「虫(養老)とゴリラ(山極)」は分かりますが、このタイトルはチョットねって思いました。
人間の社会はこれでいいの?虫とゴリラの視点で人間のおごりに物申す。という内容の本です。
今まで山極寿一先生の著作は未読なので、養老先生との対談形式なら山極先生の知識や思想を知るのに良いかと思い読んでみました。
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芸がないと感じた「虫とゴリラ」というタイトルですが、山極先生が「と」について語る場面がありました。
西洋の「a」and「b」は、 「a」か「a」ではない「b」であるが、日本の「a」と「b」は、その2つが同じ価値観を持って相互を了解し合える関係になるのだと。
この発言があったから、『虫「と」ゴリラ』というタイトルにしたのだと勝手に決めつけました。
このお二人の価値観はおそらく似ていて、対話を読んでいてもすべてを言わずとも分かり合えている感じがします。
もう少しやさしく(知識レベルと価値観が違う)読者にもわかるように説明して欲しい箇所もちょくちょくありました。
見方を変えると、この両者はお互いに新しい発見は見出しにくい間柄なのかも知れません。
お二人が広範で深い知識を得た背景には、身体を使った豊富な体験が基盤にあることが良く分かります。
情報の蓄積が進んだ現在、虫や植物は図鑑やインターネットで調べればすぐに見ることができます。
それではダメで、「虫捕り」や「植物採集」ができる場所に行かないと本当の自然を理解することはできないと力説しています。
自然の中では、嗅覚や触覚や聴覚など持ちうる全ての感覚を駆使しているのでインプットの質と量が違ってくるのは当然ですね。
ところが、人間は自然を壊し過ぎたと嘆いています。
技術が進歩し、できなかったことが「できるようになる」と人間はどんどん「やっちゃう」。
野山を切り崩し、ビルや道路などを作りすぎた。
その結果、昔はめったに出遭うことのなかったサル、シカ、イノシシが近年人前に現れるようになった。タヌキやクマも。
自然現象に法則性を求める試みが行われているが所詮無理であり、自然を情報化すること自体がそもそも間違いだと養老先生は言います。
「ここにある虫が飛んできた。何が起きますか?」って、わからない。
確かに、いくら科学が進歩しても宇宙や地球や自然については分らないことだらけです。
例えば、一本の木があって、枝がどのように伸びて、葉がどのように茂るかということすら永遠に分かりそうにありません。
本対談の後半部では、虫やゴリラから離れて人間の愚かさを憂いています。
未来の社会にとって大切なことは、安心を保証することですが、現在はそれが大きく崩れています。
技術の進歩は安全を作ることができますが、その安全を安心にできるのは人です。
ところが、現代は人への信頼が揺らいでいます。
本来信頼を作るためのコミュニケーションが信頼を壊す作用を持つようになってきたからです。
政治でもビジネスでもフェイクが流行り、信頼が破壊されています。
人を判断する時は、結局言うことじゃなくて、やっていることで判断することになります。
言ったことはやらないで、反省するそぶりもない人を信頼し将来を託すことはできないですから。
安心に対する保証が感じにくいのは、自然への信頼が揺らいでいるせいでもあろうというのは本書らしい意見ですね。
自然とも感動を分かち合う生き方を求めていけば、崩壊の危機にある地球を救うことができるというのも同感です。