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日本の現在に切り込む、若き俊英の徹底討論! 震災が露呈させたものとは何か? 情報社会とサブカルチャーの戦後から最先端までをふまえ、日常と非日常が交差する日本社会の現在を徹底分析する。戦後からポスト戦後への変化を理解するヒントは、「仮想現実から拡張現実へ」というトレンドのなかにあった。震災からの復興が叫ばれる今日、ありうべき日本の未来を探るため、この時代の「希望」と「絶望」を問い直す。今もっとも注目される新世代の論客二人による迫真の対話!
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Posted by ブクログ
宇野さん・濱野さんがこれまで主張してきたことの再録+α版。1章は原発の議論+『リトルピープルの時代』を基にした宇野さんパート。2章は濱野さんによる情報社会論の捉え直し。個人的にはここが胸熱。濱野さんがなんで『アーキテクチャの生態系』で日本社会論にこだわったのか。それは日本的な(ひろゆき的な)ネット空...続きを読む間を分析しなければ、日本独自の「フロンティア」が見えないから。このパート、普通に情報社会論の基礎的な流れの確認としても読めるし、そこに+αで濱野流の情報社会論の日本的な捉え直しもあって熱い。「梅田望夫的(アメリカ的)」と「ひろゆき的(日本的)」という括りは実感としてはすごく納得で、日本の土壌を受け入れた上で外発的にではなく、内発的に(宇野の言葉だとハッキングで)変えていくしかない。 ただ疑問もある。日本的、ガラパゴス的、匿名的ネット空間に可能性がある―というのはどうしてなのか。確かに、日本のネット文化・土壌を受け入れた上で希望を語る、議論を展開していくしかない―というのはわかる。でも、日本的な環境「だからこそ」希望がある、というのはどうしてなのか。もう少し言及がほしい。 そして、この本にある最大の問題。果たして、この本に収められている言葉は、どこに届いているのだろうか。ハイコンテクストで、これまでに思想の言葉に触れていなければ、いやむしろ具体的に『リトルピープルの時代』『アーキテクチャの生態系』を読んでいなければ、はっきり言ってわからない議論だったのは間違いないと思う。この本を市場に放り投げた時、購入者は思想地図界隈を好む読者に限られるだろうし、例え「誤配」が起こって他の読者に読まれたとしても、おそらく宇野さん・濱野さんの言葉はその読者には届かない。排除されてしまうはず。 思想地図界隈のマーケットなんて(東さんが前にLife現代思想の回で言っていたけど)せいぜい3万人くらい。多く見積もっても数万人程度。そこへ向けたところで、規模は果てしなく小さい。 宇野さん・濱野さんの議論が悪いというわけじゃない。むしろ、抜群に本質的でクリティカル。だからこそ、その議論は多くの人に届けるべきだし、その届ける努力がみられなかったのはもったいない。徹底的につけられた注釈そのものがハイコンテクストで、思想地図界隈の「外側」にいる読者には絶対にわからない。そのあたりの「議論」ではなく「姿勢」(思想系の言葉でいうならば、コンスタンティブではなくパフォーマティブな側面)について2人はどう考えているのだろうか。 また、議論が極めてレトリカルだったのも気になる。いや別にレトリックを用いることは悪い事じゃない。問題は議論が具体例に落とし込まれたとき、途端に弱くなることだ。おわりに濱野さんが「その具体的な提言となると、稚拙さも目につくものだろう」と告白しているように、抽象的なレベルにとどまっているという指摘は回避できないはず。その意味において宇野さんがいう「文芸評論家だから」というロジックは言い訳にしかならない。だからこそ、具体的な構想をレトリックで片づけるのではなく、現実の実務的な、届く言葉で方てほしかったし、語るべきだと思う。そのあたり、多分宇野さんも濱野さんも自覚していると思うし、今後のポイントなんじゃないかなと思う。
東日本大震災によって既存の枠組みに対する絶望感が生まれる中、日本人はどこに「希望」を見出したらいいのか? 戦後日本の社会構造、日本におけるインターネットの発達史などを紐解きながら、2010年代の「希望」へとつながる萌芽を探っていく本。 実世界とコンピュータがより密接につながりリアル空間を広げてくれ...続きを読むる「拡張現実」という概念は、世界中で着実なムーブメントを起こしている。 (例:Facebookを通じた実名による社会交流の拡大、ネット選挙による政治活動の多様化) もちろん、日本でもこういうムーブメントは起きている。 しかし、この本ではそれ以上に、日本からスタートした、特有の動きにも注目している。 例えば、 現実のコミュニケーションがその一部をゲーム化する「ソーシャルゲーム」 「繋がりの社会性」的な無内容なコミュニケーションを起点にしたネットワーク (友人との雑談を重視したmixiやLINE、2chのまとめサイト) などなど。 欧米では、個々人が相互に自律的に判断する能力を持って「契約」を結ぶ個人像が前提となり、TwitterやFacebookのような個人全面押し出し形、世の中には意味を持たせなければならない、みたいな発想のサービスが発展してきた。 一方、日本ではソーシャルゲーム、mixiやLINEみたいな、個人がそこまで自己主張するわけでもなく、一見すると中身の無いようなサービスが発展している。 でも、そういう無内容に見えるコミュニケーションこそ、日本人の根底に息づくものであり、もし日本に「希望」を見出すなら、むしろそういったところから突破口を広げ、日本らしさに根ざしたムーブメントを起こさなければならない。 …というふうな感想を抱きました。 インターネット普及から2011年までのの日本情勢が簡潔にまとまっており、新しい枠組みを作っていく上でのヒントが詰まっているのではないかと思います。
今までの社会構造の矛盾や限界に対して、大変共感できる整理と今後の方向性を打ち出している事に感銘を受けた。この考え方に立った何らかの試みを実現したいと思う。
いやー、面白かった。特に第Ⅲ章「希望」を考えるはすごくなるほどと。目指すべき方向性は全く同感。私ももっと勉強せねば。
対談は良い。その人がいま考えていることの「原石」が直接提示される。本書のそれは、非常に目映い。本書が語るのはお定まりの「希望」そのものではなく、個々人が自分の間尺にあった「希望」を探すための基本戦略であり、そのために「現代という時代をどのように位置づけるか」という問いが、くり返し問い直されている。 ...続きを読む 見田宗介による戦後史の区分(「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」)を受けて、大澤真幸は現代(1995年以降)を「不可能性の時代」と呼び、東浩紀は「動物化するポストモダン」と呼んだ。宇野氏は両者を止揚するかたちで「拡張現実の時代」と言う。このアイデアには正直痺れた。 《ここで言う拡張現実的なものとは現実と虚構の混在、現実の一部が虚構化することで拡張〔多重化〕することです。それは言い換えれば日常と非日常の混在でもある。〔…〕インターネットは現実のコミュニケーションを「拡張」 する方向にしか作用していない。〔…〕…〈ここではない、どこか〉を仮構するのではなく〈いま、ここ〉を多重化する方向へと虚構に求める欲望が変化している。〔…〕…虚構(ゲー ム)と現実(社会関係)がここでは入れ子状に絡まり合って現実を拡張していると言える》[宇野、p40-41]。 現代が「拡張現実の時代」と位置づけられるならば、もはや、大きな「父」の代弁者として「ここにない希望(理想)」を語る言葉には意味がない。あるいは、「父」への抵抗として「ここにない希望(虚構)」を弄んでみても欺瞞的なだけだ。《グローバル資本主義下、ネットワーク社会下においては誰もがただ存在するだけで〔否応なく〕貨幣と情報を通じて小さな決定者であり発信者、つまり小さな「父」として機能してしまう》[宇野、p206]。《もはや僕ら一人一人が経済主体であり、メディアであるこの時代に、〔エルサレム賞受賞スピーチでの村上春樹のように〕「自分は卵の側である」と断言することは非常に危険だと思う。誰もが「壁でもあり卵でもある」世界をとらえ、変えていく言葉が僕は必要だと思うんです》[宇野、p31]。 そうした《誰もが「壁でもあり卵でもある」世界をとらえ、変えていく言葉》として両氏がキーワードとして挙げるのが「ゲーミフィケーション」であり、これは「希望」を創るための基本戦略として非常に説得力がある。 《要するに現実は「クソゲー」すぎるんだ、ということなんですね。〔…〕それなら現実のほうをゲーム化し、ハマりやすいかたちに〔ボトムアップ的に〕かえればいいんじゃないか、と。もはや政治的なイデオロギーや美しい理念だけで人は動かないのだとすれば、ゲームこそが社会運動の原動力となる》[宇野、p194]。 以上が本書の骨格であり、これらアイデアが「原石」状態で提示された本書は、最近の両氏の著作の中で群をぬいて刺激的だ。逆にいえば、本書のアイデアの展開版であるはずの両氏のAKB48論や『リトルピープルの時代』がなぜ面白くないのか、考えこんでしまう(端的に言って、貴重な「原石」を磨くための材料を間違えてしまっているのでは?と思う)。 とにかく、本書が「2010年代(と言うより、1990年代以降)の文化と社会」を読み解く際に(その賛否は別として)無視することのできない一冊であるのは間違いない。 読んで本当に良かったと思えた本の一つ。 (追記) …と、偉そうに書いてみたものの、この本で個人的に一番印象に残ったのは、じつは宇野氏の「まえがき」での言葉でした。《京都は、いい街だった。いまでも三日に一度くらい「帰りたい」と思う。〔…〕僕はこの好きな街から離れたくなくて、ここでのんびり暮らすつもりだった》[p8]。自分も数年前までまったく同じことを書いていて、今もそう思っています。この一言でこの人に問答無用の親近感を感じました。いつまでも、三日に一度くらい「帰りたい」と思う場所を抱えながら、自分も此処で生きていきたい。そう思いました。
理想の時代→虚構の時代ときて、拡張現実の時代にさしかかってる今、新たなサービスや文化がどんどん生まれてきて、そんな中でどのように生活していくのか興味深いと思った。 <いま、ここ>の現実を多重化する、ゲーム化、聖地巡礼など遊びや文化にはハッキリ見られるようになってきたが、その他に社会にどのような変化...続きを読むがうまれてくるか、楽しみ。 また、現代において自己承認が「個人individual」じゃなく、「分人dividual」断片的で確率的なものでしかあり得なくなったというのも興味深い。その時代に合った自分を作ってゆて、悩みすぎず生きやすく生活した方が良いのだなぁと思った。
現実はクソゲーすぎるんだ(p.194) どうせ日本人がなかなか集団主義的な心の習慣から脱却できないのなら、むしろそれを前提にして制度設計をしていくしかないんじゃないの(p.179) あと、イジメは固定的集団で起きる。コミュニティを流動的にして、それに対するマナーのリテラシーを学ばせるべき。って3つが...続きを読む共感できた。私にとってはちゃんと希望論やった。
まず宇野常寛も嫌がっていたとおり、 タイトルは失敗だったと思う。 悪い部分をあげつらうよりも、 良い部分を数えた方が建設的であるのは当然だろう。 しかし、 それを「希望」というワードに閉じ込めた瞬間に、 意味合いがずれてきてしまうように思う。 これでは凡百の「希望」話と同じ読まれ方をさ...続きを読むれてしまうのではないかな。 要するに、 「あー例の希望話ね。はいはい」という風に、 読者の姿勢を読む前に限定してしまい、 書かれていることをミスリードする危険がある(これ自体がミスリードかもわからんが)。 せっかくいいこと書いてあるんだから勿体ないと思う。 特に日本のITは萌芽の時から「ひろゆき的」なのだ(キリッ)、 という説明はかなり興味深い考察だった。 つまり日本のネット技術は、 最初からコミュニケーションのために発達したものだということである。 だからニコニコ動画や2ちゃんねるが流行るのは、 むしろ日本のIT業界においては当然の出来事で、 議論し合う場としての梅田望夫的なweb概念というものは傍流でしかない。 だとしたら、 「日本的なるもの」を肯定的に捉え直し、 日本と海外の「モード」の違いを理解して、 それをどう上手くコントロールしていく仕組みを設定するかが大切なのである。 そうした未来のビジョンが「母」的な社会というのはすごく賛成。 しかしながら、 なんとなく彼らの言説には、 決定的な足腰の弱さを感じてしまうんだな。 なんでだろ。
90年代半ばの思想シーンを駆け足で振り返りながら、震災以後の日本のありかたを批評・思想の面から検討。 ソーシャルネットワークの可能性や、日本型のコンテンツ生産・消費、あるいはコミュニティーのあり方など、東浩紀が「思想地図」でこれまで検討してきた内容を踏まえた議論が行われる。 少ないページ数で幅広い...続きを読む議論が行われて、現状の見取り図としてはとてもわかりやすいものになっている。 ただ、この本のテーマである「希望」への提示についてはまだ弱いという印象。「思想地図」で提示された内容にかぶるところが多い。独自の提示の部分は、東浩紀にツイッターでボロクソ言われていたけれど、それもしかたないと思えてしまう程度にまだまだ練られていない。ブレストとしてはいいのだろうが、「希望論」と言えるところまでもっていくにはもう少しといったところか。
宇野常寛と濱野知史の対談本です。 ハーバーマス的な「公共性」がこの国に欠如していることを嘆くのではなく、現代日本のネット空間に広がっている「繋がりの社会性」を認めた上で、そこからどのような制度設計が可能なのかを検討することこそが「希望」につながるというメッセージが発信されています。 情報社会論を...続きを読む専門とする濱野は、アメリカにおけるネット文化が「国家対市民」という対立構図の中で育まれてきたのに対して、村井純に始まる日本のネット文化は、コミュニケーションの内容よりもコミュニケーションそれ自体を目的とする、北田暁大のいう「繋がりの社会性」を実現するために発展してきたことを解説しています。そうした「繋がりの社会性」が、「2ちゃんねる」や「ニコニコ動画」といった、生産者と消費者が融合した「プロシューマー」的なコンテンツを生み出してきたことに、積極的な意義を見るべきだと主張します。 梅田望夫の主張するような、主体的な個人がネットを通じて意見を発信することで形成されるコミュニティを理想視し、「2ちゃんねる」のような「繋がりの社会性」を貶める二項対立的な図式をズラそうとする著者たちの意図はそれなりに理解できるのですが、ハーバーマス的な「公共性」に見切りをつけることができずにいる者としては、「希望」といっても甚だ景気の悪い話しかないじゃないか、と感じてしまいます。 たとえば宇野が、ネット文化における偽史的な想像力に期待を語っているのを見ると、そういう想像力は容易に囲い込まれてしまうのではないか、と反射的に思ってしまいますし、また望田の技術決定論を批判しているのを見ると、そういえば技術決定論批判の大御所はカール・シュミットだったのではないか(そういえば宇野は「決断主義」者でした)、といったようなことが思い浮かんでしまうのですが、そういう私のような読者にとっては、両者の語る内容は刺激的ではないかと思います。
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