宮台真司のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
現代の日本が直面しているさまざまな問題に対して、著者が解決の道筋をクリアに示した本です。
著者には、一問一答式でさまざまな問題に回答を示した『これが答えだ!』(朝日文庫)という本もありますが、本書はそれよりももうすこし説明がくわしく、とくにパーソンズやルーマン、ギデンスといった社会学者たちの考えを現実の問題にあてはめる著者の「手つき」を見て学ぶことができるという意味で、おもしろく読むことができました。
「生活世界」が自明視され、便利な「システム」を利用すると素朴に信じられていた時代が「モダン」(近代)であるとすれば、「システム」が生活世界の全域を覆ってしまい、社会の「底が抜けた」感覚がひろがるのが「ポストモダン」です。ポストモダンでは、人びとは共同体のくびきから解き放たれて、あらゆることが再帰的な自己決定の対象となります。正統化の危機に直面するポストモダンにおいても、社会がまわりつづけるためには「みんな」への「価値コミットメント」が必要です。そして、ミードとパーソンズに始まる現代社会学は、「如何にして「みんな」への「コミットメント」は可能か」という問いを追求してきたのだと著者は述べます。
そのうえで著者は、ロマン主義的な「生活世界」への回帰を唱える「馬鹿保守」を批判し、「システム」の全域化というポストモダンの現状を認めたうえで、「生活世界」を再構築することに向けての再帰的なコミットメントの必要性を主張し、「社会の自立」と「社会的包摂」が急務だと論じています。 -
Posted by ブクログ
再読。この対談は『東京から考える』くらい好きだ。まえがきにもあるように、戸惑いに満ちている気がする。父として、父になれない者として、父になってしまった者としての。時折見える説明原理(独身者に対する子育て支援のロジックとか)について、宮台さんよりあずまんの方が正しかったんだということが、今読み返せばわかる。
時代は自分と直接関係のない(ないはずないんだけど、ほんとは)人間に対して、「そんな人間知るか!」「嫌いだ!」「俺のほうが大変だ」「あたしのほうがえらい」……の合唱になっている気がして、息が苦しい。
『ウェブ社会の思想』の脚注にも通じる話だけど。 -
Posted by ブクログ
2009年出版。
社会学者の宮台真司氏と当時民主党議員の福山哲郎氏の対談本。
ちょうど自民党政権から民主党政権になったときの話だから、まだ民主党が隆盛な時期。当時は自民党が負けて民主党になるのは自明のことだったが、今思うと民主党よ・・・という感は否めない。しかしこの本に書いてあったように、民主党は政策はいろいろ考えていたかもしれないが、政治過程についてやはりまだ未熟だったと言わざるをえない。しかしそれは与党にならない限りどうしようもないのだが。
また、野党はマニフェストで勝負をして、与党は実績で勝負するというのは確かにと思った。メディアは各党のマニフェストを比較したりするが、与党はマニフェストがあるなら、じゃあやれよって話になるから(笑)
自民、民主どうこうもあるけど、やっぱ日本の空気感というか、メディア含め民度が低いというか、今まで自民党政権の間に政治家に丸投げしていたのは、大いに反省したほうがよいと思った。
福山氏が言っていたが、当時の民主党議員は何気ない生活の中で接する人たちに称揚されていたというのは少し驚いた。当時の自分がそんなに民主党に期待感を持っていたわけではなかったから。今では民主党議員は、民主党というだけでかなりディスられたりもしているけど、その中でもできる議員さんは苦境を超克してほしいと思っています。
あと、やっぱり小沢一郎は政治過程や選挙に関しては強いし、原発再稼働を唱えている人は超保守的だし、この本読んでると、クリーンエネルギーにはさまざまな可能性があるのではないかと思えてきた。
本の内容としては、要所要所単語がわからなかったりで、もっと色々知識をつけたいなと思った。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ著者の本は初めて。人間関係や教育、日本の社会や民主主義について章立てして著者の考えを述べています。
関心を惹かれる部分は多かったですが、まずは日本の民主主義について書かれた中での”民主主義の不可避性と不可能性”の部分が印象に残りました。
単語の概念が難しい(ここに限らず…)ですが、”民主的決定であれば正しいということはあり得ないし社会の複雑化に伴って益々あり得なくなる。かといって、一部のエリートに任せてもうまくいくわけでもない。そうなると民主的決定に任せるしかなくなる。” ”この状況を何とかするには、民主的なプロセスで「様子を見る」→そこでの社会学的啓蒙を通じて民主主義を社会的なものにしていく他ない” と。この後半部分は具体的にはイメージしにくいですが、別の個所でこうも述べています。
”社会には移ろいやすい庶民感覚や生活感覚をあてにしてはいけない領域があり、感情的反応から中立的な長い歴史の蓄積を参照できる専門家をあてにすべき領域が確実に存在し(例示で司法制度)、その領域を毀損すると庶民感覚や生活感覚に従う「市民政治」自体が疑念の対象になる。”
この辺りを読んでいて思い出したのは、トクヴィルが150年以上前に主張した民主主義に拙速さを求めるべきではないということ。恐らく日本でしばしば耳にする、”参議院廃止”や”政治にも企業なみの意思決定速度を”などは、個人的にはやはり少々危険な気がします。
他にも、国家(行政)は、”個人の自立”ではなく”社会の自立”を促すべきとの主張や、子育てに関する興味深い主張が展開されています。 -
Posted by ブクログ
「ポストモダンでは、第一に、社会の「底が抜けた」感覚(再帰性の主観的側面)せいで不安が覆い、第二に、誰が主体でどこに権威の源泉があるのか分からなくなって正統性の危機が生じます。不安も正統性の危機も、「俺たちに決めさせろ」という市民参加や民主主義への過剰要求を生みます。
不安や正統性危機を民主主義で埋め合わせるのは、体制側にも反体制側にも好都合です。体制側は危機に陥った正統性を補完でき(ると信じ)、反体制側は市民参加で権力を牽制でき(ると信じ)るからです。」
社会の底が抜けたポストモダンにおいて、関係性の学である社会学に何ができるのかはよく分からなかったけれど、立脚する大地のない思想は根付かないので、いつも上からか下からか眺めているだけなんじゃないかと思われる。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ全体を5章に分けて、それぞれの分野での社会学的な知見を”躊躇せず”書き下ろした一冊です。
かなりディープな領域まで行ってて、門外漢な自分にはbeyond understandingな点ばかり。。。
日本における「社会的包摂」を高めるためには、地域の近接性を軸にした「みんな」への「価値コミットメント」が必要だというのが、一つの大きな主張であったように考えます。
自分の思う方向性といい具合に一致したのがちょっと感動でした。
同時に、まだまだ全然知らない世界があるんだなと痛感させられた一冊でもあったわけで、自分の学をどのように修めていくのかも大いに悩まされます。 -
Posted by ブクログ
東日本大震災、福島原発事故から2年を過ぎても、
いっこうに収束の行方が見えない…
本書は、震災事故1週間めの対談をもとに編まれた一冊。
肝心で不可避な問題点が明晰に言及されていると感じた。
著者の飯田哲也は「あとがき」でこう書いている…
―この国の「旧いシステム」は、あまりにも日本社会を構成する
大多数の善良な人々、とりわけて最底辺層や将来世代への
眼差しが欠けているだけでなく、その善良さを愚弄し、
見下し、しかもそこに付け込んで「寄生」しているとしか思えない。
しかし他方で、それを批判して理想像を美しい論文にまとめても、
どろどろした「現実」に手を突っ込まなければ、
それはエクスキューズにしかならない。
「美しい国」を標榜する現首相は、このどろどろとした「現実」に
どれほど手を入れようとしているのだろう…
いかに美しくコーティングされようと、否応なく
泥水を飲まされるのは、ボクら国民に他ならない。
嫌なものは嫌だ! いらないものはいらない!
すべてはつまびらかにされない情報を、
それでも執拗に追い続け、叫び続けるために、
ボクにとって、本書は有益な一冊となった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレあの震災の日、津波で流されゆく建物や燎原の火に焼かれていく家々を、遠い九州の地からワンセグで見ながら抱いた妙な感情。明らかに「日常ではない」光景に対する、恐怖にもワクワクする気持ちにも似た気持ち。
その後様々な言論誌で見た、「『終わりなき日常』が終わった」という言葉。
例えば東浩紀は、「震災で僕たちはばらばらになってしまった。それは、意味を失い、物語を失い、確率的な存在に帰られてしまったということだ。」という(思想地図βvol.2 11頁より)。
その意味するところは、私にはわからなかった。しかしその言葉には、強烈に引きつける何かがあった。
震災以前に私がなんとなく過ごしてきた「終わりなき日常」って何だろう。そんな疑問にかられて、私はこの本を手に取った。
宮台真司は本書で、共同体が崩壊した後の、強固で閉塞的な日常こそが「終わりなき日常」であると主張する。
自分の生き方が肯定されない、何が正しいのかが分からないという、空洞となった良心には、「ハルマゲドンによる救済」という使命をオウムに植え付けられてしまう。だからサリンをばらまかないためには、何が良いことなのかという問いを一旦棚上げにして(深く考えすぎずに)、「まったり生きる」ことが必要なのだと言う。
なるほど、わかったようなわからないような。
本書を読んで、別の疑問も生まれた。
宮台が本書でその存在を喝破したような、「共同体が崩壊した後の、強固で閉塞的な日常」と、近年流行した日常系アニメの描写に見られるような、何の変哲もないぼんやりした日常とは、本当に同一なのか、ということである。
両者に同一性がない場合、震災後の問題に「終わりなき日常の終焉」を引き寄せて立論するあらゆるサブカルチャー言論は、一種のこじつけの操作を行っていることに他ならないのではないだろうか。
結局、「終わりなき日常」という言葉をアドホックに運用すると、私のように混乱する人が出てくると思う。
(余談)
自己同一性について浮動的な若者は現代に多い。そんな若者が、終わりなき日常の断絶を奇貨として、自らを社会の中に定位させようと試みる。
多くの学生が被災地ボランティアに向かうのも、そういうところに意図があるのかもしれない、といえばあまりに斜に構えた見方であろうか。
(抜粋)
『私たちに必要なのは、「終わらない日常を生きる知恵」だ。「終わらない日常のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵」だ。その知恵を探るために、私は「終わらない日常」に適応したブルセラ世代を調べてきた。その私を「不道徳だ。非倫理的だ」と批判してきた「倫理的な」あなた。あなたのような知恵のない人たちが、「偽物の父親」を登場させ、サリンをばらまかせるのだ。』(114頁)