山極寿一のレビュー一覧
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友人に誘ってもらい始めた読書会の第一回選書。
話す中で見えてくることがあって、この感じは中学生ぶりくらいで新鮮だったなあ。アウトプットとして、2本のコラムを書きました。(以下概要)
「関西人の対話術」
ボケはツッコミを要求し良いツッコミはボケを生かす。ということで関西人(デカめの主語)は会話を対話に昇華する、対話のうまみを誰よりも知っているのではないか。
「ごはんに夢中な君に夢中な僕に夢中な君」
類人猿と人を分けたのは対面行為と食事。どちらもシェアだけれど、誰とでも至近距離で対面するゴリラと異なり、人間は家族か恋人など限られた間柄でのみ。そこで、食事(や広い意味ではその他会話のネタも)を介して対面の状況を作り出す。食事はカジュアルからフォーマルまで汎用性の高いコミュニケーションツールだけど、話に夢中で食事がままならないより、同じ食事に夢中になった方がもしかしてビジネスもデートもうまくいく、かもしれない。おいしく食べる君が好き、だ。
次回はメンバーも増えるのでたのしみ! -
Posted by ブクログ
自分はバリバリの文系なので、理系的な考えが足りないと日々感じています。
この本では、霊長類の中でも最も人に近い生物、ゴリラと人類を比較して、テクノロジーによって失いつつある「野生」について語られています。
ゴリラとの生活はカルチャーショックを受けるほど刺激的で、ゴリラの子どもと、シルバーバックの話は、目に浮かぶようで面白い。
頭ばかりを働かせているようでいて、現代人はものを考えなくなったし、常に情報に翻弄されて、自分の意思を持つことが難しくなっている。
人間が一度につながれる限度は150人という具体的な数値がまず衝撃的でした。
SNSで、何万人というアカウントを持っていても、脳の観点から言うとキャパオーバーをしているらしい。
沢山情報がありすぎると均一化した情報が欲しくなり、多様性が失われてしまう。
加速的にテクノロジーと社会は進歩しているようだけど、ヒトとしての能力は退化しているのだと思うと、なかなか恐ろしかった。
未来のユートピアの話もあり、希望も持てる。 -
Posted by ブクログ
越前屋俵太がナビゲーターになり、京都大学の「変人」教授達がそれぞれの専門分野で突き詰めたものを語る。タイトルは刺激的だが、内容は分かりやすく、かなりまともなことが書かれている。
啓蒙的な話も多い。「不便だからこその良さ」「安心安全という情報に頼りすぎる危うさ」など。世の中が便利に、どこかギスギスとした安心にすがりすぎると思考停止に陥ってしまうという警告にも読み取れる。
逆に「自由に手に入らない」ことが、人々の欲を引き寄せることも考えさせられる。独りよがりはいけないが、程よい不便は人の気持ちを活性化させることを仕事にも活かせないか、そんなことを考えながら読んだ。 -
Posted by ブクログ
ゴリラ生態研究記! タイトルの内容は主に最終章
タイトルから人間社会について論じている本かと思いきや、そうではなく、その前段階として類人猿(ゴリラなどのサル)の社会を学び人間と比較することが人間社会の起源を検討する上で重要だとしています。
そのため、筆者のゴリラ研究での経験談が存分に語られています。
●印象的だったところ
・二十数年ぶりに合ったゴリラが筆者を覚えていて童心に返る行動をした
・人間社会はサルのような個人主義に向かっている
サル社会は厳しい上下社会。個人主義の生活が家族やコミュニティからの束縛から離れて良いと思うかもしれないが、平等さは失われる。
・人間の技術がどんなに進歩しようとフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションは失われない。
・・格差社会の原因は個人主義の隆興によるものが根本的なものの可能性があるが、古代から人間社会の基礎となってきた家族や地域コミュニティがなぜ疎まれるようになってしまったのだろうかということについての著者の見解が知りたかったなと思いました。(そこは専門外なのかもしれませんが)
ワークライフバランスが今後発展して、「個人で」働いて「家族などのコミュニティ」での時間を大切にするとなっていったとき格差はどうなるのか?
そんなことを考えさせられました。
●余談
他の方も書いていますがもっといいタイトルが合ったと思います笑 -
Posted by ブクログ
「虫(養老)とゴリラ(山極)」は分かりますが、このタイトルはチョットねって思いました。
人間の社会はこれでいいの?虫とゴリラの視点で人間のおごりに物申す。という内容の本です。
今まで山極寿一先生の著作は未読なので、養老先生との対談形式なら山極先生の知識や思想を知るのに良いかと思い読んでみました。
芸がないと感じた「虫とゴリラ」というタイトルですが、山極先生が「と」について語る場面がありました。
西洋の「a」and「b」は、 「a」か「a」ではない「b」であるが、日本の「a」と「b」は、その2つが同じ価値観を持って相互を了解し合える関係になるのだと。
この発言があったから、『虫「と」ゴリラ』というタイトルにしたのだと勝手に決めつけました。
このお二人の価値観はおそらく似ていて、対話を読んでいてもすべてを言わずとも分かり合えている感じがします。
もう少しやさしく(知識レベルと価値観が違う)読者にもわかるように説明して欲しい箇所もちょくちょくありました。
見方を変えると、この両者はお互いに新しい発見は見出しにくい間柄なのかも知れません。
お二人が広範で深い知識を得た背景には、身体を使った豊富な体験が基盤にあることが良く分かります。
情報の蓄積が進んだ現在、虫や植物は図鑑やインターネットで調べればすぐに見ることができます。
それではダメで、「虫捕り」や「植物採集」ができる場所に行かないと本当の自然を理解することはできないと力説しています。
自然の中では、嗅覚や触覚や聴覚など持ちうる全ての感覚を駆使しているのでインプットの質と量が違ってくるのは当然ですね。
ところが、人間は自然を壊し過ぎたと嘆いています。
技術が進歩し、できなかったことが「できるようになる」と人間はどんどん「やっちゃう」。
野山を切り崩し、ビルや道路などを作りすぎた。
その結果、昔はめったに出遭うことのなかったサル、シカ、イノシシが近年人前に現れるようになった。タヌキやクマも。
自然現象に法則性を求める試みが行われているが所詮無理であり、自然を情報化すること自体がそもそも間違いだと養老先生は言います。
「ここにある虫が飛んできた。何が起きますか?」って、わからない。
確かに、いくら科学が進歩しても宇宙や地球や自然については分らないことだらけです。
例えば、一本の木があって、枝がどのように伸びて、葉がどのように茂るかということすら永遠に分かりそうにありません。
本対談の後半部では、虫やゴリラから離れて人間の愚かさを憂いています。
未来の社会にとって大切なことは、安心を保証することですが、現在はそれが大きく崩れています。
技術の進歩は安全を作ることができますが、その安全を安心にできるのは人です。
ところが、現代は人への信頼が揺らいでいます。
本来信頼を作るためのコミュニケーションが信頼を壊す作用を持つようになってきたからです。
政治でもビジネスでもフェイクが流行り、信頼が破壊されています。
人を判断する時は、結局言うことじゃなくて、やっていることで判断することになります。
言ったことはやらないで、反省するそぶりもない人を信頼し将来を託すことはできないですから。
安心に対する保証が感じにくいのは、自然への信頼が揺らいでいるせいでもあろうというのは本書らしい意見ですね。
自然とも感動を分かち合う生き方を求めていけば、崩壊の危機にある地球を救うことができるというのも同感です。 -
Posted by ブクログ
アートの起源は何かに憑依して、その心になって世界を見つめ直すことだと私は思います。つまり「垣根を越えた」感覚は、アートの発想に繋がるのではないでしょうか 泰然自若 人事不省じんじふせい こうしたネゴシエーションの能力は「食卓の戦争」の機会を与えられなければ開花しません ただ遮二無二やるだけではダメで 諦めたくないものは様々ありますが、あるものを諦めたとしても次に向かうところは違う自分の可能性を引き出せる場所かもしれないし、それもいいんじゃない?と思えるかどうか。いつまで経っても人間は、色々な可能性を持っていられる。それが人間です。人間って、そういうものだと私は思っています。 それはそもそも人間が「幻想」を持つ動物だからだと思います。遠い未来を見てしまう。夢見てしまう。 人間だけが未来への希望を持ち、未来への価値観に懸けて結果が出るまで時間を使うことができるのです。 小田実の『何でも見てやろう』や寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』が人気を博し