宇野常寛のレビュー一覧
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大きく分けて、
70年代 「大きな物語」に支えられた時代
80年代 「大きな物語」の喪失後も好景気でそれが見えなかった時代
90年代 「物はあるが物語がない」価値観の宙ずりの時代
00年代 究極的には無根拠なのだから決断主義的に「信じたいものを信じる」時代
00年代後半 決断主義が孕む暴力性の克服を模索
という流れになっている。
主に90年代の引きこもりから00年代の決断主義(引きこもっていたら殺される)への変化を当時のアニメを通じて浮かび上がらせている。
自分はおたく、もしくは引きこもりの体質のある人にとっては、それを社会に還元できるのではないかという希望を持たされるだろう。それと同時に、結局は何を信じるかは究極的には無根拠であると放り出され、「open the door」して他者とコミュニケーションをとろう!と突き落とされる。もっともそれができれば苦労はないが。
シンエヴァを見て最後には「大人になれ」と放り出される感じと似ている笑
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【総当たりからの切り結び】「大きな物語」の終焉からの「セカイ系」を経て、バトル・ロワイヤル型の社会の向こうに位置する想像力を模索することを試みた批評作品。多彩なメディア作品を読み解きながら、2000年代とその次の時代はいかなるものかを検討していきます。著者は、『PLANETS』の編集長を務める宇野常寛。
本当に久しぶりに批評と呼ばれるジャンルの作品を手にしたのですが、非常に刺激的な読書体験となりました。本書に寄せられる批判をも含む形で、頭を一度ぐにゃぐにゃにして物事を捉え直すことができる一冊だと思います。
〜ゼロ年代も終わりに近づいた現在、「成熟」とはコミュニケーション、他者と手を取り合う能力であるとする想像力が生まれている。自分とは異なる物語を生き、異なる超越性を信じる他者と関係を結ぶことこそが、現代における「変身」であり、「成熟」なのだ。〜
『リトル・ピープルの時代』も読んでみようかな☆5つ -
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宇野さん・濱野さんがこれまで主張してきたことの再録+α版。1章は原発の議論+『リトルピープルの時代』を基にした宇野さんパート。2章は濱野さんによる情報社会論の捉え直し。個人的にはここが胸熱。濱野さんがなんで『アーキテクチャの生態系』で日本社会論にこだわったのか。それは日本的な(ひろゆき的な)ネット空間を分析しなければ、日本独自の「フロンティア」が見えないから。このパート、普通に情報社会論の基礎的な流れの確認としても読めるし、そこに+αで濱野流の情報社会論の日本的な捉え直しもあって熱い。「梅田望夫的(アメリカ的)」と「ひろゆき的(日本的)」という括りは実感としてはすごく納得で、日本の土壌を受け入れた上で外発的にではなく、内発的に(宇野の言葉だとハッキングで)変えていくしかない。
ただ疑問もある。日本的、ガラパゴス的、匿名的ネット空間に可能性がある―というのはどうしてなのか。確かに、日本のネット文化・土壌を受け入れた上で希望を語る、議論を展開していくしかない―というのはわかる。でも、日本的な環境「だからこそ」希望がある、というのはどうしてなのか。もう少し言及がほしい。
そして、この本にある最大の問題。果たして、この本に収められている言葉は、どこに届いているのだろうか。ハイコンテクストで、これまでに思想の言葉に触れていなければ、いやむしろ具体的に『リトルピープルの時代』『アーキテクチャの生態系』を読んでいなければ、はっきり言ってわからない議論だったのは間違いないと思う。この本を市場に放り投げた時、購入者は思想地図界隈を好む読者に限られるだろうし、例え「誤配」が起こって他の読者に読まれたとしても、おそらく宇野さん・濱野さんの言葉はその読者には届かない。排除されてしまうはず。
思想地図界隈のマーケットなんて(東さんが前にLife現代思想の回で言っていたけど)せいぜい3万人くらい。多く見積もっても数万人程度。そこへ向けたところで、規模は果てしなく小さい。
宇野さん・濱野さんの議論が悪いというわけじゃない。むしろ、抜群に本質的でクリティカル。だからこそ、その議論は多くの人に届けるべきだし、その届ける努力がみられなかったのはもったいない。徹底的につけられた注釈そのものがハイコンテクストで、思想地図界隈の「外側」にいる読者には絶対にわからない。そのあたりの「議論」ではなく「姿勢」(思想系の言葉でいうならば、コンスタンティブではなくパフォーマティブな側面)について2人はどう考えているのだろうか。
また、議論が極めてレトリカルだったのも気になる。いや別にレトリックを用いることは悪い事じゃない。問題は議論が具体例に落とし込まれたとき、途端に弱くなることだ。おわりに濱野さんが「その具体的な提言となると、稚拙さも目につくものだろう」と告白しているように、抽象的なレベルにとどまっているという指摘は回避できないはず。その意味において宇野さんがいう「文芸評論家だから」というロジックは言い訳にしかならない。だからこそ、具体的な構想をレトリックで片づけるのではなく、現実の実務的な、届く言葉で方てほしかったし、語るべきだと思う。そのあたり、多分宇野さんも濱野さんも自覚していると思うし、今後のポイントなんじゃないかなと思う。 -
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おもしろかった!いろいろなことに輪郭が浮かび、名前が付いていくような快感。なんで「オタク」系ゲームは心地よく、同時に薄ら寒く感じるのか。メタ視点はなぜ採用されるのか。
あとおもしろいおもちゃ貰っちゃったなーって感じも強い。この本であまり言及されない初音ミクやフェイスブック、最近の半沢直樹の爆発的ヒット、あとはここではある程度所与とされてる「承認」てのはつまりなんなのか。考えたいことがたくさんできたなぁ。
個人的な話になるけど、大学時代に教わったあの先生とか、会社の先輩のあの人とか、この本に影響されてそうな人が何人か思い浮かぶのが面白い。たぶん僕も相当に影響をうけるんだろうな笑。 -
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ネタバレエヴァンゲリオンについての評論がいちばん興味深かった。これまでのエヴァについて“「つながり」の手段が変化する一瞬、それが見えなくなった瞬間の不安を敏感にとらえた“という指摘には目から鱗が落ちた。
また、賛否両論を引き起こした「Q」については“積極的かつ的確に「現代」を切り取ろうとしている”と位置づけ、旧エヴァを引き合いに出しながら「Q」の物語の本質に迫ろうとしている。
人類補完計画と、昨今のソーシャルメディアの発達を重ね合わせることはおそらく妥当であろう。そしてネルフとヴィレの対立を、近代とポストモダン、古い男性社会と新しい女性社会に読みかえたのもしっくりきた。(恥ずかしながら、自分は「Q」の超展開についていくのがやっとで、そこまで深く考察できなかった)
確かに「Q」には古い時代の悲鳴しかなく、新しい何かを提示しきれてはいない。「序」「破」が二次創作の域を超えていないというのもその通りだ。
だが、「破」における綾波の大きな変化や、「Q」のラストにおける、シンジとアスカと綾波が三人で歩きだす場面に、うまく言葉にできない新しい何かを感じた自分がいたのも確かだ。単なるキャラクターへの愛着以上のものがそこにはあった。
僕はこう思う。
新「ヱヴァ」と旧「エヴァ」はやはり一続きの物語なんだと。“「つながり」の手段が変化する一瞬、それが見えなくなった瞬間の不安”という過渡期における特殊な状況を表現したことがこの作品の最大の意義だと総括してしまうのは、全然しっくりいかない。
エヴァはまだ、90年代後半の、日本の特異点(しかも歴史的にかなり大きな意味を持つ転換点)の意味を完全に総括しきれていないのではないのだろうか。あの作品が本当に伝えたいことは、ソーシャルメディア隆盛直前のあの時期ではなく、人類補完計画がカジュアルに達成されてしまった今だからこそ有効性を持つのではないだろうか。
つまり、つながる理由がなくなって(=社会的な要請が薄まって)、つながる手段も提示されない(=ツールを持っていない)という状況は、日本の歴史の中で見れば特殊かもしれないが、人間が陥る状況として置き換えてみると、普遍性を持つ。
それは言葉で表すならば、宙ぶらりんであり、自由であり、フラットな孤独だ。
言語やコンピューターがいかに発達しようと、僕たちは常に「フラットな孤独」に陥る可能性から逃れることはできない。これまでも、おそらくこれからもずっと。そこでいかに「手をつなぐか」という問いは、まだまだ考える価値のあるものではないだろうか。 -
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ネタバレタイトルの通りゼロ年代の想像力を中心に90年代くらいからの想像力の変遷を、アニメや漫画、ドラマ、映画、文学などから幅広く析出している。
セカイ系、引きこもり/心理主義、行為ではなく設定でのアイデンティティ承認、サヴァイブ系、ゆるやかな共同体、終わりある日常、母性のディストピア、環境整備を担う大人。
自分に身近なテクストが分析の俎上にあげられており、読みやすく興味深く読み進められた。各章のテーマが明確であったこと、何度も主張が繰り返されることも読みやすさの要因でもあった。
想起したのは東浩紀氏、大澤真幸氏(本書にも言及あり)
次はLPの時代を読もう。 -
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ネタバレ「自己承認なんてものは、もはや断片的で確率的なものでしかあり得ない」
失われた10年だったのがいつの間にか20年になって、僕たちが青春を過ごした時代が無意味だったかのようなことを言われちゃって、それを聞く僕たちも、何となくそんな気分になっていたけど、それに異を唱える人がいる。そのうちの二人が著者。何反省しちゃってるんだふざけるなと。
おっちゃんたちが見ていた世界は確かに停滞の時代だったかもしれないけれど、オッチャン達が見ていなくて僕たちが見ていた世界では時代は確実に進んでいる。僕たちの青春時代は決して反省の対象にされるものではないのだと。著者は、着実に発達してきた自由の拡大を、最大元に享受して発言を続けている。
自由の拡大という進歩と、superflatからcooljapanへと流れる日本文化の肯定感(ちょっと狙いが違うけど)この2つを利用して、日本にドメスティックな希望を見いだす。だから希望論。
同世代の人が本気でそう考え実行しているのは題名のとおり希望になる。素直に未来に対するワクワクした期待感がもてたことが嬉しい。
他には、共同体についての議論が結構あるけど、Facebookとかシェアハウスとかを見ると、確かに断片的な自己承認の詰め合わせで承認欲求を満たそうとしている私たちがいて、そこに僕もいる。そしてその欲求が決して満たされる事はないからこそ、流動的にならざるを得ないという面がある。
これは善し悪しのもんだいではなく、受け入れざるを得ないものなのかもしれない。 -
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気になった論点とかをノートにまとめていたら4ページにもなりました。本当は皆さんにも本書を読んでもらうのが一番なんですけど、宣伝も兼ねてその中のいくつかを紹介します。
1.「ゆきりんに居場所がない」問題。優子→あっちゃんのいないAKBを守るという物語。まゆゆ→次世代センターの本命。ゆきりん→前田政権での有力閣僚だったけどナンバー2ではないので後継者にはなれない。
2.大島優子には「嫌われる才能」がない。アンチがいるからスターが生まれる。あっちゃんと違い、優子にはアンチがほとんどいない。
3.よしりん「AKBの選挙には同情票が膨大にある。単なる美少女コンテストで票を入れていない」
4.総選挙という名の公開処刑。中森「なぜ彼女たちは裁判にかけられ、国民の前で公開処刑されるのか。これはある意味、罰を受けているんです。何についての罪を問われているかといえば、それは「夢」を持つことに対する罰だと思う」
5.よしりん「あっちゃんや優子は家族の茶の間に入れる。お父さんもお母さんも子供も好きになれる。大衆化できる存在。珠理奈や玲奈は、まだオタクのアイドル。家庭に入り込めるようにならないとセンターで引っ張ることはできないと思う」(「茶の間に入れる」という言葉を見て、僕の頭にはももちこと嗣永桃子さんの姿が思い浮かびました。)
6.中森「この選挙は野蛮だから不条理なものが残る。ゆきりんが悪い理由はない」
7.現実の選挙は「チルドレン選挙」。個人を見ていない。金で買える票の方がピュアな本気が込められている。
8.公共性。日本中の何万人ものAKBファンの投票で決まったならどんな結果であっても受け入れなければならないという感覚が共有されていた。自分がそこに参加したというたしかな手応えがあるから納得できる。日本の政治にはこの正当性の空気、公共性の手応えがない。
9.AKBの成立にはブログ等のソーシャルメディアの存在が大きな役割を果たしてきた。むしろ最初の数年間はテレビのようなマスメディアとはある程度の距離を置いてきた。
10.AKBの多様性。麻里子さまとみおりんのファンの間には「女の子の趣味」という面で共有できるものはほとんどない。
11.インターネットの定着は「情報」の性質を変えた。「ただ受け取る」から「自分でも発信する」へ。完成品を受け取ってただ消費するだけの快楽しか提供しないものでは消費者にアピールするのは難しくなっていく。
12.テキスト、音楽など原則的にコピー可能なコンテンツ(情報)そのものに人はお金を払う価値を感じにくい。人は入れ替え不可能なものに対して相対的な価値を認めやすい。AKBはコンテンツではなく、コミュニケーションを売っている。
13.コンテンツ自体ではなく、それを媒介としたコミュニケーションこそが価値を帯びる。AKBには握手会や総選挙など、「参加する快楽」がある。
14.今はみんな将来が不安だから自分の生活で精一杯。だからこそ自分の利害関係とは離れたところで誰かを「推す」ことが心の支えになる。アイドルオタクにCDを大量に買わせる資本主義の権化みたいな「搾取」のシステムがむしろ「共同体」を生み出している。
15.中森「『ロミオとジュリエット』もそうだけど、絶対的なタブーを破ることこそ真の純愛であり、恋愛は感動的になる。恋愛可能性の過剰と恋愛禁止の厳格化。ダブルバインド」