本田由紀のレビュー一覧
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教育、仕事、家族の問題の本質について、構造的に明らかにしており、いずれの論点もうならせられるもの。興味深い。
ただ、指摘は鋭いが、具体的に政策としてどのように落とし込めるのかという点はやはり弱い。それを少しずつ、具体化させたいと思う。
以下、特に印象に残った点。これ以外に、最終章のなかの「親としての在り方」も強く問われた気がする。
・教育の病理:学ぶことの意義自体が問われてこなかった。かつ、自分と自分の家族に閉ざされた利害で動いている→社会の連帯が育ちにくい。
・家族、仕事に対しても意義が問われていない
・柔軟な専門性、柔らかい鎧をもて
・ある組織のメンバーに入れてもらうという働き方が日本の正社員の特徴
・教育の職業的意義=「適応」と「抵抗」という二つの側面がある
・「能力発揮」を社会全体で保障する。 -
Posted by ブクログ
現高校生の者です。少し、自分の経験と照らし合わせながらスクールカーストについて書いてみたいと思います。
僕は、中学生の時どちらかといえば下位層でした。成績は良かったので、完全なる最下位層になることはありませんでしたが、劣等感というのは感じていました。スポーツも得意で無かったですし。
そんな僕に、中2の時転機が訪れます。下位層を仕切ってるような奴が僕に悪口を浴びせてくるので、僕はそいつと関わらないようにしました。どうやったかというと、中位層の人たちと仲良くなるようにしたのです。前述のように、僕は「どちらかというと下位層」であり、もともと中位層にも友達が何人かいたため、その人たちと良く話すようにしたのです。結果として、僕は嫌なやつから離れることができました。しかし同時に、下位層で仲が良かった人たちと話す機会が減りました。これについては、果たしてこれで良かったのだろうかと今も思っています。まぁ中位層になって明るくはなれましたが。
そして僕は、地元の進学校に進みました。(田舎なのでそこまで凄い高校ではないですが)今現在、確かに目立っている人は決まっているなと思います。ただ、この本に書いてあるほど、明確なグループ分けはされてないように思いました。目立っている人とそうでない人でグループはありますが、境目がはっきりとはしていません。つまり、自分の高校ではスクールカーストがそこまで明確ではないのかなぁと思います。(モテる人とモテない人(自分)は明確ではありますが)
だから、この本に書いてあることが全てではないのです。これから、研究が進んで、例外も焦点にされたら良いかと思います。進学校の状況であるとか。僕の通っている学校はオタクが生き生きとしているので、何故オタクがこんなに批判されているのか理解出来ませんでした。逆にオタクじゃ無い人の方が引けを感じてしまうくらいなので。やはり、環境によって学校も生徒も様々なのです。
あと、中位層に関してもっと書いてあっても良かったと思います。個人的に中位層が一番だと思うので。僕は上位層なんかに憧れたことはありません。本の中にも少し書いてありましたが、上位層は批判されて当たり前のような人たちばかりです。5章で先生が上位層を褒め称えているような記述がありましたが、それは間違っていると思います。これは、先生が学校の治安を悪くするのに加担しているようなものです。そんな先生には出会いたくないな…。「下位層の人は使えない」とか言っている人がいたけど、そんなのはその人が意識変えればどうにでもなることじゃないですか。生徒のモチベーションを上げるのが教師じゃないんですか?偉そうなこと書いてしまいましたけれど。
本自体は読み進めやすかったです。興味のある方は手に取ってみるのもよいかと思います。長々と書いてしまって申し訳ありません。 -
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相変わらず熱い本田先生による憂国の書。
「社会の維持さえ難しくなるような危機はもう目の前に迫っている(p4)」で始まり、「多くの人々が「このままではだめだ」という感覚を生々しく抱く度合いが高まっている(p52)」で終わっている。熱いけれど分析は冷静で極めてわかりやすい。
戦後日本の3区分で「戦後日本型循環モデル」がいかに成立・普及し、破綻したか、2つの図と4つの環境要因で明快に説明されている。そして「新たな社会モデル」では従来モデルにはない逆向きの矢印や仕事・教育・家族の3領域を覆う「布団」が示されている。
「このままではだめだ」と思う1人として、それぞれの領域での関わりを意識していきたい。 -
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東京大学大学院教育学研究科教授の本田由紀による職業教育論。
【構成】
序章 あらかじめの反論
第1章 なぜ今「教育の職業的意義」が求められるのか
第2章 見失われてきた「教育の職業的意義」
第3章 国際的に見た日本の「教育の職業的意義」の特異性
第4章 「教育の職業的意義」にとっての障害
第5章 「教育の職業的意義」の構築に向けて
職業教育には、労働への<適応>と<抵抗>という2つの側面がある。<適応>とは、実業系の高校・高専・専門学校で担われてきた文字通りの職業訓練である。<抵抗>とは普通科高校、大学等で学ぶ労働法規、職業選択等に関する適切な情報とリテラシーの学習などである。
明治以降、工業の発展とともに中等教育における実業教育が奨励・拡充され、昭和期には軍需拡大とともに職工の育成も重要視された。戦後に入り、旧来の複線的な学制を廃して単線的な6334制度が導入されたが、それは戦前以来変わらぬ中等教育における普通科教育への憧憬と実業教育軽視の現れであった。1948年から翌年にかけて実施された新制高校の誕生すなわち、複数学科を併置する「総合制」高校の誕生により、実業系高校の数は激減した。
1960年代に入り、ベビーブーム生まれの団塊の世代が高校入学年次を迎えると、時の池田内閣の施策により「経済発展における人的能力の開発の課題と対策」として、高校内での普通科と職業学科の生徒数比率維持ないし後者の増大の方針が出され、これに伴って職業学科の増員・細分化が行われていった。
このような1960年代の制度設計の前提には、財界が推奨してきた「職務給」制度があったが、現実に普及した「職能給」制度により、企業内では特定の職務遂行よりも個々人の総合能力に重きを置いた人事制度が敷かれた。そして、年功序列型の職能制度により、教育現場に対する職業訓練教育の養成圧力が弱まり、職業教育の意義は弱まり、いったん細分化し多様化した職業学科の定員は減少していくことになった。
本書では以上のような第2章で展開されている職業教育軽視の戦後史を辿った後、現状の中等教育・高等教育(大学)における職業教育・キャリア教育の欠陥を第4章で明らかにしている。そして、政策的にキャリア教育充実を図ると名目は立てられているが、実態としてキャリアに必要な技能・知識を賦与することなく、生徒に自己実現のプレッシャーばかりを与えることで、職業教育を受けていない生徒達は「自己実現アノミー」状態に陥っていると指摘する。
「教育と職業」という誰しもが関わり、社会構造の根幹に関わる壮大なテーマに対峙しながら、実証的な論証を試みようとする本書の価値は高い。「労働力実態」を構築する企業が、ホワイトカラー労働者の雇用にあたって、職業的意義を教育に要請していないこの現実をいかに変えていくべきかを考えるのが最も重要な課題であろう。 -
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ネタバレニートは「情けない」「甘えている」などの根拠のない精神論が一般大衆の間に罷り通り、膾炙される中、そんな風潮に異議申し立てをしているのがこの本。
一章では、ニートには、非求職型(仕事に就きたいが、今仕事を探していない)、非希望型(今仕事に就きたいと思わない)など様々な種類があること、各々に様々な背景があって(資格試験準備中、家事手伝い、療養中など)、一概には捉えられないこと、一般の固定観念と異なり、ニートと呼ばれる人の約4分の3が職に対する意欲を持っていることなどが挙げられていまる。
二章では、ニートを敵視する風潮は、97年の神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)により加熱した青少年ネガティヴキャンペーン(若者バッシング)が形を変えたものに過ぎない、と述べられている。殺人、強姦などの少年犯罪が1960年代以降、減少傾向にあるにもかかわらず、パラサイトシングル、ひきこもり、ニートなどの若者に対する偏見と憎悪に基づく青少年ネガティヴキャンペーンが蔓延している風潮に警鐘を鳴らす。
三章では、「働かざるもの食うべからず」などニート問題の責任を本人や保護者に求めてばかりで、社会構造に目を向けているものが僅かしかないことが指摘されている。この章は実に痛快だった。
ニートという語を喧伝することで金儲けしている輩や、ニートを自分より下の立場にいると見なして優越感に浸りたい輩がはびこっているからこれほどまでに、「ニートは情けない」などの戯言がもてはやされているのだろう。
この本は日本社会がいかにニートに対する偏見と憎悪に満ちていたかを身を以て思い知らせてくれた一冊です。この本はもっともっと多くの人に読まれるべきである。 -
Posted by ブクログ
高校生・大学生の就職率が最悪の状況だ。それよりも、失業率も雇用状況も改善の見込みがない。そもそも中途採用の枠すらないのだから、新卒採用枠なんぞもっとないのが当然の成り行きのはずだが、雇用状況が悪い状況では、それに連動して教育も生活も悪くなるのは当然の帰結だろう。コロンブスの卵ではないが、しっかりした収入がまず無ければ、生活することができず、同時に教育への十分な投資もできるはずがない。
著者は、若年層への過酷すぎる就労環境への風当たりの原因を、社会(国家政府・企業)、学校などが「教育の職業的意義」を軽視し、学校現場で十分な教育をしてこなかったからだと主張する(学校現場といっても、教育政策がまずありきだが)。
「教育の職業的意義」とは、序章で「教育の職業的意義」を教えることへの反論に答えている(=再反論)中から見ることができる。ざっくりまとめると、以下のようにでもなろうか。
①これまで会社が大部分を請け負ってきたもので、今ではそれが不可能であること。
②「専門な柔軟性(flexpecially)」を身につけること。
③学校教育という「保護された段階」で選択の練習が可能であること。
④働く者全員が身につけるべき労働に関する基本的知識(制度など…〈抵抗〉の側面)と個々の職業分野に即した知識(〈適応〉の側面)が求められていて、それらを駆使して自分の働き方をより良くしていくこと。
特に目を惹いたのが、各学校で「総合的な学習の時間」などに行われている「キャリア教育」の効果が実感できてないことについてだ。著者の論に、なぜキャリア教育の実効性が不十分と感じるのかという課題がクリアになった。つまり、著者の論を敷衍すると、自分探しや自己分析、自己PR、面接練習に始まり(特に自己分析などの時間がお喋りの場になりやすい)、職業体験、インターンシップ、ゲストティーチャーという活動でも、「将来のことを考えろ」、「将来の自分の進路は自分の責任で決めろ」と「善きものを持たねばならない」という規範をかざすのだが、「ではどうしたら自分の進路を決められるのか」、「どうすれば善きものを持てるのか」という手段・方法が示されず、目標を持ったとしてもそれが「善きもの」という保証を与えるわけではないというわけだ。ここに息苦しさや空虚さを感じてしまい、実感できなくなるわけだ。
「学校は社会の縮図である」と言われる。ならば、「教育の職業的意義」を社会でも再考し、新たなモデルを提示し実行することが急がれる。