河合祥一郎のレビュー一覧
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これほど評価が難しい本に出会ったのは久しぶり。この『マクベス』はそれほど長い物語ではなく、更には将軍が主君を殺し王位に就くも、本来の王位継承者に殺されてしまうという簡潔なストーリーである。それも当時の王様に献上した話であるためか、何処か媚びへつらっているような印象を受けてしまう。それなのに『シェイクスピアの四大悲劇』として数えられているのだから始末に終えない。
この物語はマクベスを主人公と見るのか、王子であるマルコムを主人公としてみるかで大きく変わってくる気がする。マクベスは魔女の甘言から王位を望み、王を殺して王位を奪ってしまう。しかし魔女のもう一つの予言が気になり周囲全てが敵に見えて段々狂っていくという流れ。マルコムは突如として起こった謀反に為すすべなく親類のいるスッコトランドに逃げ込む。そこで機を窺い徐々に集まる忠臣と共にマクベスを討ち、王位を取り戻す。
マクベスを主人公として見るならこれは正しく悲劇といえるだろう。だが、マルコムを主人公として見ると正義は必ず勝つという勧善懲悪ものになってしまう。まあ、タイトルからしてマクベスを主人公として見る事が正しいのだろうがそうすると物語にはどこか無理があるような気がしてくる。
そして途中途中に時系列もしくは説明が抜けている部分があるため物語にのめり込む邪魔をしてしまう。これでは作者が作品に込めた意図を完全に読み切るのは難しい。 -
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その名の通り、「あらすじで読むシェイクスピア全作品(戯曲40作と詩編)」。「手っ取り早く筋を確かめたり、登場人物名や人物関係を確かめたり」(p.3)するためのもので、四大悲劇、その他の悲劇、喜劇、歴史劇、問題劇、ロマンス劇、詩のジャンル別に、あらすじと人物相関図、鑑賞のポイント、名台詞が紹介されている。著者曰く、「本書は、入門書というより、すでにシェイクスピア作品を読んだ(はずの)人の覚書としていただくのがよい」(p.4)ということで、シェイクスピアそのものの面白さを味わったりする感じの本ではない。
というのも、シェイクスピアの作品は人物が多すぎて、いくら相関図を見ても、誰が誰に何をしてどうなっているのかよく分からず、ましてあらすじを一通り読んだだけではほとんど意味不明。なので、シェイクスピアを知らない人が読んでも、あんまり楽しめるような本ではないと思う。そういう自分も読んだことがあるのはごく少数で、芝居でいくつか見たことがある程度、あとはタイトルしか知らないものばっかりで、ただあらすじを読むだけなので、あまり面白いとは思えなかった。『尺には尺を(Measure for Measure)』ってタイトルからしてどんな作品だろうと思っていたけど、「死よりも名誉を重んじる古代ローマ的価値観」(p.200)が当時のカトリックの自殺禁止と相容れない感覚とか、「『人は己が測った物差しで自らも測られる』というヘブライ語の表現」(同)というのが、なんとも印象深く、読んでみたい作品の1つだった。(16/06/27) -
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「田舎の公立学校を出たか出ないかわからないような学歴で、しかもずっと役者業に携わっていたのなら執筆のための勉強も調査も取材もする暇などなかったはずだ。それなのに、すらすらとこんなすごい作品を書けたはずがない。どうしてそんな芸当ができるというのか。一体、シェイクスピアとは誰だったのか。」(p.50)というのがこの本のテーマ。「シェイクスピア別人説」として七人の候補が挙げられ、それぞれの主張の根拠、強さを様々な記録から探っていく。そして最後に、著者の結論が述べられる。
ロンドンでは「シェイクスピア作者問題」についての修士課程があったり、アメリカでも「シェイクスピア作者問題研究センター」があったりするらしく(p.9)、当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、日本では考えられない程大真面目に「シェイクスピア学」という学問分野として成り立つのがすごいと思う。
ただ、その熱の入れように付いていけず、当時の劇作家や役者たちの色々な話が出てくるが、正直あまり興味が持てず、仔細に追うことができなかった。やっぱりある程度シェイクスピアを読んでるとか勉強した人じゃないと興味が持てないのかもしれない。
それでも、シェイクスピアの生きたエリザベス朝の時代について書かれた第二章は面白いと思えるところがいくつかあった。イギリス国教会が定められてから、カトリックが弾圧されるなかで、シェイクスピアが親カトリックの家系で育ち、沢山の近い人が処刑されるのを目の当たりにした、というのはシェイクスピア作品を読む上で知っておいてよい知識だと思う。「敵国スペインの宗教カトリックが棄権しされたイングランドにおいて、カトリックの環境で育ったシャクスペアが学んだことと言えば、面倒に巻き込まれたくなかったら自分の正体を隠せということだったのではないだろうか。」(p.177)そして、結果として「謎めいた人物となった」というのは納得できる。また、同じように現代と違うことで、重要なことしては、劇作家の地位、作者や著作権に対する考え方の違い、という部分だろう。「客を呼べる台本ができさえすればいいので、誰が書いたかはさほど問題にされなかった時代だった」(p.266)という部分は、指摘されないと気付かない。いったん戯曲が作者の手を離れてしまえば、劇団が戯曲を管理し、あるいは出版社に金が入る。そして劇団は厳しく戯曲を管理し、「役者たちに台本を配らなかった」(p.285)。そして「自分の台詞だけを書きつけた巻物(roll)を持って稽古したため、十七世紀初頭のフランス語(rolle)を経由して、役のことをロール(role)と呼ぶようになった」(p.285)というところは、英語好きとしては最高に面白い部分だった。
細かい部分はともかく、最後は納得のいくというか、安心できる結論になっていた。(16/06/06) -
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シェイクスピアの喜劇。ここまで立て続けに悲劇ばかり10作近く読んでいたので、なんだか和みました。あらすじも何も知らずに読み始めたので、もちろん悲劇だと思いこんで読んでいました。4人の男女が愛憎のもつれで殺し合うんではないかと、ハラハラしながらページをめくっていましたが、なんか惚れ薬とか、プロレタリアートたちの愚かなシーンがさしはさまれだして、色が変わり、気づいたらニヤニヤしながら最後のページをめくっていました。言葉の掛け合いが、翻訳でありながらも面白い。訳者の腕もあるんでしょうが、シェイクスピア読み継がれる意味も納得します。段々惹かれ始めましたよ(笑)
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Posted by ブクログ
初めてこういう類の本を読んだ。
キャピュレット家主催の宴会の場で出会ったロミオとジュリエットが一目惚れした。
紳士淑女の極みのような人格が、互いを想うときには言葉も振舞いも取り乱してしまう様が印象的であった。
その互いの身分とのギャップから、どれほど好きなのかを読者に印象づけていた。
しかし何故お互いに好きになったのか?その背景が理解できなかった。
「モンタギュー家とキャピュレット家の和解」「平和はいいことだ(争いはくだらない)」という結論ありきで紡がれた物語という印象を拭いきれず、創作とはいえ、作者の作為を感じざるをえないのが残念であった。
そして最後の「モンタギュー家とキャピュレット家の和解」についても、一見するとハッピーエンドのように思われる。
しかし、これは「身近な者を失いたくない」「身近なものを失うことで初めてその残酷さを知る」という、あまりにも露骨な自己本位の表れであり、手放しに喜べる話ではないのではないか。
もちろんこの物語は悲劇に分類にされているわけだから、美談として捉えるのはそもそも間違っているのかもしれない。
しかしこのような観点からも、物語を捉えることも必要ではないだろうか。
全体を通しては、平安時代のような言い回しの回りくどさを感じて、「一体何なんだこいつらは」と思い、ふと平安時代の文学にも通ずるところがあると感じた。
しかしそれは、慎みとは真逆の精神によるもので、自己顕示やナルシスト、皮肉といった、日本ではあまり褒められない動機によるものであると感じた。
また、あとがきの部分に「リアリズムを否定することで現れる醍醐味」のようなことが語られていたが、全くそのとおりであると思う。
そして、あえてリアリズムの視点で以って、そこから見えてくる矛盾を見出し、それを受け止めることで感じる面白さというものもあると考える。
そもそもリアリズムの視点に立てばあのような言い回しなどありえなないが、あの非現実性が文学の可能性を広げ、読者に楽しみを提供してくれているのだと思う。 -
Posted by ブクログ
シェイクスピア喜劇の代表作、1594-96頃の作とされる。原題は『A Midsummer Night's Dream』で、Midsummer は「真夏・盛夏」ではなく「夏至」ないし「ヴァルプルギスの夜」と解釈され、いづれも妖精が活動的になる祝祭的な夜だという。
「左右の目に違ったものが映っているみたい。何もかも二重に見えるわ」
"夢から覚めた"ハーミアの科白。ここには、近代という時代精神がこれから陥ることになる自己意識の無限の二重化という機制が、垣間見える。
「どこもかしこも、ぴったり収まる台詞はなく、どの役者もずれている」(フィロストレート)
「最高級の芝居だって、影にすぎぬ」(テーセウス)
「影にすぎない我らの舞台、お気に召さずば、こう思って頂きたい。皆様、ここで眠ってたのだと。おかしな夢を見たのだと。取るに足らない、つまらぬ話、夢のように、たわいもなし」(パック)
シェイクスピア作品には、<内面/仮面>・<内実/虚影>・<実人生/芝居>の対比が、一貫して底流を為しているように思われる。そしてこの対比自体が実は無効だとするアイロニーが、遊戯的な調子を帯びながら、作品の後景にはっきりと見て取れる。400年前の恐るべき現代性。私が生きているのは、夢か芝居か人生か。それを問いかける芝居、その芝居の中の一場すらも芝居なのか一夜の夢なのか誰かの人生なのか、月の魔力に朧となる。
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河合祥一郎の訳は、古典の翻訳書とは思えないくらいの破格の訳文であると云いたい。現代人の言葉の遣り取りになっている。見事と云うしかない。