あなたは、最後に『手紙』を書いたのがいつのことだったか覚えているでしょうか?
2003年に44億6,000万枚発行されてピークを作った年賀状。2025年には10億7,000万枚と大きく減少したことがニュースになりました。メール、SNSの普及という中で、『紙』を前提にしたさまざまな文化が消えつつあるのが現代社会です。
とは言え年賀状は、書き続けている方もいらっしゃるでしょうし、やめた方もいつが最後ということはハッキリしていると思います。一方で、『手紙』はどうでしょうか?手書きで便箋に文を綴って、封筒に入れ切手を貼って投函する…。残念ながら私には『手紙』を書いた記憶はあってもそれがいつかを特定することは困難です。では、そんな私たちが敢えて『手紙』を書く場合、そこにはどのような思いが湧き上がるのでしょうか?
さてここに、宿泊したホテルの『手紙室』を訪れた人たちを描く物語があります。『すごい数のインクと、便箋が用意』されているのに思わず興奮してしまう主人公を描くこの作品。『発送しない手紙を書いても良い』と説明される主人公たちを描くこの作品。そしてそれは、『書いているうちに、書く人の気持ちも変わる』という『手紙』を書くことの意味を思う物語です。
『終わった…身体がゆらりと揺れ、落ちる、と思った』と『夜の新宿駅のホーム』で思う中に『目の前が真っ白にな』ったのは主人公の上原旬平(うえはら しゅんぺい)。
『ああ、目が覚めましたね』と『部屋にはいってきた看護師らしき女性』に『ええと、僕は…。何があったんでしょうか?』と訊く上原に『新宿駅で倒れられたんですよ。それで、線路に落ちたんです』と語りはじめた看護師は上原が運び込まれるまでの経緯を説明します。やがて看護師が部屋を出て行き、一人になった上原は『大学を卒業し、いまの会社に就職して一年数ヶ月。建築資材を扱うメーカーの営業職で、入社したときから激務が続き、同期はひとり、ふたりと抜けていった』という今までを思います。『疲労困憊』で『眠れないし、食欲もない。顔色はいつも悪く、体重も減った』という上原は『若くして死んだ父のことを思い出』します。『もともと身体が弱く』、上原が『五歳のときに死んだ』という父親は、一族が『軽井沢で』経営している『小さなホテル』で働いていました。そんな父親のことを考えていると『意識が戻ったみたいですね』と入ってきた医師はこれまでの状況を訊いてきます。『週の半分は深夜まで会社にいて…』と説明する上原に『しかし、良かった。まあ、今回はちがうだろうとは思ってたんですけど…』と、『電車が来ていないときに落ちて』いることで『飛びこみ自殺』ではないと判断していたことを説明します。そんな中、ふと会社のことを思い出した上原。『会社』の話をするとあきれた顔をする医師は『その状態でお仕事に行ってもねえ』と哀れむように話す一方で家族には連絡した旨説明します。そして、医師が出て行った後、課長に『事情を説明し、明日は休みますと打って、スマホを閉じ』た上原。
場面は変わり、翌朝目覚めると『目が覚めたのね、良かった』とそこに母親の姿があり驚く上原。就活がうまくいかないなか、『うちのホテルで働けば』と言ってくれたのを振り切って『いまの会社に就職した』という上原。母親は上原が勤める会社が『かなりブラック』であることを調べたことを伝えると、『倒れるまで体調が悪くなるような会社はどうなの?』と聞いてきます。そんな時『枕元のスマホが鳴』り、それは課長からでした。『大きなため息と、明日は来られるんだよね』と言い、検査の話をすると『いい加減にしろ』と怒鳴る課長。電話を終えた後、話が聞こえていた母親に『もう辞めた方がいいんじやないの、その会社』と言われた上原…。
再度場面は変わり、さらに休む必要がでた上原は課長にメールし『まんじりともしないまま朝に』なります。しかし、『会社からのメールも、電話も』入りません。再び目を開けた時、そこには『同僚の筧』の姿がありました。そんな筧は、『会社、潰れました』と、全員が『解雇』された事実を説明します。『転職活動をするしかない』と言う筧ですが『もうあの会社に行かなくていい』と『晴れ晴れとした顔』で語ります。
三度場面は変わり、『検査がすべて終わり』退院した上原が会社に赴くと、筧に手伝ってもらって『荷物の整理』をします。これからどうするかという話になる中で『実は僕、軽井沢出身なんです。実家がホテルを経営してて…』と話題にした上原は、『古い小さなホテルなんですが…。もし良かったらいつか行ってみてください。銀河ホテルっていうんです』と説明します。そして、数日後、抜糸を終えた上原は『母に連絡し、会社が潰れたのでとりあえず軽井沢に帰る、と告げ』ます。『いったん休憩し、人生を見直すべきかもしれない』と思う上原。そんな上原が実家の『銀河ホテル』で働き始める先の物語が描かれていきます…という冒頭の短編〈第一話 夜の沼の深い色〉。『銀河ホテル』で働く側の視点からスタートし、シリーズの起点を見事に形作る好編でした。
唐突ですが、さてさてのレビューは、ご紹介する作品の冒頭導入部をダイジェストにしてお送りするのが定番です。その後に、本の内容紹介を載せるのも定番です。取り敢えずいつも通り内容紹介を続けます。
“南軽井沢の銀河ホテル。イギリス風の瀟洒な洋館の一角に、「手紙室」がある。室長の苅部文彦は、このホテルに居候する風変わりな男。彼の手紙ワークショップを受けると、なぜか心の奥のほんとうの気持ちが見えてくる。娘家族と最後の思い出作りにやってきた老婦人、秘密を抱えたまま仲良し三人組で卒業旅行にきた女子大生 ー 銀河ホテルを訪れたお客さんが、好きな色のインクで、思い思いの言葉を綴る。手紙を書くことで己の人生を見つめ直し、人生と向き合う感動のシリーズ第1作!”
この作品を未読の方にはあれ?という思いが沸かれたかと思います。冒頭のダイジェストの主人公は上原旬平であり、彼がブラックな会社を辞めたところまでを記しています。それに対して内容紹介では、苅部文彦(かるべ ふみひこ)という人物の名前が登場しますが、一方で上原という名前は一度も登場しません。これは奇妙です。基本パターンを崩さずにレビューを書いてきた私にとってこれは初めての体験です。今回わざわざ補足を入れることにしたのは、この奇妙な不一致の気持ち悪さに自分でも耐えられなくなったからですが考え方としてはこのようになります。
① この作品は『銀河ホテル』を舞台にした物語です
② 各短編には苅部文彦が担当する『手紙室』が登場し、それぞれの短編主人公たちはその場を訪れます
③〈第一話〉の上原は『銀河ホテル』で働く側に回りますが、一方で、主人公として他の短編の主人公同様に『手紙室』を訪れます
おわかりいただけたでしょうか?内容紹介には何故か〈第一話〉がスルーされているためにこのような不一致が生じたことがおわかりいただけたかと思います。物語の起点となる〈第一話〉にも少しぐらい触れていただいてもいいように思います。いずれにしてもこの補足で整理ができたと思いますので、改めて内容を見ていきたいと思います。せっかくなので、上記で記した三つの点に沿って進めていきましょう。
まず一つ目として、この作品の書名にもなっている『銀河ホテル』についてまとめておきましょう。
● 『銀河ホテル』ってどんなホテル?
・『南軽井沢と呼ばれるエリアにある』
・『部屋数は三十と小さいが、建物は凝っている。レンガと木材を組み合わせた洋館で、もとは昭和初期に富豪が別荘として建てたもの』
・『戦後、空き家になっていたのを』上原の『曽祖父にあたる上原周造が買い取り、小さなホテルに改装した』
・『一階に広いラウンジ、パブ、ダイニングルームを設置』
・『中庭ももとの造りを生かしてイングリッシュガーデン風の植栽が施された』
・『部屋ごとに壁がカラフルな色に塗られている』
いかがでしょうか?上記で上原が同僚の筧に自分の実家が『古くて小さなホテル』を経営していると説明した通りの印象だと思いますが、一方で雰囲気感にあふれた建物の光景が強く思い浮かびます。場所が『軽井沢』ということもあってとても魅力的なホテルという気がします。冒頭の短編のはじまりこそ、上原が働く東京が舞台となりますが、上原がホテルで働くようになって以降、他の二編含めて物語の舞台は『銀河ホテル』に移ります。
次に二つ目は、『手紙室』です。物語の中で、クライマックス的な場所として登場するのが『銀河ホテル』の中にある『手紙室』であり、苅部文彦の存在です。これを一発でわかりやすく説明すると、ほしおさなえさんの他の作品と対比、こんな感じでしょうか?
・主人公に”起点・きっかけ”を与える場所
「活版印刷三日月堂」→ “三日月堂”
「銀河ホテル」→ “手紙室”
・”起点・きっかけ”を演出する役割の人物
「活版印刷三日月堂」→ “弓子”
「銀河ホテル」→ “苅部文彦”
わかりやすいですね(笑)。もちろん、「活版印刷三日月堂」を既読であることが条件ですが、これでこの「銀河ホテル」の物語がスーッと入ってくる整理ができたと思います。自画自賛(笑)。そんな中で大切なのはこの作品が、”起点・きっかけもの”であるという点です。青山美智子さん「お探しものは図書室まで」に代表されるこの系列の作品は、何かに思い悩む主人公が、何かしら”起点・きっかけ”を得た先に再び顔を上げ前を向いて歩き出すという清々しさに満ち溢れた結末が特徴です。この作品で、そんな大切な場所となるのが『手紙室』です。もう少し触れておきましょう。
● 『手紙室』ってどんな場所?
・『ダイニングルームとは反対側。蔵書室のとなりにある』
・『すごい数のインクと、便箋が用意』されている
・『予約制で「手紙ワークショップ」というものが開催されている』
・『発送しない手紙を書いても良い』=『もう会うことのできない人、過去や未来の自分などに手紙を書くということ』
・『手紙は封をした状態で預かって、銀河ホテルがあるかぎり、ここで保管される』
・『申し出があれば後日訪れたときに手紙を受け取ることができる』
はい、おおよそのイメージが掴めたかと思います。そして、この『手紙室』の担当が『アクティビティ部門の長』でもある苅部文彦という人物なのです。はい、これで内容紹介のイメージが掴めたかと思います。物語のクライマックスは、苅部文彦の”手紙ワークショップを受けると、なぜか心の奥のほんとうの気持ちが見えてくる”という点にあり、そこにはそれぞれの短編で主人公となる人物の人生の物語がたっぷりと描かれていくのです。
では、最後に三つ目です。この作品は三つの短編が連作短編を構成しています。三つの短編を貫くのが『銀河ホテル』であり『手紙室』であることは上記した通りですが、それぞれの短編には、それぞれ主人公となる人物が別に登場します。〈第一話〉は上記した通り、上原旬平がその役を務めます。他の二編も簡単に見ておきましょう。
・〈第二話 ラクダと小鳥と犬とネズミと〉
→ 『今度うちの家族といっしょに銀河ホテルに泊まらない?』と『娘の涼香』に誘われた『施設にはいって一年』という『わたし』が主人公
・〈第三話 また虹がかかる日に〉
→ 『大学でいちばん親しかった三人組』、『卒論が終わったらここに泊まる、とずっと楽しみにしてきた』という大石穂乃香が主人公
〈第一話〉のみ男性、他の二編は女性が主人公となりますが、年齢、境遇はそれぞれに異なります。そんな主人公たちはさまざまな悩みの中に今を生きています。〈第一話〉の上原は『ブラック企業』に勤める中に身体を壊し、結果として逃げるように故郷の実家へと戻りました。五歳で死別した父親が残した『大事なものを見つけるんだ』という言葉を噛み締める上原。〈第二話〉の『わたし』は、『施設にはいって一年』という中に『別れは悲しい。これからは別れていくばかりなのだから、もうあたらしい人と知り合わなくていい』という思いに囚われる日々の中、家族との『銀河ホテル』への旅に同行します。そして、〈第三話〉の穂乃香は『卒論が終わったらここに泊まる』と『大学でいちばん親しかった三人組』と『銀河ホテル』へと赴きます。しかし、そんな穂乃香は他の二人には言いづらい秘密を抱えています。そうです。三人はそれぞれに何かしらの悩みを抱えながら生きているのです。性別も年齢も境遇も異なる三人の悩みは当然に三者三様です。そんな彼らが行き着いた先である『手紙室』。『すごい数のインクと、便箋が用意』されているという『手紙室』に赴いた彼らは、苅部文彦の魅力的なリードによって自分自身と見つめる時間を持ちます。そんな彼らが行き着く先に見るもの、感じるもの、そして書き留めるものがしっとりと描かれていくこの作品には、”起点・きっかけ”を得た先に再び前を向いて歩き出していく人たちの心の機微を優しく綴りあげる印象深い物語が描かれていました。
『なにもかも思い通りになるわけじゃない。人生にはいろいろなことが起こる。でも、いつだって自分らしく生きることはできる』。
そんな思いに気づいていく主人公たちの心の動きを具に描いていくこの作品。そこには、まるでファンタジーのような雰囲気感の中に、主人公たちのリアルな心の内が描き出されていました。『銀河ホテル』の雰囲気感豊かな描写に行ってみたくなるこの作品。『手紙室』という”起点・きっかけ”を与える舞台の上手さを思うこの作品。
『手紙』を書くということの意味を改めて考えさせてもくれる素晴らしい作品でした。