映画版を先に観ていたのですが、本作と映画版ではハサウェイが目指すものが異なるように感じました。
本作では己を否定し、死へと誘うクェスの幻覚をハサウェイが振り払おうとしているのに対し、映画版では精神薬の服用を拒んでまでクェスの幻覚に縋り、自らが手にかけたチェーンの幻覚を見ては涙を流しています。
クェスへの未練は一貫しているものの、映画版のハサウェイはクェスとチェーンへの贖罪、そしてアムロへの罪悪感を引きずっているように映ります。
一方、本作のハサウェイはクェスへの負い目よりも怒りが勝り、シャアを乗り越えることで、自分の中に巣食うクェスの呪縛そのものを否定しようとしているように感じました。
アムロとシャアにそれぞれ歪な母性と父性を見出し、本作の戦いを通じてその二人を超えることを目指したハサウェイ。しかし彼の志は半ばで断たれます。
それは単にハサウェイの力量不足というより、そもそもアムロとシャアという存在自体が、人間という枠組みを逸脱した一種の到達点だったからではないかと思います。
彼らの先にあるのはもはや人知の届かない領域でしかない——そのことが根本的な問題だったのでしょう。
到達不可能な高みを目標に据えたことで、健やかな人生から逸脱し、テロリストとして生涯を終えたハサウェイの姿には、イカロスに通じる物悲しさを感じます。
また、ドラマの重厚さに加え、モビルスーツ戦のアクション描写も見どころの一つです。
ビームライフルを射出して囮に使ったり、ビームサーベルをあえて暴発させて目眩ましにしたりと、機転を活かした戦闘描写には見応えがありました。
心理的な呪縛、理想の継承、そして人間を超えた存在への憧れと挫折。
ハサウェイという人物の精神的破綻と理想主義の悲劇を描いた物語として非常に印象深かったです。