前半の3章はシェイクスピアの生い立ち、経歴。後半の4章はシェイクスピア劇の背景や特徴、思想について。
シェイクスピアが生きた時代について、シェイクスピアの家族や生活について知ることができるが、シェイクスピア作品さながら、固有名詞も多いので頭に入りにくいが、何となくは分かった。当時のことを知らないと色々誤解してしまうものの中には、例えば「紳士」。「当時の『ジェントルマン』は現代で言う『紳士』とは意味が違い、貴族階級と市民階級のあいだ―正確には、騎士より下位、郷士より上位―の紳士階級に属する身分を指す」(p.7)という、世襲の身分のことを言うらしい。『ヴェローナの二紳士』というのは、2人のそういう身分のことを言うんだ、ということを知った。そしてシェイクスピアがカトリックという少数派だった、という話は、確か同じ著者の『シェイクスピアの正体』という4年半くらい前に読んだ本の内容で覚えていることだが、そこからまず「少数派の見方も否定しない」(p.49)、具体的には「『ヴェニスの商人』では、当時蔑視されていたユダヤ人の視点も入れ、キリスト教徒たちの偽善性が暴かれる」(同)という作品にも表れていることが分かった。それにしても、カトリック弾圧の拷問の生々しさという部分がこの本の中にもいくつか出てくるが、その部分は否が応でも記憶に刻まれてしまう内容だった(ここでは書かないけど、p.27の内容とか、本当に気持ち悪い。いくら争うような憎い相手だったとしても、こんなことをやる文化?時代性?が全く受け入れられない)。あとあまりシェイクスピアの話で語られることがないと思うけれど、「二人のウィリアム」(pp.70-3)の話はとても面白く、日本史と絡めた視点というのは、日本人こそ知っておくべき内容だと思った。具体的には、シェイクスピアと同い年(!)のウィリアム・アダムズの話だが、長女の名前(スザンナ)も同じ(p.70)という、ものすごい偶然。(ちなみに、p.71の「ヤン・ヨーステン記念碑」ってたぶん見たことないなあ。これだけ東京散歩しまくっているのに。「ヤン・ヨーステンの和名『耶楊州』の屋敷のあった場所が『八代州』と呼ばれ、のちに『八重洲』となった(p.71)」というのも知らなかった…)南蛮人(カトリック、スペイン・ポルトガル人、布教目的)と紅毛人(プロテスタント、オランダ・イギリス人、実利重視)、という構図もあんまり理解していなかった。あとはやっぱり何といっても、疫病、つまりペストの話かなあ。この本は2016年に書かれたから、当然今のコロナの状況を知らない段階だった訳だけれど、当時のペストの状況が良くなったり悪くなったりする様子が、とても生々しく感じる。例えば「一六〇三年四月からロンドンには疫病が蔓延して、五月二六日以降、市内の劇場はすべて閉鎖され、あらゆる劇団は地方巡業に出ざるを得なかった。」(p.73)というところから、「一六〇四年三月一五日、市内に戻っても安全なまで疫病がおさまったと判断され」(p.74)という状況の変化、なのに「一六〇六年七月一〇日までにロンドンで疫病の死者が週三〇名を突破し、国王一座は再び巡業を余儀なくされた」(p.86)とか、この感染者数の波のような感じ、週〇名みたいな数字が、今と同じだなあと思い、遠い過去のお話とも思えない現実味があった。
ただ個人的には前半部よりも、後半部の作品の話の方が面白かった。実は今日も、新宿ピカデリーで期間限定で上映されているデンゼル・ワシントンとフランシス・マクドーマンドの『マクベス』を見てきたところだが、やっぱり面白い。「『マクベス』は、魔女に異様な関心を示していたジェイムズ一世のために書かれた作品」(p.85)で、ジェイムズ自身が嵐に逢ったのを魔女のせいにしたとか、クロノスとカイロス(「時計が刻む規則正しい客観的な時間(クロノス)とは別に、夢中で過ごし、いつまでも記憶にとどめておきたくなるような重要な時間(カイロス)があって、人の人生を意義深いものにするのはカイロスなのである。(略)シェイクスピアはそのことがわかっていて、あえてクロノスを超越するような主観的なカイロスの流れを設定する」(p,104))の例として、マクベスの王殺害や宴会の場面が出てくるのも納得した。時間の話と呼応して、空間も、まったく舞台装置のないところで、観客の想像力によって場所がコロコロ変わるというのは能舞台と同じ(p.108)という話だけど、なんかIQ5000という劇団の芝居みたいだなあとか思った。
最後に分かりやすかったのは何が喜劇で、何が悲劇なのか、ということ。「喜劇の世界ではいろいろな人たちがいろいろなことを言い、そのいずれもが肯定され」(p.130)、「まじめなのかふまじめなのかわからないという曖昧さが、シェイクスピア喜劇の神髄」(同)であるのに対し、「他者に自らの価値観を押しつけようとすると、悲劇になる」(同)ということらしい。そして当時の「ルネサンスの時代思想としての人文主義」(p.131)の話が出てくるが、2015年に東大の自由英作文で出た有名な「鏡」の問題は、「エラスムスの著書『痴愚神礼賛』に掲げられた挿絵《愚者の鏡》」(p.134)であり、鏡のなかの人物は「道化」であり、「自分がまじめで賢いつもりでいる人に『己の愚かさを知れ』と言ってやる」(同)ということだそうだ。なのでそれを知ってしまうと、これの解答としてIt must be a magic mirror.とかやったら、それこそアホみたいな解答だなあと思ってしまう(もちろん、その解答で点はもらえると思うけど)。「褒めちぎるべきすばらしいもの」(p.159)に触れて、「『おめでたく』なれる人こそ幸せになれるのである。逆に、『正しさ』を絶対視して、自分の愚かさやまちがいが認められない人は幸せになれない」(同)ということを、喜劇は教えてくれるらしい。あとは嫉妬、は「緑色」というのはシェイクスピアの英語でも有名だけど、「『緑の目をした嫉妬』におそわれた人は緑色のメガネをかけてすべてを緑と思ってしまう」(p.198)というところで、Wickedという作品のエメラルド・シティはこのことを表しているのか?とか、今更に思ってしまった。最後に、『ロミオとジュリエット』はなぜ四大悲劇に数えられないのか、という話(p.178)も納得。
ということで、河合先生は訳だけでなく、こういう解説本を読んでもやっぱり面白いなあということが分かった。(22/01/03)