山形浩生のレビュー一覧
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これはフィクションではなく現実の出来事なのである。
それを理解するにはあまりにも壮大で、(少なくとも私にとっては)非現実的で、衝撃的な一冊だった。
最終章にある、監視システムの拡大により懸念される市民得点の計算は犯罪者の予測システムは、アニメPSYCHO-PASSの描く未来の日本そのものであり、2つの作品は私の中で完全にリンクした。
PSYCHO-PASSでは、個人の犯罪係数の測定、その係数が(罪を犯してなかろうが)向上すると、処刑対象になる。その支配下の中、個人ではなく集団での犯罪(個人の犯罪係数はあがらない)の場合の倫理、
個人に自覚のない形で連携犯罪がなされる場合の対処方法、先天的に犯罪係数が測定できない人への対処方法についてテーマを設定し、物語が進んでいく。
一個人がここまでのことをやり遂げるその信念と素直さ
国家の中での統率力の低下(テクノロジーを理解している、かつ全体像を把握している人がいない)
人は愛によってここまでも勇気づけられ、自分を信じることができる
私の少ないボキャブラリィではとても表わせない内容だった。 -
Posted by ブクログ
心理学の文献ではしばしば登場する「ミルグラム実験」について、ミルグラム教授ご本人が書かれた報告書。
「アイヒマン実験」とも呼ばれるこの本は2008年に新訳として再版されるまでは約10年は絶版だったそうだ。
2012年には文庫化されたが、357ページで1300円という価格となっている。高すぎるのではと思い読み始めたら、疑念はすぐに払拭された。実験の全貌、ミルグラム教授の分析等、事細かく書かれている。被験者を募集するための広告、役割や条件を変えての全18種類の実験内容、被験者のナマの声等、読み応えは充分。
更によかったのが訳者山形氏による「訳者あとがき」である。通常のあとがきに加え、「蛇足 服従実験批判」とのタイトルで本書の分析・考察に情け容赦ない根本的批判を展開する。訳者がこんなに批判しちゃっていいの?とも思ったが、権威からの命令が責任回避や思考停止に陥ってしまう危険性を検証した本書に対し、訳者自ら、ミルグラム実験という「権威」を否定することでオチをつけたのでは、とも考えてしまった。 -
Posted by ブクログ
インターネットを語る上で、もはや古典でありながら未だにその価値は全く色あせない名著。久しぶりに読み返したくなり再読するが、やはり面白い。
今やクリエイティブ・コモンズの擁護者としても知られる法学者ローレンス・レッシグの代表作である本作「CODE Version2.0」は、1999年に発表された「CODE」の事例を幾つかアップデートした上で2006年に刊行されている。本書は一言で表すなら、インターネットを巡る”規制”の総体を4つのディメンジョンで示したうえで、特に「アーキテクチャ」を構築するソフトウェア、即ちコードが最も重要であることを看破した点にある。
我々は日常的な用法として、”規制”という言葉を用いるときに、国や行政といった立法権を持つ主体が法律や省令、ガイドラインのような文書で人々の行動を特定の方向にインセンティブ付けする、という姿を想起することが多い。しかし、レッシグの”規制”の概念はもっと広範なものであり、一般的に我々がイメージする”法”以外に、”規範”、”市場”、そして”アーキテクチャ”の4点から構成される。
例えば、かつてのNapsterのようなMP3のP2Pダウンロードに対する規制は以下のような総体として示される。
・法による規制:著作権法などによる罰則規定
・規範による規制:教育や業界団体を通じたP2PのMP3ダウンロードが不法であるというキャンペーンと世論形成
・市場による規制:AppleによるiTunes Music Storeのように1曲1ドルという安価な価格設定を通じた公式MP3のマーケットプレースへの誘導
・アーキテクチャによる規制:CCCDのようにMP3へのファイル変換を禁じる技術の導入
そして重要なのは、
・この4つは独立して存在しているのではなく、相互依存性を持つ。特に法が規範・市場・アーキテクチャに働きかけることで、一見して法が強制しているようには見えないが、何らかの立法主体の思惑が実は強く反映されていることが往々にして起こり得る
・インターネットでは最後のアーキテクチャによる規制が最も人々の行動を束縛する。なぜならば、リアルワールドにおいては建築・デザインといった実空間の操作によってしか行えなかったアーキテクチャの変更は、インターネットにおいてはソフトウェアのコードを変更するだけの労力で実現できてしまう
という点を鮮やかに描き出した点にある。
1999年にレッシグが描いたこの規制の総体は、そこから20年が経過した現代において、どのような重要性と示唆をもたらすのか?例えば、それは1999年と比較して明らかに強大になりすぎた特定のプラットフォーマーの影響力をどのようにバランスさせるのか、という点で、GDPRのような法による規制以外のアプローチが有効であることを含意するだろう。それについては、またいつか。 -
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通称「アイヒマン実験」の報告にあたる本著。ここで得られた実験報告は人は権威に対して服従する生き物であるという、目を背けたくなるような結果だったということ。厳密にいえば、この実験で行われた手法の正確さについて異論等もあるようだが、いずれにせよ確実なことは、権威という目に見えないパワーの強大さ。そして人間がそれに対して、社会システムの構造上指示に従わざるを得ないところにいるという点は否定しにくいのではないだろうか。
日々、家庭、学校、会社、社会・・・あらゆる生活の場に権威は存在しており、その権威に服従して生きている。こう考えると、自分はさも奴隷かのように感じてしまうが、そうではなくて視点を変えてみれば、相手への信頼にほかならないとも言えなくもない。
ただ、なんというか、協調や空気を読むことを大事と見ないしている日本においては、この実験を行ったらかなりの率で服従する人が多いような気がしてならないし、私自身、服従してしまう側なんだろうな・・・と思いながら読んでいたら、背筋がゾッとした。 -
Posted by ブクログ
このアイヒマン実験について著者のミルグラムは、参加者の良心と権威に対する服従についての葛藤の場として見ている。一方で日本語訳者は、参加者の社会に対する信頼の度合いと、なにがより高位の規範であるかについての判断の場として見ている。これら実験に対する向き合い方の違いは、人の理性について理解しようとする際の方向性の違いだけでなく、アウシュビッツの存在がそれぞれに与えた衝撃の受け止め方の違いのように感じた。
前者の考え方の落とし穴は、人の良心を信じる者がアイヒマン実験の結果を知ったときに、その結果を人の性悪説の証明であるかのように感じ、実験のプロセスを含めて強い拒否反応を示すことにある。また後者の考え方の落とし穴は、その思考にのみ拘泥していてはアウシュビッツを防ぐための倫理的な防波堤を構築しえないことにある。人の本質を性善と性悪に簡単に分類できるものではないだろうし、また、倫理的判断を各人の判断や時代の判断にまる投げできるものでもないだろう。
正常と異常の判断または、優位と劣位の判断はその定義からして、あくまでも正常な側や優位な側が行わざるを得ないことを肝に命じながら、前者の考える倫理と後者の考える法規範をもって、人の行動に制約をかけることの大切さをあらためて教えられる。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ人生100年時代と呼ばれ、健康な期間も延びている中で、かつ、変化が早いという最悪の組み合わせに思えるような時代で、大げさでなく「生き残る」ためには、一言で言えば適した変化ができるということなのだろう。
ネットワークや学習、プルや創発、回復力、というワードからも確実に読み取ることができ、変化のための失敗の費用は確実に下がっているから、どんどん実践していこう、というもの。(分野によるが)
そのためには「面白い」ということを思える必要があるし、複雑性やカオスな状況にも対応できる必要がある。ワード以上にタフな印象を持つ。
一方で、「必要な時に必要なものプルできる」ということは、逆に言えば自分もそのネットワークの一部として何かをgiveすることができる必要がある。
これは一過性のものではなく、やっぱり磨き続ける必要がある。何かしら自分の武器となるものを。