実に読みやすい本である。
文体がしゃべり言葉になっていて、まとめたはなしたものを、
エッセイにしたものであろう。
この人は、1949年生まれ、慶応出身。
わたしと同世代の人で、いっている視点が、結構おもしろい。
今までいわれていることに対して、「そうではない。」と強調し、
違う視点を提示する。おも
...続きを読むしろいことである。
する事に対して、知性があるということは、
「主体」がかかわっているかにあるという。
素人の書いた旅行記が、主観的で通俗な「おしゃべり」に終始しているのは、「客観的認識」を基底とする「発見」がないからだ。
それを、知性の欠如という。
知性とは、「方法を身につける」ことである。
なにも教えないで教える。つまり、自分自身で学んでいく。
<知識を教えても仕事はよくならない。方法を教えることにある。
わたしのやっている方法を教えている。>
日本の職人の世界は弟子にいっさい教えないというのが原則である。
親方は、弟子に対してやり方を秘密にする。
むしろできるだけ見せないようにする。
教えない方が、弟子が淘汰され、意欲あるものだけが残ってくる。
教えないで、どれほど隠しても、何とかして親方の技を盗もうというくらいでないとその弟子はのびない。
カルチャーセンタ-は、「学問の促成栽培」にすぎない。
「結果」を教えてくれるしかない。
学問というものは、そのように効率的に遂行されるべきものではない。歩留のわるいものである。
「そんなものばかばかしいから最初からやめとけ」
といわれるが、おびただしい無駄の中に、鉱脈にいきあたる場合がある。
結果と評価の関連
会社の中の仕事でも、きちんと結果を出すところまで努力をして、
そしてその成果が、正当に評価されれば、
どんなことでも決してつらくはないと思うのです。
その仕事の結果が現れて、それがパッと人に評価されたときに、
その長くて苦しい時期も楽しい思い出と変わる。
結果は出したけれども、その結果は少しも評価されないわけです。
まして、失敗したときに、人間は努力したことは、
全て意味のないものとして評価されてしまう。
何のために苦労してきたのか。
という疑問にどう応えるのかということです。
本当に評価されない努力だからおもしろくない。
一人っきりでも平気な独立の気概というものができてくるといじめられなくなる。
日本人の社会というのは、個人主義ということを基本的に認めない。
「個人主義的行動というのは、協調性に欠ける。」とみられている。
遊びと仕事はどこが違うのか
遊びっていうのは、現象的にそれが遊びに見えても、必ずしも遊びになっていない。逆に、仕事に見えても実は遊びだということもある。
それは、個人としての、独立した心の持ちようなんです。
本当の趣味となるためには、プロになれるほどの努力と腕前がなければだめ。
読書の楽しみ
本を読む楽しさを知らない人は、
楽しさがわからないから読もうという気がおこらない。
読もうという気がおこらないから読まない。
読まないから楽しさがわからない。
自分で読んでおもしろかったなあという本が書棚にたまっていくということは、その人の人生の軌跡である。
名著は、時代の流行である。
その時代の問題意識というものが常にある。
「されどわれらが日々」という者も、時代の問題意識が文学化された。
知性のある生活。オトナの気分。
おしゃべりではなく、カンナクズのような言葉ではない。キチンと読者に伝わる言葉がいる。