宇野常寛のレビュー一覧
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今の世の中を的確に描写した一冊だったように思う。
批評の題材としてマンガやドラマといったポップカルチャーを扱っていたので、今まで思想や批評に感じていた「そんなの、一部の人間だけじゃん」という思いを感じなかった。
思想の内容としては、政治や経済成長といった誰もが持ち合わせる大きな指標がなくなった現在は、それぞれが思い思いの物語(生きる意味や承認欲求を満たすもの)を「敢えて」信じ、その領分を守るために戦い合っている世の中なのだ、というものだった。
こういったことを端的に示してくれただけでも凄いのだけど、それだけでなく、問題点や解決策まで示してくれていたので、もう凄いとしか形容できない。
問題点 -
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気になった論点とかをノートにまとめていたら4ページにもなりました。本当は皆さんにも本書を読んでもらうのが一番なんですけど、宣伝も兼ねてその中のいくつかを紹介します。
1.「ゆきりんに居場所がない」問題。優子→あっちゃんのいないAKBを守るという物語。まゆゆ→次世代センターの本命。ゆきりん→前田政権での有力閣僚だったけどナンバー2ではないので後継者にはなれない。
2.大島優子には「嫌われる才能」がない。アンチがいるからスターが生まれる。あっちゃんと違い、優子にはアンチがほとんどいない。
3.よしりん「AKBの選挙には同情票が膨大にある。単なる美少女コンテストで票を入れていない」
4.総選 -
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ネタバレ(印象的な箇所)
<ソーシャルメディア時代のアイドルAKB>
・AKBはマスメディアに頼らず、ソーシャルメディアを駆使して、ファンとアイドルの新しい関係を作った。
・AKBは、おにゃんこやモーニング娘。に似ていると言われるが、ガチの度合いが全然違う。
・おにゃんこもモー娘も、所詮フェイク・ドキュメンタリー。楽屋の生の様子を視聴者に見せているようでいて、製作者側が何を見せるか、繊細にコントロールしていた。
・AKBは、もうフェイクじゃない。ガチの人気競争をファンに見せている。毎日劇場で公演して、女子たちにGoogle+やブログを好き勝手に更新させることで、アイドルの日常をソーシャルメデ -
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東日本大震災によって既存の枠組みに対する絶望感が生まれる中、日本人はどこに「希望」を見出したらいいのか?
戦後日本の社会構造、日本におけるインターネットの発達史などを紐解きながら、2010年代の「希望」へとつながる萌芽を探っていく本。
実世界とコンピュータがより密接につながりリアル空間を広げてくれる「拡張現実」という概念は、世界中で着実なムーブメントを起こしている。
(例:Facebookを通じた実名による社会交流の拡大、ネット選挙による政治活動の多様化)
もちろん、日本でもこういうムーブメントは起きている。
しかし、この本ではそれ以上に、日本からスタートした、特有の動きにも注目している。 -
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お庭の話、、なんて思ったらとんでもない!庭はあくまで比喩、メタファーで、
ネットに影響される現代人の存在するプラットフォーム、共同体、孤独、
といったところを鋭くえぐっている。
#3 「庭」の条件に入るまでは、実際の「庭」が人々に与える感覚などを
書いていたが、庭の条件を示したこの一文が、著者の思考の深さを表現している。
本書が「庭」の比喩で考えていくプラットフォームを内包するために必要な環境とは何か。
これまでの議論から浮上するのは、以下の三つの「庭」の条件だ。
第一にまず、「庭」とは人間が人間以外の事物とコミュニケーションを取るための場であり、
第二に「庭」はその人間外の事物同士がコミ -
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小さな物語の時代は決断主義のバトルロワイヤルの時代でもある。その時代を勝ち抜く前提がメタ決断主義とでも言うべき、自分たちを成り立たせているシステムへの自覚的関与だ。
その上で、そこからの解決を、宮藤官九郎は郊外を舞台に「死」を自覚させることで表現した。また、木皿泉は大きな物語は日常に潜む小さな物語を覆い隠していたことを暴露し、物語は与えられるのではなく、見出し、作りゆくことを表した。
また、過剰流動性社会において、大人が出来る事は子どもに特定の価値観を押しつけるのではなく、彼らが生きる環境を整えること、という主張は頷ける(六番目の小夜子、よつばと!)。
ドラマ「ラスト・フレンズ」を高く評 -
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ネタバレSNSの“承認ゲーム”に少し疲れ、でもネットから離れたいわけじゃない——そんな自分に、この本は「庭」という視点をくれました。ここで言う庭は、手放しのユートピアでも“全部コントロールできる私的空間”でもありません。風や虫や雑草のような人間の外部が入り込み、思い通りにならないことを含んだ場です。著者はそこで、能動でも受動でもない中動態の姿勢を勧めます。世界を押し切るのでも流されるのでもなく、「ともに動く」。その構えが、承認の波に即応し続けるSNSのリズムから私たちを救い出す、と。
とりわけ納得したのは、ジル・クレマンの“動いている庭”という比喩です。自然は固定化できない。だから設計は“完成図”で -
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宇野さんとT氏が毎週水曜日にランニングし、瞑想をして暴食に近い外食をする中で問答が行なわれる内容をまとめたエッセイ。ここで紹介される飲食店は、どちらかといえば高カロリーで個人的な趣向とは合わない笑 「神との対話」としての瞑想と、「獣の欲望」として一心不乱に貪る食事という、一見すると相容れない行為を連続させることで精神と本能という二面から人間性を充足させていく。
個人的には宇野さんと同年代であり、高カロリーなものを暴食するには躊躇がある。免罪符のように運動する、飯を抜くといった行為を通じてチートデーを設けるというのは、自分自身もよく実行している。宇野さんは直接の知人であり、著作も何冊か読んでい -
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共同体を作らない、コレク'ティフ'の概念、制作など、それらを繋ぐプラットフォームではなく、庭の概念。
論証という観点では少し荒さも目立つが、現代において非常に重要な問題提起だと思った。
特に個人的には社会の人々を取りこぼさないためには、共同体より、お金を払えば誰でもサービスを受けられることが重要という考え。
生活する上で必要となる静脈的な活動の延長に、都市への庭を園芸すること、それも不完全ながらそれを増やしていくこと。
なんとも心許ないように思える結論だが、むしろいまはそれで十分に思える。
今後の社会を考えていく上で、本書は無視できないだろう。
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宇野さんの新刊エッセイ『ラーメンと瞑想』が面白すぎて一気読みした。
『水曜日は働かない』の続編的な要素もあるエッセイで、水曜日に走り、瞑想し、飯を食べるーーというルーティン中、盟友である編集者と社会文化に関する広範で深い議論を繰り広げる。
読者という視点から2人のやりとりを見ていると、習慣と探求を共有できる友の存在が思索に重層性も持たせてくれるのだと、うらやましくなった。
僕がこの本を読みながら感じざるを得なかったのは、AI時代に人はどう生きるのか、というまあよくあるテーマである。生成AIは急速に人間の労働を代替している。
一瞬そのこと自体に萎縮したり悲観しそうになるが、人間の営みの範 -
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『庭の話』の実践編!?という謳い文句もどこかでみた気がするが、確かに、食べ物だけに純粋に向き合いそれによって自分がどう変わるかという、庭の話の「事物に触れて変身してしまう」ことを扱っている感じ。
ラーメンは獣の世界、瞑想は神の世界と繋がる、そこを行き来するというコンセプトが好き。
純粋に宇野さんと友人Tさんのやりとりが面白い。クスクス笑ってしまう。
本書の最後では、二人が新しいステージに進んでいくという感じで締めくくられるが、この先どうなって行くのかはまた楽しみ。
「都市にはラーメンを食べて死ぬ自由があり、瞑想するための場所がある。」というコピーも秀逸だなと思うし好きだが、しかし一方で、その言