宇野常寛のレビュー一覧
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ネタバレSNSの“承認ゲーム”に少し疲れ、でもネットから離れたいわけじゃない——そんな自分に、この本は「庭」という視点をくれました。ここで言う庭は、手放しのユートピアでも“全部コントロールできる私的空間”でもありません。風や虫や雑草のような人間の外部が入り込み、思い通りにならないことを含んだ場です。著者はそこで、能動でも受動でもない中動態の姿勢を勧めます。世界を押し切るのでも流されるのでもなく、「ともに動く」。その構えが、承認の波に即応し続けるSNSのリズムから私たちを救い出す、と。
とりわけ納得したのは、ジル・クレマンの“動いている庭”という比喩です。自然は固定化できない。だから設計は“完成図”ではなく、剪定・間引き・遅延といった手入れの作法へ移る。情報の世界も同じで、タイムラインを定期的に剪定し、即時反応を遅延させ、受け取ったものを味わい直す時間を置く。そのとき、急ぎの成果ではなく、手触りとしての回復が生まれる。読んだ翌日に実際、通知を切り、閲覧回数を減らし、短いメモを書く——そんな小さな“庭仕事”から気分が軽くなりました。
一方で不満もあります。後半、戦争の強制力を“庭的あり方”に準える比喩には跳躍が大きいと感じました。平時の庭の具体像(生活の設計図)をもう一段掘り下げてほしかった。それでも、本書は「作ること(制作)を生活の基準線に引きなおす」という強い方向性を示します。承認の速さに合わせるのではなく、自分の手でリズムを作る。完璧な処方箋ではないけれど、日々を“庭仕事”として捉え直すための、実用的な比喩集として十分に価値がありました。 -
Posted by ブクログ
宇野さんとT氏が毎週水曜日にランニングし、瞑想をして暴食に近い外食をする中で問答が行なわれる内容をまとめたエッセイ。ここで紹介される飲食店は、どちらかといえば高カロリーで個人的な趣向とは合わない笑 「神との対話」としての瞑想と、「獣の欲望」として一心不乱に貪る食事という、一見すると相容れない行為を連続させることで精神と本能という二面から人間性を充足させていく。
個人的には宇野さんと同年代であり、高カロリーなものを暴食するには躊躇がある。免罪符のように運動する、飯を抜くといった行為を通じてチートデーを設けるというのは、自分自身もよく実行している。宇野さんは直接の知人であり、著作も何冊か読んでいるのでその思考は理解しているが、今回はT氏というトリッキーな存在と哲学的とも呼べる対話を大真面目に語り合うことで、中年以降の男性が選ぶべき生き方の像が少しずつ見えてくる仕掛けだ。
構成として秀逸なのは高尚とも言えるような内容を上から目線で語っている割に、ラーメンや定食屋のような場での食レポ的描写が挟まれることで押し付けがましくなく、等身大の中年男性としての悩みや困難が目の前の美味しい食事によって文字通り消化されていく仕組みになっている。その悩み自体が宇野さんが常々課題視しているプラットフォームでの承認欲求やコミュニティの馴れ合いといったテーマで、それ自体は解決というよりは気にしなくても飯が美味ければ良いよね、というところに着地している。
ラーメンと瞑想はもちろんメタファーであり、個々人にとってはそれが何であれ精神と本能を満たす二面的要素を人生に保持しておくというのは、とくに中年以降のアイデンティティを保つ上では重要に思う。何者にもなれずとも、何かを成し遂げずとも、日々はこれだけ芳醇に充足していくのだという示唆が得られるだろう。 -
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共同体を作らない、コレク'ティフ'の概念、制作など、それらを繋ぐプラットフォームではなく、庭の概念。
論証という観点では少し荒さも目立つが、現代において非常に重要な問題提起だと思った。
特に個人的には社会の人々を取りこぼさないためには、共同体より、お金を払えば誰でもサービスを受けられることが重要という考え。
生活する上で必要となる静脈的な活動の延長に、都市への庭を園芸すること、それも不完全ながらそれを増やしていくこと。
なんとも心許ないように思える結論だが、むしろいまはそれで十分に思える。
今後の社会を考えていく上で、本書は無視できないだろう。
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宇野さんの新刊エッセイ『ラーメンと瞑想』が面白すぎて一気読みした。
『水曜日は働かない』の続編的な要素もあるエッセイで、水曜日に走り、瞑想し、飯を食べるーーというルーティン中、盟友である編集者と社会文化に関する広範で深い議論を繰り広げる。
読者という視点から2人のやりとりを見ていると、習慣と探求を共有できる友の存在が思索に重層性も持たせてくれるのだと、うらやましくなった。
僕がこの本を読みながら感じざるを得なかったのは、AI時代に人はどう生きるのか、というまあよくあるテーマである。生成AIは急速に人間の労働を代替している。
一瞬そのこと自体に萎縮したり悲観しそうになるが、人間の営みの範囲は思うより広い。たとえばAIはラーメンを食べることもなければ、瞑想をすることもない。本の中で「獣の世界への耽溺としてのラーメン的生活と、神世界への接近としての瞑想的生活」と表現されているがーー人間は複数の”環世界らしきもの”を移動する一方、AIはAIのデジタル世界に閉じ込められているように思う。
AIの進化や機序によって仕事や生活がどう変化するのかを占うより、まずは目の前にあるラーメン一杯を楽しむ。流されずに生きる。宇野さんの日常の営みは、違う仕方での『PERFECT DAYS』の平山を想起させた。
「人間は目の前にラーメンが着丼した瞬間に実質的に孤独になる。そして全力で目の前の丼に向き合うことを要求される。そこには、純粋な人間と事物との関係が存在する。多くの愚民たちは誤解しているが、人間は人間とのコミュニケーションによって、多くの場合はむしろ均質化する」
もう何年前だったかも思い出せないけど、宇野さんが連れて行ってくれたとん太のエピソードもあり、また行きたくなったなぁ。 -
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『庭の話』の実践編!?という謳い文句もどこかでみた気がするが、確かに、食べ物だけに純粋に向き合いそれによって自分がどう変わるかという、庭の話の「事物に触れて変身してしまう」ことを扱っている感じ。
ラーメンは獣の世界、瞑想は神の世界と繋がる、そこを行き来するというコンセプトが好き。
純粋に宇野さんと友人Tさんのやりとりが面白い。クスクス笑ってしまう。
本書の最後では、二人が新しいステージに進んでいくという感じで締めくくられるが、この先どうなって行くのかはまた楽しみ。
「都市にはラーメンを食べて死ぬ自由があり、瞑想するための場所がある。」というコピーも秀逸だなと思うし好きだが、しかし一方で、その言葉の通りある程度の「都市」にしかないのだよな、という課題感もある。 -
Posted by ブクログ
非常に心地よく読み進められた。宇野常寛氏の著書は初めてだったが、私の課題感=研究テーマに近いことを考えていた。しかし、アーレントの「人間の三条件」をアップデートし「制作」に至るとは。思っても見なかった。いや、しかし自分の中では実は分かっていたのか彼の最後の決断は心にスンと落ちてきた。
本書は、プラットフォーム資本主義に対抗するための共同体主義に対して警鐘を鳴らし、共同体になり得ない別のオルタナティブを求める。「庭」は評価や承認を目的とせず、事物と人間との自律的なコミュニケーションが行われる場でないといけない、、、と順に条件を発見していくが、最後に、「戦争」が「庭」的であることを考察し、そして、庭を作ることの重要性をとどめてこれは万事の解決策にはなり得ないとして、庭の話は終わる。
そして、終盤で急に始まったのは、「弱い自立」、「消費から制作へ」、最後に庭の条件から人間の条件へとゴールする。そう、環境=「庭」の話から、個人=「人間」の話になる。終盤の、制作に関する具体的な処方箋、向き合い方の話がなかったのが少し残念であったが、次回作や彼の今後の発言に注目したい。
ありがとうございました -
Posted by ブクログ
読めているか分からないけれど、考えることのなかった視点で貴重な読書体験でした。
現在はプラットフォーム上で展開される情報環境。
発信による相互評価の連鎖と世論形成への懸念。
著書は「庭」というメタファーでの在り方で「孤独」を提案、そして「制作」することの必要性を説いています。
「共同体」の中にいることで起こる不都合なことを知ると、「孤独」を強調される意味が理解できます。
ここで言う孤独とは、心落ち着いて自分と向き合う、というふうに私は解釈しました。
多くの文献を紹介しながら意見を述べられてる中で、
國分功一郎さん著の『暇と退屈の倫理学』がありました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ本書は、画一的で高速な社会構造(プラットフォーム)から、多様で個別性を尊重する柔軟な社会構造(庭)への転換を提唱する。社会や環境との関係性を再定義し、「庭」を媒介として、持続可能で創造的なコミュニティ形成を目指す。
「庭」とは単なる空間を超えて、人間と環境、人間と非人間の新たな関係を築く概念であり、消費から制作へ、強い自立から弱い自立へ、プラットフォームから多元的共生へと社会全体を変革する思想的枠組みである。
著者は、これを通じて人間の条件そのものをアップデートし、21世紀の持続可能で豊かな社会を実現するための哲学を提示している。
本書の限界:
「庭」の概念は抽象的であり、具体的な社会変革の方法や実践への明確な道筋が示されていない点がある。
提唱される多自然的なアプローチや弱い自立のモデルが、現代の資本主義社会においてどの程度現実的であるかが不明瞭。 -
Posted by ブクログ
プラットフォーム相互承認の快楽に溺れててええんかい、という宇野さんがよく言っている問題設定から、庭のメタファーを用いてどういった場、機会が社会に必要か考える。と言いつつ、場があるだけではダメで、人間が何かを作ることで世界と関わる「制作」的な営みによって、新しい視点を得ていくことが前提として大事なのだ、ということを述べる。
いくつか事例は紹介されるが、どれも論の途中での参照という感じなので、なかなか具体的、実践的なイメージまでいきつかない部分もある。
超絶に雑に解釈してみれば、宇野さんがサブカル批評からキャリアをスタートしたように、自分の好きなものに没頭して価値観が変わる(消費者からその先にいく、みたいな)ような体験、的なことによって、世界との関わり方を変えることが大事なんじゃない、ということだと思う。やや、ポジショントーク的と言えなくもないかも、しれないが。
とはいえ、各所各所で、人の欲求について考えるヒントになる概念や事例も多々出てきて、考えながら読むのは面白かった。 -
Posted by ブクログ
暫く積ん読になっていた。NHKの放送後に纏められたテキストらしい。
子供の頃、サイボーグ009は映画やテレビアニメで観ていた。最初のモノクロ版。漫画のサラサラサラっと描いたような描線が好きだった。
小学生の時に読んだ「漫画の描き方」の竜神沼の解説で、暗い森の中のカブトムシの背光で少年の孤独感、白い百合で不思議な少女の気高さを現わしているとあり、マンガの表現手法にビックリしたことを覚えている。
さるとびエっちゃんの編で、主人公の内面が見えない、善悪を等価に俯瞰しているの記述に納得。サイボーグ009の編でも善悪を混然一体としているとの記述もある。
サイボーグ009が神との戦いの前で長い休載となり、その後、石ノ森先生の心象風景のような不思議な続編が発表されたことも残念に思ってるけど、なんとなく石ノ森先生だからなあ、と納得している。
佐武と市は未読。探さないとなあ。
手塚治虫と石ノ森章太郎の2人の天才がいたことに感謝したい。本のなかにもあったけど、井上雄彦、浦沢直樹、大友克彦も天才だけど、この二人は圧倒的だと思う。 -
Posted by ブクログ
__しかし、もはや読者/観客の多くは、作品そのもの(虚構)ではなく、作品についてのコミニュケーション(現実)に関心の重心がある。作品の表現よりも、作家の人生に関心があるし、他のみんなが褒めている/貶しているものに、自分がのるかそるか、どちらにすればポイントが稼げるかという現実に興味がある。
__私たちは、虚構だからこそ描き出せるものに触れることで、はじめて現実に対して適切に対抗(対応)し得る。その確信がなければ、虚構とはただのサプリメントに過ぎない。しかしそうではない、と信じる力が虚構の側に立ち、ものを書くことを可能にしているのだ。
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虚構をサプリメントで終わらせないために、虚構に乗り切りたい。それは結果的に現実に立ち向かうことでもある。