宇野常寛のレビュー一覧
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ネタバレ(印象的な箇所)
<ソーシャルメディア時代のアイドルAKB>
・AKBはマスメディアに頼らず、ソーシャルメディアを駆使して、ファンとアイドルの新しい関係を作った。
・AKBは、おにゃんこやモーニング娘。に似ていると言われるが、ガチの度合いが全然違う。
・おにゃんこもモー娘も、所詮フェイク・ドキュメンタリー。楽屋の生の様子を視聴者に見せているようでいて、製作者側が何を見せるか、繊細にコントロールしていた。
・AKBは、もうフェイクじゃない。ガチの人気競争をファンに見せている。毎日劇場で公演して、女子たちにGoogle+やブログを好き勝手に更新させることで、アイドルの日常をソーシャルメディア上にだだ漏れ状態にしている。
・あとはオタたちが、ソーシャルメディアにその感想を吐き出し、勝手に盛り上がっていく。テレビ前提のアイドルとは、ファンとアイドルの関係性が全く違う。
<米大統領選に近いAKB総選挙の公共性と正当性>
・AKBの総選挙の仕組みはガチだから、正当性の空気、公共性の手ごたえがある。
・総選挙の順位は、夢を持つことの罰、公開処刑である。夢を持っても叶わない、ガチで順位がつく。その残酷さ、ガチっぷりに正当性が生まれる。
・日本の政治には、選挙の正当性も公共性も感じられない。AKBの総選挙はファンの民意の積み上げ。アメリカの大統領選に近いシステム。
<秋元康のビジネスは資本主義を超えるか>
・80年代活躍し、資本主義を超克しようとした思想家、文化人として、柄谷行人、糸井重里、秋元康の3名があげられる。
・柄谷は、資本主義に変わる地域通貨経済や、くじ引きの代表選出を構想したが、こけた。(くじ引き代表選出は、AKBのじゃんけん選抜に似ている)
・糸井重里は、「ほぼ日」で、消費社会に優雅にコミットしつつ、主流のがつがつしたビジネスから距離をおくライフスタイルの変革を実践したが、大きな波及効果はない。
・秋元康には柄谷や糸井のような思想はない。秋元のは単なるビジネスだが、大衆に一番売れており、色々批判されながらも、社会を動かしている。
・良い消費生活のモデルが、資本主義に勝つとする糸井重里「ほぼ日」のコンセプトは、社会の全体的な構造に対する批判力がない。
・対して秋元康は、社会のシステムを直接批判するわけではないが、総選挙、じゃんけん選抜など色々面白い仕掛けを作っていくことで、結果的に「こんな仕組みもありえたのか」というショックを与えている。
・秋元は個人のライフスタイルではなくて、人やお金の集め方、動員のシステムについて、新しいモデルを提示している、しかもあくまで商売として。
・糸井と同じような「良い消費生活」志向の村上春樹も、個人のマインドセットに関心が向きすぎており、オウム事件など前にしても、社会の仕組みを変えていこうという発想に行かない。
・秋元がAKBでやっていることは、資本主義の力を使って、世の中のシステムを自動更新していくモデルに近づいている。これは重要なこと。
(読後の随想)
・秋元康は80年代、テレビ局に散々お金を持っていかれたから、自分のところに利益が残るシステムを作ろうとした。そして、AKBというソーシャルメディアを活用したアイドルが生まれた、というストーリー。
・ソーシャルメディアの時代にアイドルとファンは直に交流する。ネットでもブログや、Google+(AKBファンの間では通称「ぐぐたす」)で直接コミュニケーション。握手会でも直接肌と肌の触れあいコミュニケーション。
・次世代センター最有力候補で、じゃんけん選抜でも偶然なのか何なのか、1位になったぱるるの活躍が気になる。(秋元さんが推したぱるるが、じゃんけん選抜でも1位になり、本当にセンターになってしまう。こうした物語が、ファンの間で更なる二次創作的物語を派生させる。僕がこうして書いたことも、AKBの物語の一部として、ネット上で繁殖する) -
Posted by ブクログ
東日本大震災によって既存の枠組みに対する絶望感が生まれる中、日本人はどこに「希望」を見出したらいいのか?
戦後日本の社会構造、日本におけるインターネットの発達史などを紐解きながら、2010年代の「希望」へとつながる萌芽を探っていく本。
実世界とコンピュータがより密接につながりリアル空間を広げてくれる「拡張現実」という概念は、世界中で着実なムーブメントを起こしている。
(例:Facebookを通じた実名による社会交流の拡大、ネット選挙による政治活動の多様化)
もちろん、日本でもこういうムーブメントは起きている。
しかし、この本ではそれ以上に、日本からスタートした、特有の動きにも注目している。
例えば、
現実のコミュニケーションがその一部をゲーム化する「ソーシャルゲーム」
「繋がりの社会性」的な無内容なコミュニケーションを起点にしたネットワーク
(友人との雑談を重視したmixiやLINE、2chのまとめサイト)
などなど。
欧米では、個々人が相互に自律的に判断する能力を持って「契約」を結ぶ個人像が前提となり、TwitterやFacebookのような個人全面押し出し形、世の中には意味を持たせなければならない、みたいな発想のサービスが発展してきた。
一方、日本ではソーシャルゲーム、mixiやLINEみたいな、個人がそこまで自己主張するわけでもなく、一見すると中身の無いようなサービスが発展している。
でも、そういう無内容に見えるコミュニケーションこそ、日本人の根底に息づくものであり、もし日本に「希望」を見出すなら、むしろそういったところから突破口を広げ、日本らしさに根ざしたムーブメントを起こさなければならない。
…というふうな感想を抱きました。
インターネット普及から2011年までのの日本情勢が簡潔にまとまっており、新しい枠組みを作っていく上でのヒントが詰まっているのではないかと思います。 -
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宇野さんの本、初めて読んだけど面白かった。自分が興味のあることもチラホラキーワードとして出てきて親近感。(庭師、ケア、SNSの課題、流域、民藝、パターンランゲージなど)
読み終わって思うことは今のSNSの承認欲求から、AIの登場により人間が作る楽しみを取り戻し、制作への充足感へと移行することはできるのか?個人的にはそうなってほしい。
庭は比喩的な表現で、自然と人間の手が入っていて、かつ社会に半分開かれていて、半分は家であるという空間的な在り方がいいバランスなのではないか、という提案だったのだと思う。
ちょっと難しい内容なので、もう1度ゆっくり読み直してみたいけど、その前に宇野さんの他の本も読みたい。 -
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私の考えるこの本の面白さは、著者の偏った認知にある。
具体的には、①SNSの承認交換的な一面を過剰に重視してその利用者をタイムラインの潮目を読む存在であると捉えている点、②共同体に対する執拗とも言える警戒心を抱いている点、の2点である。
一般に偏りは良くないものだと思われている。しかし、深い分析を行うためには執着が必要で、執着は偏りがなければ生じない。
実際この本では、SNSがその本質に持つ承認交換的なコミュニケーションを促す構造と、個人(特に社会的弱者)を抑圧する共同体の問題点に対する鋭く緻密な分析という形で著者の偏りが良い方向に働いている。
タイトルにある「庭」とは、共同体に頼らずにSNSプラットフォームの強い力に対抗する方法を模索する中で答えとして提示されるものであり、承認や評価とは無関係に個人としてその存在を認められる場とされている。
この「庭」の考えも、著者の過剰なまでの共同体嫌悪がなければ生まれなかったであろう概念であり、極めて興味深い内容だった。
だが12章以降は著者の偏りの要素が薄くなるためか、私自身にとってはあまり面白くなかった。
それまでの章では、共同体のもとで抑圧され取り残されてしまう、社会的弱者や所謂コミュ障的な人間の視点が過剰なまでに重視されていた。
しかし、12章以降でプラットフォームへの対抗策として提示される、「弱い自立」や「制作」はそれまでの共同体批判の語り口とは異なり、弱者へのきめ細やかな視線がなくなっており、「anywhere」の範囲を広げる程度の効果しか持たないと感じられた(この限界についての言及はあるため、著者も認識していると思われる)
左派や共同体主義者等への嫌悪感を感じられる部分がたまに見受けられ、その時には少し極端な論調となるが、そこも含めて著者の感性がよく表れており、刺激的な読書体験となった。 -
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ビッグテックが設計・管理する中での相互承認ゲームが既に中動態的な世界になっているという主張はとても面白く、人間以外の事物との関わりが処方箋になるという主張や、共同体に満たないが集まる場の大切さといったところには共感でき、「遅いインターネット」の時より思想がかなりアップデートされていると感じた。
他方で、「庭」的なものとして「戦争」を持ち出しているところは、「戦争」があくまでも人為的なものであるという点で却ってプラットフォームとの差異が曖昧になってしまうと思った。プラットフォームのルール変更等はSOMEWHEREな人々にとって抵抗不可能な事象とは言えないか。それならばプラットフォームと庭を分けるものは何か、ここは本書の中に答えは明確でないように思う。
あと全体的に対立構造を用いながら、いずれでもない存在を捨象しがちなのも気になる。これは「遅いインターネット」と同じ弱点。
とはいえ「では君はどう考える?」と言われるようで、自分なりの思索が膨らむ点で良い本だと思う。 -
Posted by ブクログ
個人的には宇野常寛という作家がやっと好きになれるきっかけを得られた一作で、宇野常寛本の中では最も良かった。『庭の話』以降の思想の展開であるが、『庭の話』本体よりも思考が肉を持って踊るような感触があった(その奇妙な論理展開と相俟って、シュヴァンクマイエル〔ルナシー』の肉踊りのような感触でもあるが)。
また、読み手の側にたまたま合気道経験があるため、友人の編集者Tが頻繁に言及する合気道的な発想が気になった。
エッセイを通じて押井守の『紅い眼鏡』ほかの立喰師的なドラマを確立した一作と感じる。ケイスがジャックインに用いたワイヤがラーメンの麺に変わっている。ラーメン・パンク? -
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『庭』は単なる庭ではなく、自分で手をかけ、時間をかけて育てる小さな世界の比喩だ。
SNSのように反応や評価を求める「広場」と対照的に、誰かに見せるためではなく、自分が責任を持って育てる場所。そこから世界との関係を考え直そう、という提案である。
「世界を変える」よりも、まず自分が関われる小さな場所を丁寧につくる。その考え方が、今の自分にはしっくりきた。
本書では、この「庭」という概念から、情報社会や民主主義、教育など多岐にわたる提案がなされている。それでも私の中に一番残ったのは、この考え方だった。
庭とは、自分が責任を持って関われる小さな世界。それでいて、すべてを思い通りにはできず、変化や偶然も受け入れる場所。その「手をかけるが、支配はしない」という距離感が、とても心地よく感じられた。 -
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「庭の話」→本書の順で読んだため、ある意味著者の思考の遍歴を辿る形となった。最終的な「庭」という、孤独とコミュニケーションのための場を作るための方法が述べられる。「庭」の重要性は、「アラビアのロレンス」「村上春樹」を通して語られる。プラットフォームや共同体から降り、自身の庭を作ること、それがこの相互承認のゲームで支配された現代を相対的に見るための眼を構築できる。
難しいと感じるのは、この「庭」を自身の承認欲求のためのツールとして使用してしまうことを如何に防ぐかという点である。そのためには「弱い承認」が継続される、つまりは緩やかに承認し続ける必要がありそうだが、まずは庭造り、というのが本書なのであろう。本質的な話は「庭の話」に記載されている。 -
Posted by ブクログ
お庭の話、、なんて思ったらとんでもない!庭はあくまで比喩、メタファーで、
ネットに影響される現代人の存在するプラットフォーム、共同体、孤独、
といったところを鋭くえぐっている。
#3 「庭」の条件に入るまでは、実際の「庭」が人々に与える感覚などを
書いていたが、庭の条件を示したこの一文が、著者の思考の深さを表現している。
本書が「庭」の比喩で考えていくプラットフォームを内包するために必要な環境とは何か。
これまでの議論から浮上するのは、以下の三つの「庭」の条件だ。
第一にまず、「庭」とは人間が人間以外の事物とコミュニケーションを取るための場であり、
第二に「庭」はその人間外の事物同士がコミュニケーションを取り、外部に開かれた生態系を
構築している場所でなくてはいけない。
そして第三に、人間がその生態系に関与できること/
しかし、完全に支配することはできない場所である必要がある。
とても消化しきれない。能力が足りない。しかし、著者は手を差し伸べてくれる。國分功一郎の中動態が出てくる。美味しんぼと孤独のグルメも出てくる。秋葉原の殺人事件も出てくる。加藤は孤独でなかったからあの犯行に至った、、ううう
SNSのプラットフォームと銭湯を対比している。
Xなどのプラットフォームは民間が作った共同体、庭。
ルールがある、それに従わないと居づらくなる。
銭湯は「よく知らないけど身近な他者がありのままの姿で存在してる」
自己を肯定するのでなく、受容している。
うーん、なんとなくわかってきたような、、
プラットフォームは人をはじく、庭は孤独でも居られる。
今の世の中プラットフォームだらけ。孤独でいることが悪のよう。
孤独でいることを許容する庭の存在価値を見直そう、ってとこなのかなあ。
もーっとじっくり読むべきなんだろうなあ、、、
#1 プラットフォームから「庭」へ
#2 「動いている庭」と多自然ガーデニング
#3 「庭」の条件
#4 「ムジナの庭」と事物のコレクティフ
#5 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ
#6 「浪費」から「制作」へ
#7 すでに回復されている「中動態の世界」
#8 「家」から「庭」へ
#9 孤独について
#10 コモンズから(プラットフォームではなく)「庭」へ
#11 戦争と一人の女、疫病と一人の男
#12 弱い自立
#13 消費から制作へ
#14 「庭の条件」から「人間の条件」へ -
Posted by ブクログ
小さな物語の時代は決断主義のバトルロワイヤルの時代でもある。その時代を勝ち抜く前提がメタ決断主義とでも言うべき、自分たちを成り立たせているシステムへの自覚的関与だ。
その上で、そこからの解決を、宮藤官九郎は郊外を舞台に「死」を自覚させることで表現した。また、木皿泉は大きな物語は日常に潜む小さな物語を覆い隠していたことを暴露し、物語は与えられるのではなく、見出し、作りゆくことを表した。
また、過剰流動性社会において、大人が出来る事は子どもに特定の価値観を押しつけるのではなく、彼らが生きる環境を整えること、という主張は頷ける(六番目の小夜子、よつばと!)。
ドラマ「ラスト・フレンズ」を高く評価、分析している。
2025年の政治状況はまさにバトルロワイヤルの様相。その中でチームみらい的なものが生き残る余地はあるのか?そんなことを思いながら読み終えた。