私は宇野常寛の本は『ゼロ年代の想像力』と『母性のディストピア』しか読んでいないのだが、彼の思想はある種戦後民主主義の崩壊とその後の情報社会に対するそのアップデートという一本の軸に貫かれている感じがして、論旨も明快で非常に読むのが楽しい。今回の『遅いインターネット』を読んで得た収穫は、いわゆる批評家が(東浩紀しかり宇野常寛しかり宮台真司しかり中島義道しかり)活動の主眼を本を書くことからコミュニティを形成することに移していることへの疑問(というか半分は不信感)が多少なりとも解消されたということだった。
本書は4章構成だが1章はほぼ『一般意志2.0』や『22世紀の民主主義』、『なめらかな社会と、その敵』と似ていて、衆愚政治に堕した民主主義から情報技術によって本来の政治を取り戻そうとするものだった。特徴的なのはそこで志向されているものがある種テクノクラート的な職業人による仕事の延長として政治が捉えられていることおよび、選挙というものを祝祭と捉え、選挙以外の日常生活の中に政治を接続しようとする試みを描いていることだろう。まあこれもオードリー・タンの受け売り感はあるが(自分で言及してるし)。誤解のないようにいうが、私自身はこういう情報技術の政治は(東や成田のような半ポピュリズムはどうかと思うが)首肯できるところがある。問題はそうした手法が必ずしも全ての政策分野に当てはまるわけではないことで、例えばきわめて専門的な知見を要する事業や長期的な規模間の政策、また誰もやりたがらないが必要不可欠な政策については日常の延長としての政治という手法だけでは無理があると思う。まあその辺も織り込んだ上での議論を宇野はしているので、こうした議論の中では比較的手堅いものか。
2章はほぼ『ポケモンGO』おもしれーっていう話。『母性のディストピア』でみた。
面白かったのは3章で、ここでは吉本隆明の『共同幻想論』の再評価を行いながら現代の情報社会(『母性のディストピア』で描いていた肥大した母胎としての情報技術)における自己像を肥大した自己幻想が共同幻想や対幻想を取り込んでいる状況に喩えている。またここで重要なのが(言い忘れたが本書全体を貫く通奏低音でもあるが)階級の問題で、そもそも情報社会で自己幻想のみで自立しうるのは経済的・人的資本を持った個人のみで、大半の大衆は自己の意見を持つ能力もなく他人の意見をリツイートしたりすることによって自分の意見を言った気になるという意見の格差とでもいうべきものが存在しているということだ。これは本書の冒頭でも、世界に経済活動を通して素手で触れている層と、その実感を持たず政治にその捌け口を求めている大半の大衆層との分断を非常に問題意識を持って述べている。再びトランプ政権が台頭しつつある現代ではこの格差という見方は今の分断の図式を整理してくれたと思う。
4章は1〜3章の議論を踏まえ、リテラシーを養いタイムラインの流行に流されずじっくり熟考する主体を養うためにコミュニティを作ろうという自身のプロジェクトを描いたもの。このコミュニティが成功したのかは私も部外者なのでよく知らないが、理念自体はいいと思う。ただそれは結局、そういうコミュニティに属そうとするだけの意識高い系エリートだけしか包摂できてなくね?という感じがして、宇野が批判している『ポケモンGO』のエリート主義との差別化がうまくできてない気がする。まあこの辺はサロンの人のセールストークと捉えるべきか。
全体としてはまあ今となっては「そうやろなあ」という感じです当たり前のことを言っている感じだった。