましい行動は慎しんでしまう。おそらく作者の紫式部も薫のほうに肩入れしているものと見え、知らず知らずつい薫の肩を持ってしまうというところだろうか。
この三巻で登場するヒロインの、大君、中君そして浮舟の三人の女性の心理描写もさることながら、薫と匂宮の恋慕の情と葛藤、哀感、悲痛、不安、後悔などなど心の揺れ動くさまがあますところなく描かれている。訳者のリンボウ先生が曰く、「この作者は神のごとくに男心をも見通す」と。まさに然りで、これはいったいどういうことなのだろうかとも思える。紫式部自身がそれほどに深く濃い経験!? の持ち主だったのか、はてまた親しい男友達ないし兄弟たちから見聞きした知識がベースにあるのか、どちらにしても驚くばかりと云える。
そしてまた、頻繁に挿入される和歌はすべて紫式部の作品なのだろうが、男女の歌によるやり取りなども古歌や漢詩を引き合いにしたものが多く、その教養のほどには驚かされるばかりと云えようか。ほんに本居宣長をはじめ、外国人であるキーン先生までも虜にしたのは決して偶然ではないだろう。また多くの文人をして現代語訳に挑ませるのも、それだけ魅力が満ち満ちているということに他ならない。今、こうしてすべてを読み終えてしまったことがむしろ寂しく感じるのも至極当然と云えるのかも知れない。 -
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林望「謹訳源氏物語」、第十巻を読み終えて、これにて「完」。
第一巻から第七巻までは光源氏を中心にした物語、そしてこの度読み終えた第七巻から第十巻は、ほぼ二世代後の薫と匂宮を中心にした話。昨年夏に第七巻まで一気に読み、今回残りの三巻をまとめて読んだのは、くしくもちょうどいい区切りだったということだ。
この三巻の主人公である薫と匂宮は、いずれ劣らぬ輝くばかりの貴公子ながら性格・行動など実に好対照に描かれていて、興味深くも読み進めたと云うところだろうか。好色で目をつけた女性には理不尽であろうとなかろうとモノにしたいという行動力を持ち、しかし移り気な中にも情の深さは人一倍という匂宮。一方で出家を望みながらもこの世の未練も断ちがたく、亡くなってしまった一人の女性への思いを断ち切れない薫。感情に委ねるのではなく理性でもってやましい行動は慎しんでしまう。おそらく作者の紫式部も薫のほうに肩入れしているものと見え、知らず知らずつい薫の肩を持ってしまうというところだろうか。
この三巻で登場するヒロインの、大君、中君そして浮舟の三人の女性の心理描写もさることながら、薫と匂宮の恋慕の情と葛藤、哀感、悲痛、不安、後悔などなど心の揺れ動くさまがあますところなく描かれている。訳者のリンボウ先生が曰く、「この作者は神のごとくに男心をも見通す」と。まさに然りで、これはいったいどういうことなのだろうかとも思える。紫式部自身がそれほどに深く濃い経験!? の持ち主だったのか、はてまた親しい男友達ないし兄弟たちから見聞きした知識がベースにあるのか、どちらにしても驚くばかりと云える。
そしてまた、頻繁に挿入される和歌はすべて紫式部の作品なのだろうが、男女の歌によるやり取りなども古歌や漢詩を引き合いにしたものが多く、その教養のほどには驚かされるばかりと云えようか。ほんに本居宣長をはじめ、外国人であるキーン先生までも虜にしたのは決して偶然ではないだろう。また多くの文人をして現代語訳に挑ませるのも、それだけ魅力が満ち満ちているということに他ならない。今、こうしてすべてを読み終えてしまったことがむしろ寂しく感じるのも至極当然と云えるのかも知れない。 -
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林望「謹訳源氏物語」、第十巻を読み終えて、これにて「完」。
第一巻から第七巻までは光源氏を中心にした物語、そしてこの度読み終えた第七巻から第十巻は、ほぼ二世代後の薫と匂宮を中心にした話。昨年夏に第七巻まで一気に読み、今回残りの三巻をまとめて読んだのは、くしくもちょうどいい区切りだったということだ。
この三巻の主人公である薫と匂宮は、いずれ劣らぬ輝くばかりの貴公子ながら性格・行動など実に好対照に描かれていて、興味深くも読み進めたと云うところだろうか。好色で目をつけた女性には理不尽であろうとなかろうとモノにしたいという行動力を持ち、しかし移り気な中にも情の深さは人一倍という匂宮。一方で出家を望みながらもこの世の未練も断ちがたく、亡くなってしまった一人の女性への思いを断ち切れない薫。感情に委ねるのではなく理性でもってやましい行動は慎しんでしまう。おそらく作者の紫式部も薫のほうに肩入れしているものと見え、知らず知らずつい薫の肩を持ってしまうというところだろうか。
この三巻で登場するヒロインの、大君、中君そして浮舟の三人の女性の心理描写もさることながら、薫と匂宮の恋慕の情と葛藤、哀感、悲痛、不安、後悔などなど心の揺れ動くさまがあますところなく描かれている。訳者のリンボウ先生が曰く、「この作者は神のごとくに男心をも見通す」と。まさに然りで、これはいったいどういうことなのだろうかとも思える。紫式部自身がそれほどに深く濃い経験!? の持ち主だったのか、はてまた親しい男友達ないし兄弟たちから見聞きした知識がベースにあるのか、どちらにしても驚くばかりと云える。
そしてまた、頻繁に挿入される和歌はすべて紫式部の作品なのだろうが、男女の歌によるやり取りなども古歌や漢詩を引き合いにしたものが多く、その教養のほどには驚かされるばかりと云えようか。ほんに本居宣長をはじめ、外国人であるキーン先生までも虜にしたのは決して偶然ではないだろう。また多くの文人をして現代語訳に挑ませるのも、それだけ魅力が満ち満ちているということに他ならない。今、こうしてすべてを読み終えてしまったことがむしろ寂しく感じるのも至極当然と云えるのかも知れない。 -
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林望「謹訳源氏物語」、第十巻を読み終えて、これにて「完」。
第一巻から第七巻までは光源氏を中心にした物語、そしてこの度読み終えた第七巻から第十巻は、ほぼ二世代後の薫と匂宮を中心にした話。昨年夏に第七巻まで一気に読み、今回残りの三巻をまとめて読んだのは、くしくもちょうどいい区切りだったということだ。
この三巻の主人公である薫と匂宮は、いずれ劣らぬ輝くばかりの貴公子ながら性格・行動など実に好対照に描かれていて、興味深くも読み進めたと云うところだろうか。好色で目をつけた女性には理不尽であろうとなかろうとモノにしたいという行動力を持ち、しかし移り気な中にも情の深さは人一倍という匂宮。一方で出家を望みながらもこの世の未練も断ちがたく、亡くなってしまった一人の女性への思いを断ち切れない薫。感情に委ねるのではなく理性でもってやましい行動は慎しんでしまう。おそらく作者の紫式部も薫のほうに肩入れしているものと見え、知らず知らずつい薫の肩を持ってしまうというところだろうか。
この三巻で登場するヒロインの、大君、中君そして浮舟の三人の女性の心理描写もさることながら、薫と匂宮の恋慕の情と葛藤、哀感、悲痛、不安、後悔などなど心の揺れ動くさまがあますところなく描かれている。訳者のリンボウ先生が曰く、「この作者は神のごとくに男心をも見通す」と。まさに然りで、これはいったいどういうことなのだろうかとも思える。紫式部自身がそれほどに深く濃い経験!? の持ち主だったのか、はてまた親しい男友達ないし兄弟たちから見聞きした知識がベースにあるのか、どちらにしても驚くばかりと云える。
そしてまた、頻繁に挿入される和歌はすべて紫式部の作品なのだろうが、男女の歌によるやり取りなども古歌や漢詩を引き合いにしたものが多く、その教養のほどには驚かされるばかりと云えようか。ほんに本居宣長をはじめ、外国人であるキーン先生までも虜にしたのは決して偶然ではないだろう。また多くの文人をして現代語訳に挑ませるのも、それだけ魅力が満ち満ちているということに他ならない。今、こうしてすべてを読み終えてしまったことがむしろ寂しく感じるのも至極当然と云えるのかも知れない。 -
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林望「謹訳源氏物語」、第十巻を読み終えて、これにて「完」。
第一巻から第七巻までは光源氏を中心にした物語、そしてこの度読み終えた第七巻から第十巻は、ほぼ二世代後の薫と匂宮を中心にした話。昨年夏に第七巻まで一気に読み、今回残りの三巻をまとめて読んだのは、くしくもちょうどいい区切りだったということだ。
この三巻の主人公である薫と匂宮は、いずれ劣らぬ輝くばかりの貴公子ながら性格・行動など実に好対照に描かれていて、興味深くも読み進めたと云うところだろうか。好色で目をつけた女性には理不尽であろうとなかろうとモノにしたいという行動力を持ち、しかし移り気な中にも情の深さは人一倍という匂宮。一方で出家を望みながらもこの世の未練も断ちがたく、亡くなってしまった一人の女性への思いを断ち切れない薫。感情に委ねるのではなく理性でもってやましい行動は慎しんでしまう。おそらく作者の紫式部も薫のほうに肩入れしているものと見え、知らず知らずつい薫の肩を持ってしまうというところだろうか。
この三巻で登場するヒロインの、大君、中君そして浮舟の三人の女性の心理描写もさることながら、薫と匂宮の恋慕の情と葛藤、哀感、悲痛、不安、後悔などなど心の揺れ動くさまがあますところなく描かれている。訳者のリンボウ先生が曰く、「この作者は神のごとくに男心をも見通す」と。まさに然りで、これはいったいどういうことなのだろうかとも思える。紫式部自身がそれほどに深く濃い経験!? の持ち主だったのか、はてまた親しい男友達ないし兄弟たちから見聞きした知識がベースにあるのか、どちらにしても驚くばかりと云える。
そしてまた、頻繁に挿入される和歌はすべて紫式部の作品なのだろうが、男女の歌によるやり取りなども古歌や漢詩を引き合いにしたものが多く、その教養のほどには驚かされるばかりと云えようか。ほんに本居宣長をはじめ、外国人であるキーン先生までも虜にしたのは決して偶然ではないだろう。また多くの文人をして現代語訳に挑ませるのも、それだけ魅力が満ち満ちているということに他ならない。今、こうしてすべてを読み終えてしまったことがむしろ寂しく感じるのも至極当然と云えるのかも知れない。 -
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実に読みやすい本である。
文体がしゃべり言葉になっていて、まとめたはなしたものを、
エッセイにしたものであろう。
この人は、1949年生まれ、慶応出身。
わたしと同世代の人で、いっている視点が、結構おもしろい。
今までいわれていることに対して、「そうではない。」と強調し、
違う視点を提示する。おもしろいことである。
する事に対して、知性があるということは、
「主体」がかかわっているかにあるという。
素人の書いた旅行記が、主観的で通俗な「おしゃべり」に終始しているのは、「客観的認識」を基底とする「発見」がないからだ。
それを、知性の欠如という。
知性とは、「方法を身につける」ことである。
なにも教えないで教える。つまり、自分自身で学んでいく。
<知識を教えても仕事はよくならない。方法を教えることにある。
わたしのやっている方法を教えている。>
日本の職人の世界は弟子にいっさい教えないというのが原則である。
親方は、弟子に対してやり方を秘密にする。
むしろできるだけ見せないようにする。
教えない方が、弟子が淘汰され、意欲あるものだけが残ってくる。
教えないで、どれほど隠しても、何とかして親方の技を盗もうというくらいでないとその弟子はのびない。
カルチャーセンタ-は、「学問の促成栽培」にすぎない。
「結果」を教えてくれるしかない。
学問というものは、そのように効率的に遂行されるべきものではない。歩留のわるいものである。
「そんなものばかばかしいから最初からやめとけ」
といわれるが、おびただしい無駄の中に、鉱脈にいきあたる場合がある。
結果と評価の関連
会社の中の仕事でも、きちんと結果を出すところまで努力をして、
そしてその成果が、正当に評価されれば、
どんなことでも決してつらくはないと思うのです。
その仕事の結果が現れて、それがパッと人に評価されたときに、
その長くて苦しい時期も楽しい思い出と変わる。
結果は出したけれども、その結果は少しも評価されないわけです。
まして、失敗したときに、人間は努力したことは、
全て意味のないものとして評価されてしまう。
何のために苦労してきたのか。
という疑問にどう応えるのかということです。
本当に評価されない努力だからおもしろくない。
一人っきりでも平気な独立の気概というものができてくるといじめられなくなる。
日本人の社会というのは、個人主義ということを基本的に認めない。
「個人主義的行動というのは、協調性に欠ける。」とみられている。
遊びと仕事はどこが違うのか
遊びっていうのは、現象的にそれが遊びに見えても、必ずしも遊びになっていない。逆に、仕事に見えても実は遊びだということもある。
それは、個人としての、独立した心の持ちようなんです。
本当の趣味となるためには、プロになれるほどの努力と腕前がなければだめ。
読書の楽しみ
本を読む楽しさを知らない人は、
楽しさがわからないから読もうという気がおこらない。
読もうという気がおこらないから読まない。
読まないから楽しさがわからない。
自分で読んでおもしろかったなあという本が書棚にたまっていくということは、その人の人生の軌跡である。
名著は、時代の流行である。
その時代の問題意識というものが常にある。
「されどわれらが日々」という者も、時代の問題意識が文学化された。
知性のある生活。オトナの気分。
おしゃべりではなく、カンナクズのような言葉ではない。キチンと読者に伝わる言葉がいる。 -
Posted by ブクログ
書斎は北側の部屋に設けるなど、実用的なことも書かれているが、話題は知的生産術や生き方にまで及び、全体的にエッセイ風の文章。しかし、考えさせられ、刺激になることもあった。
永井荷風や漱石、梶井基次郎のように、日記を書くことによって自分自身の一日を反省したり、日々思いついたいろいろなことを書き留めたりということができる。
これから向こう十年間、何かのことを努力したいから、そのために書斎が必要だというふうに考えていく。
「荘子」には、「偉くなるということは、それだけ心を苦しめることだ。人の上に立てば、立っただけ苦しみも多くなる。人の上に立たない、出世しないということは、苦しみが少ないということでもある。ゆえに真の人間は、できるだけ偉くならないのがよい」と書いてある。