山極寿一のレビュー一覧
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ゴリラは堂々と誇り高く見えます。人間に近いから余計に悠々と感じるのかもしれない。
コンゴの森でゴリラを追い、その群れの一員となった(?)山極寿一先生。ゴリラのマナーを身に着けた先生がその目で人間社会を見たら、なんともぎこちなく感じたそう。
社会性を身に着けたことで独自に進化した人間。自然から離れ、いろいろな技術を急速に発展させてきたけれど、何かがそのスピードに追いついていない。
立ち止まって考えてるヒマなく波に乗ってきたけど、そろそろ一回「ちょっとまった!」というタイミングなのかも。
特に子どもたち。自然を取り上げられ、簡単にのめり込める機械の刺激を与えられている現状が、なんだかSFの話のようにも思えてきます。
人間はずいぶん遠いところまて来てしまったんだなぁ。 -
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鳥とゴリラの言語・コミュニケーションのあり方を知ることで、人間本位の世界の捉え方を見直させられる。鳥とゴリラの言語を人間言語との共通性をもって感嘆するのみならず、そこから人間が科学的進歩の過程で失ってしまった身体性にも目を向ける事になる。デジタル化、AI依存が著しく進む社会の中で人間としてどうあるか。それは個人で完結する意識ではなく他者との身体的な繋がりをいかに意識的に持てるかが問われている。技術の進歩を否定するのではなく、身体的繋がりをより豊かにするための手段として活用していくことも指摘されている。ちょうど自分自身が現代社会に感じている違和感や寂しさのようなものがここに書かれていた。
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両名とも中学校の教科書(光村図書)にも文章が掲載されている山極寿一さんと鈴木俊貴さんとの対談の本。
お二方の実際のフィールドワークや研究の話から、言語における共通性や考えを知ることができ、大変いい学びになった。
お二人の追究する姿勢が大変参考になった。
人間は視覚優位のコミュニケーションなのではないかと言う山際さんの話が興味深かった。鳥は3次元を移動することができる。そのため鳴声を使った聴覚重視のコミュニケーションになるわけだ。一方、人間は、進化の過程で、ジャングルからサバンナに移ったので、視覚的な情報が優位になった。
だから本来は、対面でのコミュニケーションが大切であるはずなのに、それができていない。文明の発展、AI、そう言ったものに人間がついていないのではないかという話がとても面白かった。
それぞれの環境に適応してきた生物のコミュニケーション手段を知ることで人間の現在地が浮き彫りになるし、第一線でフィールドワークを続ける両氏の姿勢そのものが、めちゃくちゃ刺激になる一冊だ。
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基本的には人間は、性善説が支配的であると思う。御二方の対談は非常に興味深いものであろうということは、本書が視界に入った時に瞬時に察しがついた。
本書は、霊長類学の権威である山極氏と獣医・海獣哺乳類学者である田島氏との対談を編集している。
一般的に、サルの社会は序列化されているが、山極氏によれば、ゴリラの世界は、徹底的な対等社会であると言う。
少なからず映画等の影響を受けて歪曲されていたので、これは、衝撃的だった。
ちなみに、獰猛で野蛮なイメージを増幅させるいわゆるドラミング(立ち上がって、胸をドンドン叩く行為。)は、『これ以上近づいたら喧嘩になるから、お互い離れようぜ。』等の平和的解決へのサインらしい。ゴリラは、極めて紳士的な森の住人ではないか。
ゴリラだけでなく、田島氏が紹介するザトウクジラの例も、心を熱くする。
カナダの研究チームによると、シャチに襲われているコクジラの親子を助けるべく、ザトウクジラが盾となって間に入って、守っていたようだ。
さらに驚くべきは、シャチに襲われて海に落ちたアザラシをザトウクジラが助けて、数十分泳いで避難させた事例である。
これらの事例は、ごく限られたものであるが、ゴリラもザトウクジラも、立派に心を宿していると言えるだろう。
ここで、鯨類の区分けについてであるが、一般的に体長が4メートルを臨界値として、クジラなのかイルカなのかを決定しているに過ぎないことに注意されたい。
本書を通じて、言葉を持たないゴリラやイルカ等も、利他の心をもって社会生活を営んでいることを知った。
筆者が言うように、我々は、彼らに見習うべく言葉に依存するだけでなく、たとえば、従来無駄とされていた時間等について向き合っていく時期に来ているだろう。
『人間は、家族や仲間と協力し合い、支え合うことを喜びとする生き物である。』という原点に立ち返れば、テクノストレス等にエネルギーを浪費する現実から脱却できる明るい未来が待っているはずだ。 -
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ゴリラやサル、ヤノマミなどから、本来人間が持つ力を分析し、現代の人間との比較を通して、私達が抱える問題の原因や、解決の糸口を掴んでいく。
特に、教育が人間独特の行為で、生産性重視の考えにより、仕事に即効性のある学問しか国が求めなくなってきているという話が印象的だった。
学生は資格やキャリアだけに囚われず、もっと自由に、無駄かもしれないことこそ学ぶべきではないか。と。
対談者のうち一方は法学部から医学部へ方向転換し、大学で14年間学んだそう。進路で迷っていて、周りより何年遅れるとか考えていた私は結構勇気付けられたが、男性だからできたことなのではないかとも思ってしまい、複雑な気持ちになった。
読み返したい本ではある!
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916円
ゴリラを研究してるゴリラ生態学者が、人間の雌よりゴリラの雄の方が共感出来るって言ってて、男女ってそれぐらい違うものだし、それを同じだと見る、女にも男の役割が出来ると思ってる方がおかしい。
山極 寿一
(やまぎわ じゅいち、1952年〈昭和27年〉2月21日 - )は、日本の人類学者(人類学・生態環境生物学)、霊長類学者。学位は、理学博士(京都大学・1987年)。京都大学名誉教授[2]、総合地球環境学研究所所長。日本学術振興会奨励研究員、財団法人日本モンキーセンターリサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、京都大学大学院理学研究科教授、京都大学大学院理学研究科研究科長、京都大学理学部学部長、京都大学総長(第26代)、一般社団法人国立大学協会会長(第26代)、日本学術会議会長(第29代)などを歴任した。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。専攻は人類進化学。特にゴリラの生態から、人類の起源を探究する。霊長類学の観点から現代社会の問題も論じる。著書に『森の巨人』(1983年)、『ゴリラとヒトの間』(1993年)、『家族進化論』(2012年)など。東京都出身の人類学者、霊長類学者にして、ゴリラ研究の第一人者である[3]。京都大学理学研究科教授を経て、京都大学総長に就任し、2020年9月30日をもって、任期を終え、退任した。日本学術会議では「安全保障と学術に関する検討委員会」委員を務めており、会長にも就任した。東京都出身[3]。国立市立国立第一中学校、東京都立国立高等学校を経て、京都大学理学部卒業。同大学大学院理学研究科博士課程修了、理学博士(1987年)[4]。カリソケ研究センター客員研究員、日本モンキーセンターリサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、京都大学大学院理学研究科助教授、同教授を歴任。2014年7月3日に京都大学で行われた教職員による投票(意向調査)で山極が1位となり、翌日4日の学長選考会議で正式に学長に就任することが決まった[5]。 2014年10月1日より総長に就任[3]。京都大学の総長としては初の、戦後生まれの総長となった[3]。河合隼雄学芸賞選考委員[6]などを務めている。伊谷純一郎を師とし、人類進化論を専攻、ゴリラを主たる研究対象として人類の起源を探る。[要出典]病理学者で人工癌研究のパイオニアとして知られる山極勝三郎は遠縁にあたる[7]。
「養老 日本は地形がものすごく細かいでしょう。飛行機から見るとすぐわかります。ヨーロッパから帰ってくると、なんて細かいんだって、いつも思います。日本の自然は繊細でしかも多様なんですよ。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「虫とゴリラ」養老孟司・山極寿一(毎日文庫)
昆虫とゴリラ。異なる種だが共通するのは「生物」であること。互いに見えないところで何かが繋がっている。ヒトも哺乳類で「生物」の一種のはずが自然を征服して支配した気になってるのではと思う。
#読書 #読書記録 #本
「山極 この前、「風土学」を提唱している哲学者のオギュスタン・ベルクさん( 1942 ~)と話をしていたら、日本人の情緒というのは、西洋人の感性とはだいぶ違うという話になったんです。何が違うのかというと、自然観が違う。それを土台にした宗教や哲学の影響が大きいって言うんです。例えば、西洋絵画で「遠近法」が流行した時期と、デカルト( 1596 ~ 1650)が「我思う故に我あり」という考えを提示した時期は重なっていて、遠近法というのは、自分の視点、自分というアイデンティティを固定するものの見方です。いつどこに自分が立っていて、何を見ているのか、非常に明快ですよね。 ところが、日本絵画は「主体」と「客体」の関係が曖昧で、絵巻物でも、解いていくたびにストーリーが変わり、主人公が変わり、見る側はいろんな主人公になりながら風景を眺めて、絵の中のドラマに参入していく。 日本の庭園もひとつの固定された視点から眺めるようにつくっているわけではなく、立つ場所ごとに、自然の中に没入して自然と対話をするようにできている。主体が客体の中にとけ込んでいる。それは、日本人の情緒になって、さまざまな芸術や工芸品を生み、ジャポニスムとして十九世紀末の西洋に衝撃を与えたわけです。 そういう日本人が、七十年代、あっという間に自然を壊してしまった。どうして、あの日本列島の大改造の時代が始まったのか、自然を敬う心を捨ててしまったのか、いまだにわからないって、ベルクさんが言っていましてね。じつは僕もわからないんです。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「養老 トルコあたり、崖に穴掘って暮らしてるでしょう。カッパドキア。現代人ってあそこに戻っているんだなって思います。もう少ししたらネアンデルタールだ。いずれ洞窟に住むようになるんじゃねえか(笑)。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「山極 虫から見ると人間ってすごい無駄が多い生き物だって思うでしょうね。人間から見ると虫は非常にメカニックな姿をしていて、そういうふうに機能的に見えるのは、生物として無駄のない動きをしているということです。哺乳類は全体的に無駄が多いですが、とりわけ人間は言葉を持って、中枢神経系を働かせることで、自然と一対一の対応をしなくても、頭の中でいろいろ考えて行動できるようになった。それでかえって、無駄がいっぱいできてしまったんじゃないかという気がします。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「山極 そうですねえ。言葉を持つことで人間は、生物界で優位な立場を得たと思うんだけど、それ以前からも、人間は道具をはじめとして、自然との間にいろんな緩衝物をつくってきた気がするんです。それによって直接、自然と一対一の対応をせずに暮らし始めて、それが積み重なっていくうちに、自然との「会話」ができなくなった。言葉を持つ以前の人間は、いろんな生物とコミュニケーションをしていたと思うんです。 僕は小さい頃、『ドリトル先生 アフリカゆき』なんかを読んで、「鳥や動物たちと話ができるようになりたい」なんて思っていたんですよ。「動物たちは人間のように、それぞれの言葉を持っている。その言葉を学べば、ちゃんと会話ができる」って本には書いてあって、ずっとそれを信じていたんだけど、真っ赤なウソでしたね(笑)。アフリカのジャングルを実際に歩いてみて気づいたのは、「我々が言葉を持たなければ、彼らと会話ができる」ということでした。 言葉を使わない生き物との会話と、言葉を使った人間の会話の何が違うかというと、養老さんがすでに書いておられますけども、言葉を使うのは「分類する」ことですよね。名前をつけることで、本来は「違う」ものを「同じ」カテゴリーに入れる。 じつはこれ、自然界では起こり得ないことです。そもそも全部が違うものだから、お互いが違うものとしてコミュニケーションをしている。逆説的に言えば、違うからこそ、コミュニケーションをしたくなるんですよね。同じだったら、コミュニケーションを取る必要がない。そういうもので自然界は満ちているのに、人間は分類を始めて、いろんなものを省略して、違うものを「同じ」カテゴリーにどんどん入れ始めた。自然と会話ができなくなったというのは、違いがわからなくなっちゃったということでしょうね。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「山極 ゴリラにすれば、脳を大きくしたことの負の副産物にも見えるでしょうね。逆に言えば、それが人間の非常に「人間的な部分」で、そういう無駄が、人間的な社会を生んだのかもしれません。そこがまだ突き止められていない気がします。恋愛というのは、相手がわからないから成立するものですよね。相手がわからないからコミュニケーションするのは、動物もそうなんだろうけれど、人間はそこに、繁殖とは結びつかない、恋愛という妙な接着剤をつくった。共感性を高めて、相手と一体化したい、でも一体になれないというジレンマの中で生まれたものだと思います。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「ゴリラやチンパンジー、オランウータンも、彼らは他の個体と触れ合う時に、手を使うんです。ただ人間と違って手の「甲」を使う。というのも腕を前に伸ばすと、手の指が内側に曲がってしまうんですね。そうやって指のフックを安定させて、木の枝につかまっているわけです。人間の場合、腕を伸ばしても、手の指を自由に動かせます。枝につかまる能力の代わりに、細かな器用な手になったのは確かなんですよ。触覚を通じて、人間と人間が、あるいは人間とモノが触れ合うっていうことが、非常に多彩に起こっていたのかもしれません。それが今、養老さんがおっしゃるように、忌避されてしまうのはどうしてなんでしょうね。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「山極 動物というのは非常にコンサバティブですから、知らない場所に行きたがらないし、基地となる場所にだけいて、基地の仲間だけと暮らそうと思うわけです。保守的であるのは、身を守るためという合理的な理由もあります。ところが、気候変動や地殻変動が影響したと思うんだけれども、類人猿の祖先や人間の祖先が、それまで暮らしていた地域から未知の場所へ出て行かなければならない事態になってきたんですね。 その中で、最も保守的なゴリラは未知の場所へは出て行かず、むしろ熱帯雨林のど真ん中で暮らすことを潔しとしました。だから逆に、非常に食性を広く持つようになったわけです。豊かな場所で、ほとんどフルーツを食べて暮らしていたゴリラは、フルーツが少なくなった時、何を食べるかっていうと、これまで食物としていなかった、硬い葉や、地上の草を食べ始めて、食料不足をしのぎました。その時、チンパンジーも生息域を広げましたが、サバンナ(草原)までは行かなかった。 その頃、人間の祖先は、ゴリラやチンパンジーの棲む森を後にして、草原へ出て行ったんです。ゴリラにしても、チンパンジーにしても、彼らはそれぞれの五感でもって確かめられる食物を採取して、自分の手で採った食物を、その場所で食べていました。その中で、人間だけが、採取した食料を別の場所に「運んで」、他者に分配するという行動を始めます。他人が運んできた食物を食べるようになった。他人が採取して運んできたものを「食べる」というのは、他人を信用する、その食物を信用するということです。これが、情報化社会の始まりであると、僕は考えています。つまり、食物が「情報化」したわけですね。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「自らが採っていない食物を、自らが採ったかのように信用する。それがまずは、人間と、ゴリラやチンパンジーを分けた非常に大きな点だと思います。人間が森を離れることができたのは、食物のある森を離れても、食物を運べるようになったからで、人類の歴史はそこから始まったんじゃないか。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「 例えば、人はリンゴという果物を全部、「リンゴ」という言葉でまとめることができる。感覚が中心の動物は、一個一個のリンゴは別のもので、いちいち「全部違う」と思っているんじゃないでしょうか。そのヒントのひとつが、絶対音感なんですよ。動物は絶対音感なんです。音の高さが違うと、「違う音に聞こえる」という、この問題をクリアできない。だから逆に、我々の使っている言葉は、じつはすごく変ではあるんですね。同じって言っても、「物理的には」同じって言えません。それを同じとみなすのが言葉であり、情報なんですよね。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「ところが類人猿の場合、ゴリラやチンパンジーは、知識を蓄積しません。その時の事象に留まるだけです。「それらしき行動」が出てきても、その瞬間、真似ることはできるけれども、蓄積し、共有をして、確信が生まれるという、個々の体験が「新たな行動の変化」に結びついていくことはないですね。これがサルと人間の大きな違いだと思います。人間だけが行為を共有し、新しい創造を積み上げることができた。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「養老 そう、それはありますけどね、やっぱり、哺乳類の本能的なものもあって、チンパンジーがそうですってね。ゴキブリが嫌いなの。山極 やっぱり、ちょろちょろ動くものは嫌いですよ。養老 動画で見たことがある。チンパンジーの背中にゴキブリが登ってきて、それを一生懸命払い除けて、「ついてるんじゃねえだろうな」って必死にやっていましたよ(笑)。山極 チンパンジーはハエも嫌がりますからね。養老 ヘビ嫌いとクモ嫌いは、明らかに分かれるんです。クモの嫌いな人はだいたいヘビが大丈夫。ヘビの嫌いな人は、クモが大丈夫。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「山極 それは初等・中等も、高等教育も、みんなそうなんだけど、今、どんなものにも、すぐに成果を求めますね。「どんな能力がつきましたか」とか。教師の側も「成果をきちんと出してください」って言われるんだけど、「それはまだわからないですよね」って言うしかない。何十年も経って、その子がすごい立派になってるかもしれないし、大失敗をして死ぬかもしれない。それはもう、どっちにしたって「成果」なんです。それでもみんなが、成果や結果をすぐに求める。養老 それでもう、しょうがないから、いま私がやっていることは、一昨日も行ったんですけど、「虫捕り」と称して、保育園の子どもを連れて山に登って、午前中ずっと遊んでるみたいな。それでいいんですよ。以上、終わりって。山極 何かね、「目的」があるのがいいんですよね。昆虫採集でもいいし、植物採集でもいい。サルを見るのでもいいんだけど。何かひとつ目的を持って森を歩いていると、いろんなことに気がつくわけです。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「 読解力は、国立系はほとんど百点、私大系になると早稲田・慶應ぐらいでは少し落ちるっていう、国立大系と、私大系で、違うのが面白いでしょう。官僚はとくに東大、国立系が多いわけ。だから、汚職なんかがあると、すぐそれを思い出すんです。 「わかっちゃう」というのは、逆に危ないんですね。つまり、十九人殺しの気持ち、「本当に」わかっちゃうやつは、十九人殺しになるんです。それで、さらに逆転して、私はアメリカっていう社会が、そこで初めて理解できたような気がしました。 アメリカって徹底的にいろんな背景の人が集まってきて、州議会ではなくて連邦議会になったら、そこで通用することは、「普遍的な理性」だけですよ。だから、アメリカはコンピュータが発達するんでしょう。理性を突きつめるとコンピュータになるわけだから。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「山極 どうなんですかねえ。だから、僕はよく言うんだけど、「種の境界よりも性の境界のほうが深いんじゃないか」って。つまり、僕は、ゴリラのメスの気持ちはわからないんだけど、オスの気持ちはわかる。それで、ゴリラのことがわからないというよりも、ゴリラのメスのことがよくわからないっていう感じですね。人間の女性よりもゴリラのオスのほうがよくわかるっていう(笑)。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「ローマやパリやロンドンにしても、遺跡は残っていますが、暮らしそのものは残っていません。京都にそれが残っているのは、家屋や道具類、庭も含めて、壊さずに残してきたっていう、あるいはそれをつないできたからですね。陶器や着物もそうでしょう。そういうモノに込められた心のようなものが、日本の中に脈々と流れてるからじゃないかなっていう気がするんです。大きな都市ではなかなか残りにくいでしょうけどね。大陸へ行きますと、中国でもインドでもヨーロッパでも、都市って「城壁」で囲まれていますよね。京都が「特別」なのはそこで、城壁で囲っていない都市なんです。城壁はもちろん、都市を守るためのものですが、本来は「結界」です。「ここから先は別だよ」というものを、京都の人は、外国の都市のような城壁じゃなくて、生活の伝統や様式の中につくってきた。あんまり例のない文化だと思いますよ。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「それから、日本の木造建築には、結界があるんですよ。物理的な障壁ではないんだけど、「そこから先は入ってはいけない」とか、「そこから先に起こっていることは聞こえていても、聞こえていないことにしよう」とか。しかも、建物の中でもなければ外でもない、「縁側」という不思議な空間が必ず存在しています。これは、西洋の石造りの建築とは違う、日本の文化がずっと持ち続けてきた「曖昧さ」ですね。境界をあえて物理的に設けない「間の文化」なんですね。そういうものが、僕、とても重要だと思っているんですよ。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「養老 そのわからなさっていうのは、もう基本的な了解みたいなものなんでしょうね。それから「奇跡」っていうのもあります。奇跡ぐらい、日本人が理解しづらいものはない。ところが、キリスト教の勘どころ、核心は奇跡ですからね、結局。山極 復活なんて「あり得ない」で済ませそうですよね。養老 映画の中でも、ラザロが教会に入っていくと、音楽が流れていて、今日は関係者だけだからダメって、追い出されるんですよ。追い出されたラザロが通りに出ると、なんと音楽が消えていって……ラザロについて行ってしまう、音楽が(笑)。 そういうシーンって、日本人はまず考えないでしょうね。彼らの考える「奇跡」って、なんだか、そういうものなんでしょう。ここでもうひとつ、思ったのは、日本人の場合、演奏する人とか、作曲家とかね、そういうほうが問題になって、聴いてるほうは主人公じゃないんです。だけど、この場合、聴いてるほうがいなくなった時に、音楽が一緒に出て行っちゃう、ついて行っちゃうんですね。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「養老 だって、我々はもう客観的な世界に慣れちゃってるけど、あれは神の視線ですよ、客観視してるんですよ。何でも統計でやってますけどね、統計的に見ている世界って、神の世界です、上から見てるんだもの。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「養老 いろいろ感覚の話をしてきましたけど。もうひとつね、余計なことをつけ加えると、私、「ヒゲ」をずっと調べていたんです。あれ、ゴリラまであって、人間になるとなくなるんですね。動物のヒゲって、じつは「感覚器」なんですよ。根元に相当数の神経が入っていて、ものを感じているんです。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
「つまり、もうさっきから話してるように、都会っていうのは人の住む場所じゃない。だとすれば、企業に所属しながら、何らかの仕事をしていくためには、都会にある程度の日数、いる必要があるんだとしたら、それは仕方がない。だけど、都会とは違う場所に、自分が生きる場所をもうひとつ、ふたつ、つくったらいいと。しかも、それこそ IC T(情報通信技術)を使えば、連絡はすぐ取れるわけですから、人の移動にしたがって情報っていうのはきちんと共有できるはず。そうすると、新しい、しかも面白いコミュニティっていうのができるはずだと思うんですよ。それを僕は「二重生活のススメ」、養老さんは「参勤交代」って言っているわけですよね。それはね、制度上のちょっとした改正でできるはず。」
—『虫とゴリラ』養老 孟司, 山極寿一著
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言葉は、力なんだなんて思うと、間違うんだろうなあ
言葉で表現できるものはごく一部にすぎず、言葉だけで信頼関係をつくることはできません。だから、頭の中では言葉を通じて仲間とつながっていても、身体がつながっている感覚が得られない。逆にいえば、身体でのつながりを得ていないために、言葉にこだわってしまう。「そもそも言葉と身体は 一致することがないものである」ということを理解できずに、一致を求めてさ まよううになりました。(本書より)一つは、言葉は抽象化されたものだということ。誰かと話をしていても、それは出来事すべてを表しているわけではなく、出来事をいったん言葉という抽象的なシンボルに集約してそれを再現しているだけのものです。実際には、言葉だけで相手の感情はわかりません。(本書より)言葉の限界をこう端的に言えてしまえるのは、言葉を持たないゴリラと一緒に生活した山極先生だからなのだろう。もっと難しい言葉で綴った文学論のようなものは過去に読んだ気がするが、明晰な説明の本書を読んで目から鱗が落ちた。言葉は、力なんだなんて思うと、間違うんだろうなあ。 -
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こちらは「ゆる言語学」に出演していたシジュウカラの鈴木先生の本を、パーソナリティの水野さんが本業で編集者として関わった本、ということで読んだが、図らずも日曜天国の常連、村上先生のアリの本とも共通するものがあって面白かった。
シジュウカラの単語、文法、混群(他の種)の言葉もルー大柴的な発想で自分の文法に入れて理解している、等々の話と、ゴリラや霊長類のコミュニケーション。
山極先生、鈴木先生ともに、二人の考えは人間の基準で動物を測らない、というところに軸足があり、そこから人間固有の能力が絶対に良いものとは断定せず、考えているところが面白い。最後は、暴走する言語に弄ばれる人類についての考察になっている。確かに、身体性という側面がすっかり忘れられていて言葉だけで通じると思っているが、文字だけの身体性のないコミュニケーションがどれだけ軋轢を生んでいるか。ギスギスするやりとりも顔を合わせて一言やりとりすればすっきりする経験は日常茶飯事だ。行き詰まった時は、一歩歩み寄って話しかけよう、子供には音楽や踊りの喜びを教えてあげたい、と思って読み終えた。
ところで、ハッとしたのは人間のダンバー数(150人)のあたりのくだり。猿や類人猿の群れに比べて人間は一人の人間が社会でさまざまな顔を持ち、知らない群れの人とも仲良くなれる。とあるが、クラスの中のグループ対立、ママ友グループ、すぐに「マウントをとる」一定の人たち…と色々(自分が)群れが苦手な原因を考えると、「結局、人間ってまだまだ全然猿じゃん!」と思ってしまった。あのPTAや幼稚園ですぐ固まれる人たちのコミュニケーションはグルーミングだったのかー!!そう考えると、私は野生だったら即死してたと思うけど、動物としては進化してるんじゃないかなんて思って自分を慰めた笑 -
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「僕には鳥の言葉がわかる」がおもしろかったので。
鳥になった研究者とゴリラになった研究者による対談集。
↑この説明だけで、もうすでにおもしろい。
動物たちが「おしゃべり」していると思われる調査結果についての話から、
果ては「人間とは何か」という話にまで及ぶ。なんて濃密な会話...。
あくまでも、動物の言語が人間の言語に劣っているわけではない という見地から、
「人間のもつ言語の特異性は 今 ここにないもの を説明できること」という指摘が出たことに感動した。
また、文字というのは人間の生み出した素晴らしい発明品である と共に、
文字によって分断や思い違い・炎上も起こっているのではないかという指摘については、もっと考えてみたいと思った。
文字というものを愛している私からすると、文字そのものよりは、文字の奥にある生の人間の身振りを汲み取れない心のほうに問題があるのではないかと思う。
あるいは、文字を捨てて私たちは踊ったほうがいいのか。それを思うと、Twitterの次にTikTokがあるのは必然的なのかも。 -
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激しく共感
人間の住居は家族や共同体の信頼関係を反映する場所なのである。だから、人間の住居で雨をしのぐやれだけではなく、外からの視線を防ぐ壁がある。
アフリカの奥地の熱帯雨林で訪問した村は、道沿いに家が立っていて、1番奥に村長の家、真ん中付近にバラザと呼ばれる集会所があった。法務局はまずこのバラザに立ち寄り、自分の素性や旅の目的をまず説明し、村長に挨拶することになっている。
家の構造もそこで暮らす人々の人間関係を表していた。
しかし現代の住居は人間関係を一切考慮していない。いくつかの住居のモデルがあって、それを個人が自分たちの生活設計に従って選ぶ。住居を作る側がそこで得られる利便性と夢を解説し、住む側はその条件が自分の希望に合うかどうか判断するだけである。両者が合意すれば、住居はモデルに従ってまた瞬く間に建てられる。
私が子供の頃はいろんな人の共同作業で家が立っていた。
家は個人の所有物となり、外の世界と隔絶する場所となった。
昔とは逆に人間関係を規定し、個人や家族を隔離し、社会のつながりを分断している。
子どもたちは今、知りたい事を人から学ぶ必要がない。
学びの方法が変われば、教え方も変わらざるを得ない。子どもたちは知識を人に求めてはいないので、知識を与えるだけでは信頼も尊敬もしてくれない。
現代は、知識そのものではなく、実践する力や考える力を教える時代である。
人と関わりを持ちながら、他者のなかに自分を見つける楽しさを知ってほしい。そこに新しい時代の信頼と学びの場が開かれるのではないか。
おわりに
京都大学総長
大学はジャングル
ジャングルは地上で最も生物多様性の高い生態系であり、常に新しい種が生まれる。大学も社会で最も多様な知性がすむ場所で常に新しい考えが生み出される。
研究者たちは自分の分野は熟知 他の学者が何をしているかはよく知らない それでも共存 大学が許容性の高い場所だから
ジャングル 太陽光と水
大学 社会の支持と資金
世界一になろうとしている研究者や学生
ジャングルの王者 ゴリラと付き合い慣れている
大学の猛獣たちともうまく付き合える
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ゴリラが胸をたたくわけ
- カート
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試し読み
Posted by ブクログ
ゴリラがむねをたたくのは、「ほんとうに戦いの宣言なんだろうか。」そんなぎもんをいだいた山ぎわさんが、ゴリラとともに暮らし、かんさつして気づいたことを教えてくれる。
ゴリラって、とても友好的で、平和をもとめているんだな。遊ぶ方法だって、すごくやさしい。大きなゴリラは自分の力をおさえて、小さなゴリラにあわせるんだって。
人間は、ゴリラから学ぶべきことがたくさんあるなあ。
100年以上前、人間がゴリラへまちがったイメージをもち、それを広めたせいで、たくさんのゴリラが殺されてきた。こうした人間のおろかなこういへの、ちょしゃのしずかないかりと、ゴリラへのあいを感じられた。
「もし、19世紀の探検家たちがドラミングの正しい意味を伝えていれば、ゴリラたちの平和な暮らしがもっと早くわかっていたことでしょう。」