濱野智史の一覧
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1989年に始まった平成時代は、30年後の2019年に幕を閉じた。本書は平成が終わり、令和が始まった2019年に、平成史を書くという試みのもとに編まれた本である。編者は小熊英二、それ以外に7人の執筆者が参加している。最初に小熊英二が、「総説」を書き、以降、政治・経済・地方と中央・社会保障・教育・情報
...続きを読む化・外国人/移民・国際環境とナショナリズムというテーマで、それぞれの専門家が執筆している。
小熊英二は、「総説」の中で、平成について下記のように述べている。
【引用】
「平成」とは、1975年前後に確立した日本型工業社会が機能不全になるなかで、状況認識と価値観の転換を拒み、問題の「先延ばし」のために補助金と努力を費やしてきた時代であった。
この時期に行われた政策は、真摯な試みはあったものの、結果的にはその多くが、日本型工業社会の応急修理的な対応に終始した。問題の認識を誤り、外圧に押され、旧時代のコンセプトの政策で逆効果をもたらし、旧制度の穴ふさぎに金を注いで財政難を招き、切りやすい部分を切り捨てた。
老朽化した家庭の水漏れと応急修理のいたちごっこにも似たその対応のなかで、「漏れ落ちた人びと」が増え、格差意識と怒りが生まれ、ポピュリズムが発生している。それは必ずしも政策にかぎった現象ではなく、時代錯誤なジェンダー規範とその結果としての晩婚化・少子化もまた、「先延ばし」の一例といえよう。だが「先延ばし」の限界はもやは明らかである。
【引用終わり】
上記を補足すると、というか、私なりの理解を書くと下記の通りだ。
1)1965年~1992年(最初の東京オリンピックからバブル崩壊まで)が、日本が「ものづくりの国」だった時代であり、日本はこの間に大きな成功を収めた。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と謳われたこともあった。これを工業化社会と呼べば、以降、世界はポスト工業化社会に突入する。
2)社会保障あるいは、政治・教育・地方自治など一国の制度のあり方には、3つのスキームがあると言われている。①自由主義スキーム。アメリカが典型。自由主義と個人責任を重視する。社会保障のコンセプトは「弱者救済」②北欧にみられる社会民主主義レジーム。重い税負担のもと、「基本的権利としての全員保障」がなされる③南欧や独仏などにみられる「保守主義レジーム」。家族や労組、職業別組織などの共同体を重視し、これらの共同体を基盤に社会保障を整えた。たとえば労働者とその家族には、正規雇用労働者に組合保険が提供され、家族は男性労働者の保険に入る。
3)この中で、ポスト工業化社会にもっとも不適合を起こしやすいのは「保守主義レジーム」である。製造業を中心とした労働者が長期に正規雇用されることを前提に、すべての社会保障が組み立てられているからである。男性労働者の雇用が不安定になると、その家族が収入と社会保障を失い、年金制度も崩壊してしまう。それゆえ労働者の解雇がむずかしく、旧来の産業構造から転換できない。
4)日本は自由主義レジームと保守主義レジームの混合体であると考えられる。現代日本には二つの世界が存在する。公務員および大企業の正規雇用労働者とその家族、そして農民と自営業者といった、旧来の日本型工業化社会の構成部分は、保守主義レジームに近い世界に住んでいる。一方で非正規雇用労働者など、ポスト工業化社会への変化に対応させられている部分は、自由主義スキームに近い世界に住んでいる。その結果として、産業が硬直化して福祉制度が機能不全になるという保守主義レジームの特徴と、失業率は低いが格差が増大するという自由主義レジームの特徴が共存することになる。
5)保守主義レジームの傘におおわれた部分は保護されるが、その傘から「漏れ落ちた」部分は、自由主義レジームのもと、時代の変化に対応するための調整弁となる。
6)日本の政策・制度は、日本が最も成功を収めた「工業化社会時代」に設計されたものばかりである。時代は変化し「ポスト工業化社会時代」に突入し、政策・制度も変化させる必要があるにも関わらず、時代が変化したという認識がなされていないために、制度・政策が変わらない。変わらないことを、小熊英二は「先延ばし」といい、「工業化社会時代」の仕組み(政策や制度)の恩恵を受けられない人たちを、「漏れ落ちた人たち」と呼んでいる。
私には、非常に説得力のある議論に思えた。
昔つくった制度が変わらないのは、「既得権益層の抵抗が強いから」という説明がなされることが多いのだが、筆者は、「制度設計の前提、すなわち時代が変わったことに皆が気づかずに、昔(工業化時代)の姿を維持しようと、無駄なお金と努力(制度改訂)を注いでいる」という主張をしており、これも説得力があると感じた。
2023年度予算案が2022年12月23日に決定したという新聞報道があった。予算案は、114兆円。バブルで膨らんだ予算規模の縮小が出来ず、また、新たに防衛費などが増額された結果、当初予算案としては史上最大となった。この予算をまかなうために、国債をあらたに35兆円強発行することとなる。国の借金は更に増える。また、日銀の金融政策の変更により、金利が上がることが予想されており、国の借金にかかる利息も増え、将来的にはますます予算の自由度が減っていくことが想定される。
私には、この予算も、「先延ばし」予算のように思える。本当はあらゆる側面で抜本的に政策・制度を見直す必要があるはずなのに、それをせず、従来の延長線上で予算を組んでいるように思えるのだ。
かなりやばいような気がするが。
Posted by ブクログ
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厚みがすごい。平成という時代が多様な時代であったためか、中身は骨太な思想がひとつ詰まっているというより、ぺらぺらな印象がしてしまうが、そのぺらぺらな時代をよくこのようにまとめ切ったな、という雑感をもった。日本のインターネットはタイムマシン的であり、アメリカの発展をなぞるようなものだという濱野智史の主
...続きを読む張や、小熊英二のいうような、昭和のハコモノ的な、工業的な発展から、平成は情報通信的な、細かい技術的な発展があり、目に見えやすい変化ではなかったという指摘は興味深い。
Posted by ブクログ
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宇野さん・濱野さんがこれまで主張してきたことの再録+α版。1章は原発の議論+『リトルピープルの時代』を基にした宇野さんパート。2章は濱野さんによる情報社会論の捉え直し。個人的にはここが胸熱。濱野さんがなんで『アーキテクチャの生態系』で日本社会論にこだわったのか。それは日本的な(ひろゆき的な)ネット空
...続きを読む間を分析しなければ、日本独自の「フロンティア」が見えないから。このパート、普通に情報社会論の基礎的な流れの確認としても読めるし、そこに+αで濱野流の情報社会論の日本的な捉え直しもあって熱い。「梅田望夫的(アメリカ的)」と「ひろゆき的(日本的)」という括りは実感としてはすごく納得で、日本の土壌を受け入れた上で外発的にではなく、内発的に(宇野の言葉だとハッキングで)変えていくしかない。
ただ疑問もある。日本的、ガラパゴス的、匿名的ネット空間に可能性がある―というのはどうしてなのか。確かに、日本のネット文化・土壌を受け入れた上で希望を語る、議論を展開していくしかない―というのはわかる。でも、日本的な環境「だからこそ」希望がある、というのはどうしてなのか。もう少し言及がほしい。
そして、この本にある最大の問題。果たして、この本に収められている言葉は、どこに届いているのだろうか。ハイコンテクストで、これまでに思想の言葉に触れていなければ、いやむしろ具体的に『リトルピープルの時代』『アーキテクチャの生態系』を読んでいなければ、はっきり言ってわからない議論だったのは間違いないと思う。この本を市場に放り投げた時、購入者は思想地図界隈を好む読者に限られるだろうし、例え「誤配」が起こって他の読者に読まれたとしても、おそらく宇野さん・濱野さんの言葉はその読者には届かない。排除されてしまうはず。
思想地図界隈のマーケットなんて(東さんが前にLife現代思想の回で言っていたけど)せいぜい3万人くらい。多く見積もっても数万人程度。そこへ向けたところで、規模は果てしなく小さい。
宇野さん・濱野さんの議論が悪いというわけじゃない。むしろ、抜群に本質的でクリティカル。だからこそ、その議論は多くの人に届けるべきだし、その届ける努力がみられなかったのはもったいない。徹底的につけられた注釈そのものがハイコンテクストで、思想地図界隈の「外側」にいる読者には絶対にわからない。そのあたりの「議論」ではなく「姿勢」(思想系の言葉でいうならば、コンスタンティブではなくパフォーマティブな側面)について2人はどう考えているのだろうか。
また、議論が極めてレトリカルだったのも気になる。いや別にレトリックを用いることは悪い事じゃない。問題は議論が具体例に落とし込まれたとき、途端に弱くなることだ。おわりに濱野さんが「その具体的な提言となると、稚拙さも目につくものだろう」と告白しているように、抽象的なレベルにとどまっているという指摘は回避できないはず。その意味において宇野さんがいう「文芸評論家だから」というロジックは言い訳にしかならない。だからこそ、具体的な構想をレトリックで片づけるのではなく、現実の実務的な、届く言葉で方てほしかったし、語るべきだと思う。そのあたり、多分宇野さんも濱野さんも自覚していると思うし、今後のポイントなんじゃないかなと思う。
Posted by ブクログ
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いい意味でも悪い意味でも「狂気の書」であると思った。AKBと宗教との対比、アーキテクチャとしてのAKB、といった論については、ただただ舌を巻くばかり。確かにAKBというシステムは、オウム・エヴァンゲリオン後の社会やコミュニケーションのかたちの縮図である。
しかし「たかがアイドル」――しかも、資本主
...続きを読む義におけるモンスターよろしく大規模な搾取を続けている商品に対して、この国を代表する批評家が評価を与えている理由について、私が納得いくような回答は得られなかった。
筆者は日本のサブカルチャーやアーキテクチャの専門家であり、アイドルという卑俗なモチーフを扱いながらも有名な学者の言を引用しながら論を進めたり、自らの専門分野から鋭い指摘をしたりと、内容のおよそ半分は冷静な態度であった。しかしAKB自体に論が移ると、意図的かどうか分からないが明らかに冷静さを欠く。そして最も肝心な、「人はなぜAKBにハマるのか」という点については、偶然性によって出会った(一目惚れした)「推しメン」との疑似恋愛でしかないと言う。
ただただ納得するしかないが、じゃあ「普通に恋人を見つければ?」というツッコミ一つでこの本の価値は裸の王様になってしまうであろう。
もちろん恋人や配偶者がいてAKBにハマっている人もいるだろうから一概には言えないが、少なくともAKBを「恋愛弱者」の側から語るのか、そうでない側から語るのか、そのことで何か変わるのか、ということはかなり大きな問題であると思うので死生観云々よりもそっちを重要視してほしかった。
大体、偶然性によるつながりを量産するシステムってそんなに新しいのだろうか?濱野氏には、世界の中でも安全かつ多様に発達した、日本の性風俗産業にハマってもらい、同様の規模・視点から一冊書いていただきたい。皮肉でもアンチでもなく期待を込めて「マジ」で。
Posted by ブクログ
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「自己承認なんてものは、もはや断片的で確率的なものでしかあり得ない」
失われた10年だったのがいつの間にか20年になって、僕たちが青春を過ごした時代が無意味だったかのようなことを言われちゃって、それを聞く僕たちも、何となくそんな気分になっていたけど、それに異を唱える人がいる。そのうちの二人が著者
...続きを読む。何反省しちゃってるんだふざけるなと。
おっちゃんたちが見ていた世界は確かに停滞の時代だったかもしれないけれど、オッチャン達が見ていなくて僕たちが見ていた世界では時代は確実に進んでいる。僕たちの青春時代は決して反省の対象にされるものではないのだと。著者は、着実に発達してきた自由の拡大を、最大元に享受して発言を続けている。
自由の拡大という進歩と、superflatからcooljapanへと流れる日本文化の肯定感(ちょっと狙いが違うけど)この2つを利用して、日本にドメスティックな希望を見いだす。だから希望論。
同世代の人が本気でそう考え実行しているのは題名のとおり希望になる。素直に未来に対するワクワクした期待感がもてたことが嬉しい。
他には、共同体についての議論が結構あるけど、Facebookとかシェアハウスとかを見ると、確かに断片的な自己承認の詰め合わせで承認欲求を満たそうとしている私たちがいて、そこに僕もいる。そしてその欲求が決して満たされる事はないからこそ、流動的にならざるを得ないという面がある。
これは善し悪しのもんだいではなく、受け入れざるを得ないものなのかもしれない。
Posted by ブクログ
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