松永美穂のレビュー一覧
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「幸せって、もっと違うものだと思っていた」
衝撃的なタイトルに惹かれて手に取った。サーカスの家庭に生まれた俳優、作家のヴェテラニーの自伝的小説である。
ヴェテラニーは1962年にルーマニアで生まれ、5歳の時にチェウシェスク政権を逃れて家族で亡命。サーカス芸人の両親、姉、おばさんの5人で各地を転々とする。暴力的で粗野な父親とエキセントリックな母親。父親は我々の基準で言えば性的にも異常者である。母親は金持ちになることを夢見て確信的な言い方をするがそれはどれもズレている。学校にも行かずそうした環境で育ったヴェテラニーの社会は我々の生きる社会とは全然違うのである。
両親もおそらくそういう環境で育ったのだろう。ルーマニアからの亡命者、サーカス芸人の家庭、そこでの常識とは一般社会の常識とは違う。そしてそれを子供の時の目線でその発想、感情のままに呟き、書く。
我々が書くと我々のリアル社会の常識人から見たおかしな世界になるが、当時の彼女の世界の視点で書かれるから、逆に社会で暮らす人たちの思考が少し違うことに気付かされる。そしてその違いが苦しくなる。
山に捨てられて猿に育てられたマリーナ・チャップマンの「失われた名前」を思い出す。猿に育てられたマリーナが人間社会に慣れるのに苦労したのと同様の苦しみだ。
タイトルの子どもがおかゆの中で煮えているというのはお姉さんがヴェテラニーにするお話である。なぜ子どもがおかゆの中にいるのか、この話はその後どうなるのかをヴェテラニーは想像する。面白いのは、読み進むうちにこの衝撃的なタイトルが彼女を指していることに気づく。10代の彼女はこのタイトルのように煮詰まっていくのだ。
この話は彼女が15才でチューリッヒに定住するまでの自伝である。その後彼女はドイツ語を学び、演劇学校を出て俳優になり、文筆活動をし教壇にも立った。しかしこの作品を書いた後に精神的に不安定になり39才で入水自殺をする。何があったのかは我々にはわからない。
冒頭に抜き出したように幸せのイメージが違ったのか。猿に育てられても文化の衝突や本人の葛藤の後で幸せに暮らしたマリーナと、ヴェテラニーとの違いがどこにあるのかはわからない。全く別の原因なのかもしれない。
「わたしたちは生きてる時間よりも死んでる時間の方がずっと長いんだからね。だから、死者は生きてる人より幸運が必要なのさ」
ヴェテラニーは神の捉え方も生と死の価値観も一般常識とは違っていた。文化はすれ違う。このあたりが思索的でかなり面白い。
ラストは父が家族に演じさせて撮影した映画のワンシーンが語られる。家族の終わり、少女時代の終わり、小説の終わり、彼女の居場所の終わり、すべての終わりが象徴的に語られて幕を閉じる。 -
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たわいもない物語といえばそうかもしれない。でもとにかく心が洗われるのだ。主人公のハイジ、まさに純粋無垢。こんな素晴らしい子供がいたら周りの大人も皆変わっていくだろう。頑なだったお爺さんが典型。もともと素晴らしい人だったのかもしれないが、ハイジと暮らし始めてすぐに変わっていく。
しかしこのあとハイジが大人になったらどうなるのか。お医者さんをずっと見守っていくわけにはいかないと思うのだが。夢を破るような物語を作者は書くわけにはいかなかったのであろう。
この物語をスイスで読む。マインフェルトへは行けなかったが、ハイジの住むような村はこうだろうと思わせるようなところがいっぱいある。素晴らしい。 -
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朝井リョウさん推薦本。
(朝井リョウに最近傾倒しすぎている…けど未知の文学や作家さんに出会えたりするのでやはり推し作家が1人でもいると世界が拡がって楽しい有難い)
めちゃくちゃ良かった………
ドイツの作家さん。ドイツって無骨でビジネスライクな印象で、こんなにも繊細で柔らかな筆致の書き手がいるんだなぁ、いや翻訳家さんの底力か?と思いながらするする読み進められた。
千早茜さんに似てるなぁ、なんて思っていたら
「ミヒャエルとの再会後、帰宅したザビーネはペンダントのついた金の鎖をアクセサリー用の箱にしまった。しかし、ミヒャエルの死後、それを取り出して、毎日身につけている。」
↑この文章を読んで、以前どこかで読んだ小説の締めくくりと対比になっている!なんだっけあの小説?!と思い色々遡るとやはり千早茜さんの『正しい女たち』の中の短編である『海辺の先生』の締めの一文、
「万年筆は、インクを入れたきり、ひきだしの奥で眠っている」
との対比だった…!!!感動。
この一文、読んだ当初も「この終わり方めっちゃいいいいいいいい」と感想をつけてた。笑
過去に読んだ小説の何気ない一文が、他の本を読んでいるときにフッと湧きあがるとき、最高な体験だなぁと思う。そして読書日記つけてるメリットはここにある。 -
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ようやく読み終えた。ナチス時代、母親ほどの年の差のある女性と15歳の少年との大人の恋愛、と戦後のナチスの犯罪を裁くところ、戦中派親世代と戦後派との戦争の向き合い方、戦争責任の認識の差をもう一方の軸とした社会派の恋愛小説。作者が真摯に第三帝国(ナチス時代)のドイツ人の行為を背景に本の持つ力を著してます。いい読書体験でした。
なんで死ななければならなかったのか。長期に亘るに服役を全うし、字も読めるようになり、本を読み新たな世界を獲得可能に世界は広がったのに。ミヒャエルは法律家がために世の中を達観して俯瞰してみるように、ハンナに対しても直接的な愛情を表現できなかったのではないだろうか。ハンナが亡くなって泪を流したこと、十年以上にわたり本を朗読して彼女の刑務所に送り届けたのだから。ハンナへの愛は失せてなかったと思う。やはり、本が読めるようになり、世界がひろがり人間愛を噛み締めて、ホローコーストへの償いなのかな。
シュリンクは1944年生まれの作家だけど、日本にはこの世代のこのような本があるのかな。
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簡単に言ってしまえば自伝的悲劇なんだとは思うが、ヘッセ自身の幼少期は悪いことばかりってわけではなかったのだろうなと思う。
ハンスの育った町や神学校、工場といった舞台と、それらで関わってゆく人物たち。今作では彼らについては基本的には冷ややかな視線で描写されているが、そんな冷笑的な中にも田舎の素朴な美しさであったり、(結果的にハンスを追い込むきっかけとなったが)学問の奥深さや知識を得ることの喜び、一筋縄ではいかない同級生たちの個性や“ノリ”、労働者階級のガサツながらも誇らしい一面をもっている気風だったりと、どのステージでも魅力的な要素も忘れられていない。
物語は悲劇を辿るが、これが創作でなかったら、どの場面においてもハンスはコミュニティに適応できて幸せになれる余地が残されていたように思う。
だから、あらすじから伺える内容のわりに読んでてめちゃくちゃ楽しいし引き込まれるんだと思う。 -
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映画の方を先に見て、ずっと読みたかった作品です。
少年時代の年上の女性との濃密な恋愛、そして突然の幕切れ。
相手のハンナは、魅力的であり、エキセントリックなところありで、主人公ミヒャエルの心に一生住み続ける。
ミヒャエルのハンナへの想いは、「純愛」という綺麗で単純な言葉では表せられない複雑なもので、物語の底を流れ続けるが、この作品はこの恋愛話だけが主眼ではないように思えた。
本作は、ホロコーストという重い題材を扱っているが、読みにくさはなく、中盤のミヒャエルとハンナの衝撃の再会からは、(結末を知ってはいたが)先が読みたくて仕方ない衝動に駆られた。
ドイツの戦後世代の抱えるジレンマも勉強になりました。 -
Posted by ブクログ
お父さんは道化師、お母さんは髪で高いところにぶら下がる曲芸師、お姉ちゃんはフリークス。ルーマニアから西ドイツへ亡命したサーカス団一家の末っ子の目から見た世界を感覚まるごと体験させられるような、痛く苦しいジュヴナイル。
正直に言って、読むのが辛かった。一章一章は断章的かつぷつんぷつんと途切れがちな文体で、文字量でみれば短く軽い作品なのだけれど、読みながら、そして読み終えてから心に溜まるものはとても重い。それから解説を読み、この重みを受け止め苦みを噛み締めていくのが読者の使命だと思った。
サーカスは非日常の象徴だ。私も子どものころから『ダレン・シャン』にはじまり、アンジェラ・カーターの『夜ごとのサーカス』やキャサリン・ダンの『異形の愛』といった、サーカスを舞台にした作品をファンタジーとして楽しんできた。これらの作品はサーカスという興業の薄暗さを書き留めながらも、ショービズの華やかさ、虚構の上に成り立つ真実の痛快さをも描きだし、結果的にはキラキラとしたステージの幻影が心に残るものだったが、本書のサーカス観は全く違う。芸はいつも死と隣り合わせで、観客席に座る人びととサーカス芸人たちの生活は断絶している。「わたし」はステージから目を逸らし、お母さんが一刻も早く危険な芸を終えて無事に戻ってくることを祈って待っている。この途切れない不安と緊張感が彼女たちの日常なのだ。
そんな移民でありサーカス団員であるという二重の放浪生活を当たり前に過ごしてきた姉妹が、突如施設に放り込まれる。清潔で健全な世界に存在する違和であり、〈子どもらしさ〉の規範からはみだし続ける二人は大人たちに疎まれ、新しい環境に慣れることができない。施設での「わたし」は、たとえばもっと受動的なタイプの子を主人公にした物語のなかで主人公に大人びた助言を投げてくれるパンク少女のようだ。こういう子が脇役として物語を降りていったあとの運命がこの本ではしっかりと描かれる。
それにしても、サーカスを完全に乾いた日常とみなしていた女の子の夢が映画俳優というのは皮肉だ。すべてを淡々と、苦しみとも思わずに生きている「わたし」の感覚が文字を通して皮膚に浸透してくるようだった。もちろん「わたし」は無知なのではない。大人と変わらず〈稼げる〉存在になることを強いられながら育ち、周りが大人になっても子どもであることを欲望され続ける人達の〈当たり前〉がえぐりだされているのだ。「わたし」のお母さんも、お姉ちゃんも、お姉ちゃんのお母さんも、きっと同じように生きてきたのだろう。途中退場してお姉ちゃんを連れて行ってしまった父親のことを忘れて、この母親のことを語りたくはない。
最後にエピローグのように置かれた幻想劇は驚くほどピュアで、初めてまっすぐに表現された幼さに胸を突かれる。『フランダースの犬』のネロが最期に垣間見るルーベンスの絵のような。
おそらく、この本を読み終えた私はもっと憤らなきゃいけないんだと思う。ファンタジーの裏側に存在する、存在し続ける不条理に。けれど、「わたし」を取り囲む一つ一つがこの世の歪みを反映し、その根深さ、救いがたさ、そもそも「救う」という言葉の甘ったるさ、「子ども」という概念がそもそも孕んでいる不自然さなどが押し寄せてめまいを起こさせる。このわだかまりを抱えていくしかない。 -
Posted by ブクログ
ドイツ文学です。
原題はドイツ語で「朗読する男」だったのが、英語訳で出版された時に「The Reader」というタイトルがつけられて、そのまま日本語版では「朗読者」となっています。
読み終えて思うのは、悲しみでもなく、怒りでもなく、もちろん感動でもなく、この複雑な気持ちをどう表現したら良いのか困っています。
これは、個人の意思ではどうすることもできなかった過去の戦争犯罪に巻き込まれてしまった個人が、その人生を狂わされてしまった悲劇の小説だと思います。
物語の前半は、15歳の主人公ミヒャエル・バーグが、ある出来事をきっかけに、母親と言ってもおかしくないほど年上の独身女性36歳のハンナ・シュミッツと出会い、彼女に恋愛感情を抱いて彼女の家を訪ねては男女の関係を重ねる様子が描かれます。
ただ、何故かいつもハンナは「なにか朗読してよ、坊や!」と、ミヒャエルに本を朗読して聞かせて欲しいと求め、ミヒャエルはハンナに本を朗読して聞かせることが習慣となっている関係でもありました。
そんなことが続いたある日、ハンナはミヒャエルの前から突然姿を消します。
ミヒャエルは手を尽くして探しますが見つけることはできませんでした。
その後、大学生になったミヒャエルは、法学部でナチス時代とそれに関連する裁判を研究していた教授のゼミに入ります。過去の戦争犯罪を裁く裁判を傍聴していたある日、裁判所で被告人としてのハンナの姿を目にするのですか、彼女はナチス時代、強制収容所で看守をしていたという罪で裁かれており、ここでミヒャエルは初めてハンナの過去を知ることになります。
裁判を傍聴し続けたミヒャエルは、こう思います。
「彼女は僕を捨てたのだし、僕を騙していて、僕が見ていたような、空想していたような人間ではなかった。それに彼女にとって僕はなんだったんだろう? 彼女に利用された小さな朗読者、彼女を楽しませた小さな愛人?」
などと考えて距離を置こうとしてしまいます。
裁判でハンナにかけられた容疑は、実際に行われた事実よりも重い罪であることが明白なのに、ある理由からハンナは抗弁を全くせず、裁判はハンナに不利に進みます。
しかし、ミヒャエルは、ハンナが全く抗弁しない理由、ずっとハンナが隠していた切ない秘密に気づくと、
その秘密を公表できないゆえにハンナにとって不利に進行する裁判について、ハンナが公平な裁判を受けられるよう、ハンナを助けようと考えます。
私もミヒャエルの良心と行動力に期待しましたが、裁判長に面会できても結局何も行動には移せないまま終わってしまいしました。
いよいよ判決が下る日、ハンナは強制収容所で看守をしていたときの服装(制服姿)で法廷に現れ、潔く判決を受け入れます。
それはハンナにとっての、せめてもの主張であるかのように思え、個人としては善悪を判断する余地のない戦争犯罪すなわちその制服姿で遂行した組織的な行為への裁きとしてとらえる一方で、個人の責任としても受け入れたように思えました。
もしハンナがきちんと教育を受けられる環境で育っていたら、裁判で不利な扱いを受けることもなく、そもそも裁きを受けるような職務に携わることもなく、ハンナの人生は全く異なっていたに違いないと思います。不条理という言葉が頭をよぎります。
ハンナは刑務所に服役中、隠し通していた自身の秘密を努力して克服し、苦労してミヒャエルに宛ての手紙を書くなどしますが、その一方、ミヒャエルは本を朗読したカセットテープを服役中のハンナに送ることはあっても、決して逢おうとはせず手紙すら書かず、ハンナと過ごした過去の事実を遠ざけ意識的に逃げていたような気がしました。ハンナは敏感にそれを感じていたのだと思います。
私はミヒャエルの行動があまりにも身勝手と思う一方で、私がもしミヒャエルだったらどうしただろうかと考えると、複雑な気持ちであることも事実です。
やがて、18年が経過しハンナの刑務所からの出所が決定しますが、私自身もしかしたらと予想してはいたものの、最も恐れていた形で出所することなく終わります。ハンナにとっては、過去の罪の意識、良心の呵責が、そのような結果を選んだ一番の理由と思いますが、それだけが全てでは無かったようにも思います。
何だかやりきれない気持ちでいっぱいでした。
ところで、この小説はなぜこのような年齢差のある2人を主人公としたのでしょうか?
それは後半の、「ナチスドイツ時代の過去の犯罪」を「今裁く」という裁判の場面以降で生かされているのだと思います。
主人公の一方は、過去の戦争犯罪を今裁くことを研究しその裁判を傍聴する法学部の大学生、一方は、過去の戦争犯罪に関わった罪で今裁かれようとしている被告人、という裁く側と裁かれる側に分かれ、しかもその2人が過去親密な関係にあったという構図を考えたとき、この年齢差はやはり必要だったのだと思います。これがどちらもナチスドイツ時代を経験した同世代だったとすれば、ともに過去の罪の意識を共有して、再開した2人に複雑な感情が生じることはなかったのだろうと思います。
そんなことを考えていると、ハンナは当時から罪の意識を引きずっていて、相手がナチスドイツ時代を知らないミヒャエルだから、年齢差があっても愛することが出来たのかもしれないと思いました。ハンナにとって罪の意識を忘れられるひとときだったのかもしれません。
そして、ナチスドイツ時代を経験していないミヒャエルは、過去に恋愛感情を抱いていたハンナのナチスドイツ時代に犯した罪を知った時点で、当時の感情が失われていく様子が描かれています。
また、ハンナの出所前日に一度だけ2人は逢って話をしますが、当時はほとんど意識することの無かった年齢差を、このときミヒャエルが強く感じる様子も描かれています。ハンナもそれを感じたのかもしれません。
冒頭にも書きましたが、やむを得ない当時の状況下で、個人の意思ではないまま関わってしまった戦争犯罪によって、その後の人生を狂わされてしまった悲劇の小説だと思います。
しかし、それ以上にこの小説の大きなテーマと思えるのが、「過去の克服」ということで、国家としても裁判を通じて過去の過ちを克服しようとしており、ハンナ自身も過去の過ちを常に心の中に抱えて続けながら、個人として克服しよう努力していたのだと思います。ただひとり過去の過ちを体験していないミヒャエルは、その苦しみを心から共有することが出来なかった、というのがこの物語なのかなと思います。
あと、余談になってしまいますが、ドイツが今もこれだけ過去の戦争犯罪に向き合っている中で、私たち日本は、ヒロシマ・ナガサキの惨禍を広く世界に訴える一方で、朝鮮半島の植民地支配や中国に対する侵略戦争の加害者意識が希薄なのは、何故なのだろうか、日本とドイツ、歴史認識に大きな違いがあるように、思えてしまいました。