吉村昭のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ
随分前に、柳田邦男の「零戦燃ゆ」を読んで
全6巻という、あまりにも長くて難しい作品だったため
太平洋戦争モノでも
零戦関係は、もういいかなぁーと思ってたところ
吉村昭の『戦艦武蔵』を読んでしまったからには
零戦も避けては通れないよなぁーと 笑
吉村先生なら、きっと
違う切り口だろうと、期待を込めて…
三菱名古屋航空機製作所で
初めて、艦上戦闘機が制作されたのは
大正十年十月
国産の航空機は存在せず
機体、発動機と共に
外国製航空機を輸入していた
その後も、外国機の制作権を入手して
外国人技師を招聘
その技術指導の元に
設計製作に従事していたに過ぎなかった
日本の造船技術が
世界的な水準を維持していた事と比較すると
航空機製作技術の水準は
欧米先進国から
大きな遅れをとっていた
第一次世界大戦終結後
それまで、木製又は
木と金属の組合せによる機体が常識的だったが
ドイツで開発された
ジュラルミンの製造が
日本を含めた、戦勝国側に譲渡された事で
陸海軍、民間企業を含めた
技術者が、ドイツへ留学する
昭和7年に勃発した、上海事変をキッカケに
国産軍用機製作技術の
自立を目指すこととなった
海軍は、横須賀に
海軍航空廠を設立し
民間航空機製造会社を
積極的に指導するようになった
そんな経緯から
三菱名古屋製作所の首脳部は
五年前に、東京帝国大学工学部航空学科を卒業し
入社した、30歳の堀越二郎技師を抜擢
研究熱心で、一切の妥協を許さぬ堀越は
社内でも、特異な存在として
高い評価を得ていた
入社後
イギリス、ドイツ、アメリカの航空会社を視察
特に、ドイツでは
機体設計研究をした実績もあった
若くして、設計主務者という大任に
当惑と、深い孤独感に陥るが
海軍からの戦闘機に対する
計画要求は、かなりの高水準が要求された
それまで、世界中で主流だった
複葉型の戦闘機から
無支柱単葉型という
独創性に満ちた設計をした
資料が極めて乏しい中
機の細部構造にも、新たな創意を凝らし
七試艦上戦闘機の試作機が完成
二機の試作機は、飛行実験に耐えられずに墜落
死者は出なかったものの
完全に無に化した
再び、海軍からの発注を受けた
単座戦闘機は
空気抵抗を減らし、機体の重量も
出来るだけ軽くすることに努めた
試行錯誤の結果
最高時速440キロ余りという
海軍から要求された速度を
100キロも上回る機を作り上げた
この高速戦闘機は
その後、一部の改良を加え
艦上戦闘機としての実用的な機能も備え
九六式艦上戦闘機として
正式に採用された
その後の飛行実験から
格闘戦性能も、九五式を遥かに越えた
画期的な戦闘機であった
この新戦闘機の出現が
小中型機の設計理念の進むべき方向を示し
一気に、日本の機体設計技術を
世界的水準まで引き上げた
じわじわと世界情勢が緊張感を増してきた中
前回よりも、遥かに厳しい要求を秘めた
「軍極秘」の発注を受ける事になる
速度、上昇力、旋回性能、航続力
離着陸性能、兵装艤装など
全ての要求項目は
互いにその性能を減殺し合う性格を持ち
一流の戦闘機の水準を遥かに越えたものだった
僅かに、余地といえる一点は
操縦席と燃料タンクに対する
防弾措置が無視されているところだった
血の滲むような研究と試作を重ねて
漸く完成した試作機は
牛車二台に分載されて
名古屋の航空機製作所から
各務原飛行場へ運ばれていった
製作所の近接に、飛行場を持っていないために
45キロの道程を、24時間もかけて
各務原飛行場まで
牛車で試作機を運ぶ
速度の速い航空機を
牛車で運ぶという事には
社内でも批判的な意見があったが
道幅が狭く、悪路を進む上で
機体を損傷させないための、唯一の輸送方法だった
欧州大陸では、ドイツ軍の侵攻が続き
日本をめぐる周囲の情勢も
ますます複雑な様相となってきた
中国大陸の戦火は
予想を超えて拡大し
収拾のつかない、長期戦に陥っていた
テスト飛行を、何度も重ね
都度改修を行った機体は
海軍の試乗テストも重ね
順調な成績をもって終了
航空廠と横須賀航空隊で
実用実験を繰り返した
十二試艦上戦闘機は
全ての問題点が解決し
海軍の正式戦闘機として採用された
その年の紀元2600年を記念して
その末尾をとり
零式艦上戦闘機11型と命名された
初戦は、中国重慶上空
陸上攻撃機の爆撃後
中国空軍戦闘機群が、重慶上空に戻って来た所を襲撃
敵戦闘機27機、零戦闘機13機だった
凄まじい空中戦を繰り広げた結果
残存する敵機は無く
僅か10分程で激烈な大空中戦が終わった
零式戦闘機の性能は
予想を遥かに超えた素晴らしいものだった
海軍内部の喜びは大きく
海軍航空本部は
この機を生んだ制作会社に対して
異例の表彰を決定
また、零式戦闘機の将来性を認め
大量生産に踏み切った
11月26日、アメリカ国務長官から
日本に手交された「ハルノート」により
日本陸海軍首脳部は、開戦を決意する
12月1日の御前会議に於いて
開戦日も12月8日と決定
対米英蘭戦に対する作戦計画は
真珠湾攻撃と、陸軍の南方侵攻作戦による
在東洋艦隊、航空兵力を壊滅する事に大別されていたが
そのいずれも、航空戦を主体とするものだった
真珠湾攻撃の奇襲に成功
暫くは、目覚ましい成果を上げていった
三菱重工名古屋航空機製作所では
工場の機能を最大限に振り絞って
軍用機の生産に取り組んでいた
作業面積も7倍に拡張され
工員の数も5倍に達していた
更に、陸海軍の第二次拡充命令によって
新たな航空機製作所の建設や
飛行場、格納庫の建設も計画された
名古屋航空機製作所では
相変わらず、完成した機の胴体や翼を
分載した牛車で運搬していた
それに対し、アメリカでは
大増産計画を打ち立てていた
日本陸海軍が、増産と改造に追われて
汲々としていたのに比べ
多数の優れた設計者達によって
新機種の設計試作が行われ
労働環境の良い工場で
優秀な工作機械も豊富で
航空機の生産は、流れ作業で順調に進められていく
昭和19年秋には
徴用工以外に、女子挺身隊や勤労学徒も動員され始め
部品の供給が、著しく低下してきた
部品や、機械以外にも
あらゆる日常必需仏師の欠乏により
休む間も惜しんで飛行機生産に励んだ
その頃の戦局は、最終的な段階に近づき
世界史上、前例のない
飛行機による、特別攻撃隊の出撃が考案された
前年に、一戦闘機が
B17に体当り撃墜したのを始めとして
翌年、陸軍戦闘機隊四機が
自発的にアメリカ艦艇に突入して
敵艦を撃沈していた
壮烈な体当り攻撃は
たちまち全軍に伝えられ
必死必殺の肉弾攻撃を行わざるを得まいという
気運が濃厚になって来た
そうした中
「零式戦闘機に、爆弾を装着させて突入する」という作戦が
組織的に行われる事となる
日米戦争の、一特徴ともなった
壮絶な体当たり攻撃は
初回の突入に端を発して
規模を大きくしていった
飛行機は、若者を乗せた一種の爆弾と化し
太平洋は、祖国の危機を救おうと願う
若者達の壮大な自殺場と化した
特別攻撃隊の相次ぐ突入は
アメリカ軍の一大脅威となった
殊に、アメリカ軍将兵に与えた恐怖は激しく
夥しい発狂者が出るようになった
やがて、戦局も終盤
沖縄本土上陸を許した日本軍は
あらゆる戦闘機から、練習機に及ぶまで
特別特攻隊として
多くの犠牲者を出した
「中国大陸での戦争から、太平洋戦争の終結まで
代表的兵器の一つであった
零式戦闘機の誕生から、その末路までの経過を辿ることは
日本の行った戦争の姿そのものを辿る事になる
という確信が、私に筆をとらせた」
と、あとがきにあるように
まさに、渾身の作品である
フィクション、ノンフィクション含めて
まあまあな数、戦記物読んできた中で
最高峰と言っても過言ではない
第二次大戦の流れから
日本とアメリカのモノの考え方の違い
ヨーロッパの情勢
設計者の苦悩や、将校達其々の思い
情報を遮断された、市井の人々
などなど
過不足なく、しっかりと描かれている
備忘録がてら、あらすじをまとめようとしても
どの部分も全く外すことができず
読書感想文の体をなしていないのが
我ながら、ほんと恥ずかしい
感情的な部分は、一切排除して
淡々と筆を重ねていく手法は
本作でも、変わらないのだけど
吉村氏が、如何に戦争を憎み
忌み嫌うかが、行間から滲み出ている
戦争を知らない世代こそ
一度は読んだ方が良いと思われる良作である事は間違いない
#吉村昭
#零戦闘機
#戦記物の最高峰
#十二試艦上戦闘機
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#吉村昭
#記録小説
#三菱重工名古屋航空機製作所
#各務原飛行場
#堀越二郎
#この作品は絶対に読むべき
#吉村作品中best3に入る
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Posted by ブクログ
ゴールデンカムイに影響されて読むことにした。
北海道開拓の多くの部分が囚人によって行われていたこと、囚人には、凶悪犯だけでなく、佐賀の乱、萩の乱、神風連の乱、西南戦争といった士族の反乱者・秩父事件などの自由民権運動の激化事件の参加者たちもいたこと、初めて知った。
自由民権運動の闘志が結構収監されてるの、知らなかったな。
「日本の民主主義は戦後、アメリカの占領軍によってもたらされたもので、人民が勝ち取ったものじゃ無いからありがたみが染み付いてない」
っていう言説をよく見るけど、明治から昭和にかけての自由民権運動について知れば知るほど、そんなこと言えちゃうのは悲しいなと思う。
秩父事件、とかもそうだけど、最近読んだ九州の炭坑夫・山本作兵衛さんの記録から見た米騒動とかにも、国民主権を勝ち取るために戦った人達のこと書いてあったもんな。
学校教育で、明治から昭和にかけての自由民権運動・市民運動を教える際の語られ方が変わればそこらへんの認識も変わりそう、と思ったり。
札幌から旭川、旭川から網走までの道は囚人によって拓かれている。
「ボーリングフォーコロンバイン」という映画でマイケルムーアが、アメリカでは囚人を企業のために廉価で働かせていることを批判していたけど、同じようなことが日本でも行われていたんだな。
アメリカといえば、アメリカの囚人の服はオレンジだけど(ネトフリ のオレンジイズニューブラックとか見てもそう)、これは、樺戸監獄の囚人が赤い服を着せられて逃げたら目立つようにしてたのと同じ理由でその色なのかな?
三井の炭鉱などで囚人は働かされていた。
炭鉱のカナリアといえば、炭鉱にカナリアを持ち込み、カナリアが鳴かなくなれば有毒ガス発生として警戒するので有名だけど、この本では有毒ガスの有無を調べるために、囚人が炭鉱の奥まで下ろされている。囚人が気絶または死亡したら有毒ガスが発生している、という判断、えげつない。
幌内炭鉱で働かされていた囚人はほとんど不具者になっていた、という記録を岡田朝太郎博士が残している。
「作業終了の鐘がなると、手だけを失ったものが誘導し、盲人がたがいに前を歩くものの帯を掴んで進み、その後を足の欠けたものが這っていく」
明治の時代の政治や事件と、樺戸監獄の発展が連動して語られているのが面白かった。
金子堅太郎が、囚人を開拓に使うのに積極的な中央の人間だった。囚人を懲戒させられるし、どうせ囚人なので死んでも経費が浮くだけ、といった考え方。
金子堅太郎といえば、日露戦争で講和のためにアメリカに渡った人だったよね。
ニコライ親王を殺そうとした津田三蔵も樺戸監獄に収監されて獄死したの、知らなかった。
海賊房次郎、稲妻慶次郎のエピソードがこの本で紹介されている。
稲妻慶次郎は、体にマムシの入れ墨をしている女賊「マムシのお銀」と同棲しながら強盗を繰り返した。
海賊房次郎の妹よしは鬼神のお松と称された女。房次郎は泳ぎが得意で護送中船から逃げた。
偽札製造で収監された熊坂長庵は、北漸寺に観音像を描いている。今でも現存しているらしい。北漸寺には多くの囚人作の彫刻や装飾があるそう。
西川寅吉こと五寸釘寅吉、監獄から脱獄するも捕まる。70になるまで刑務に服し、満役で出所したあとは、五寸釘寅吉劇団という見世物小屋に勧誘され、台湾含む全国興行をしてまわった。
北海道の経営は薩摩出身の官吏や企業に占められている。官有物の払い下げも薩摩官吏→薩摩企業へと行われていたし、安価な囚人の労働力提供も薩摩企業へ。
癒着だ!と批判されていた。
跡佐登硫黄山で硫黄の採掘に囚人が駆り出された時期もある。硫黄のために、目が爛れ、膿でふさがったり失明したりする囚人が多かった。
囚人が出れるのは、皇族死亡に際する恩赦の時。皇太子が無くなって恩赦が出、多くの囚人が放免になった話はその後監獄内で語り草に。
その後、囚人は街に出るたびに、皇族の様子は変わりないから町の人に聞くようになったという。
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さすがだ
淡々と事実だけを追った筆致だからこそ人間の深い哀しい業を感じる。これだけ読み手を惹きつける文章力はすごいと思う。最近の添加物だらけの文章を書く作家の方に一度是非読んで欲しい。偉そうにすみません。
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銀四郎おやじ
三毛別のヒグマ襲撃事件の事はテレビやウィキペディアで知り、興味を持ったのでこの本を読んでみた。他のレビューにもあるとうり、確かにヒグマ怖えなあと思ったけれど、その怖さは他のメディアで見聞きしたときの方が怖かった。それはこの本がヒグマの怖さを誇張することなく表現しているからだと思う。そこに住む人々の暮らしや、集団の弱さみたいなものを意識しながら読んでいた。何より銀四郎おやじの存在感たるや、ヒグマ以上じゃないかと思う。
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海の史劇について
私は戦史 軍艦 艦船模型が好きで、もう長いことやっています。この本は吉村昭の代表作の1冊です。「戦艦武蔵」も読みました。
吉村さんの知識には脱帽です。まだ半分も読んでいませんが、楽しく読んでいます。日本海海戦での日露の戦い、内容は知ってるが読みやすいです。 -
Posted by ブクログ
上巻に引き続き高野長英の逃避行。発覚した場合自分の家が没落するという大きな危険を孕みながらもこれだけの人々にゆく先々で助けられる姿や、薩摩藩・宇和島藩等までも協力する様子を見て高野長英という男が只者ではないことを再認識させられた。先見の明があり、学のあるものはどの時代も国からは恐れられる存在である。長英も例外なくその1人であるが、この人物が果たして明治維新後も生きていたとしたら日本にどのような影響を与えただろうか、そんなことを考えるととても惜しいことをしたような思いになる。
歴史の教科書では決して語られない詳細の記述により、まるで自分も共に逃避行しているかのようなスリリングな描写に読む手がとまらなかった。 -
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シーボルトが長崎出島で、遊女のお滝との間にお稲という子をもうけ、その子の話。
シーボルトが鳴滝館で、外科を中心に医学を教えたこと、オランダ政府の命で、生徒を使い、日本の地理、学術等を調べたこと、シーボルトが江戸に呼ばれた際には更に詳しい情報を入手したことなど、知らなかったことばかり。
シーボルトは、幕府に見つかり、国外退去となり、関係生徒も罰せられる。
お稲は、あいの子であり普通の生活ができないこと、シーボルトへの憧れから、学問を目指すこととし、愛媛に行き、シーボルトの弟子の家に居候。
そこで、産科医を目指すように言われて、決意し、基本的医学を身に付けた後は、大阪の産科医でシーボルトの弟子の家に居候。
その医師に襲われ、長崎に戻り、タダを出産。タダ1人の子の意味。
長崎で産科医として働く。
日本が、開国に舵を切り、シーボルトが30年振りに来日し、お稲やタダと会う。シーボルトは本国妻との間にできた子供を連れてくる。
幕府は、アヘン戦争を目の当たりにし、開国に舵を切るという合理的選択をするが、長州と薩摩が反対し、尊王攘夷の機運が高まる。
その後薩摩はイギリスと戦争して、完敗し、攘夷はあり得ず、勤皇倒幕に方針転換。
長州は攘夷を維持し、長州征伐を受けるが、近代兵器を購入していたため、負けず。久坂玄瑞ら急先鋒らが処罰され、落ち着く。
坂本龍馬が間に入り、薩摩と長州が手を組む。
坂本龍馬が船中八策を作り、幕府も江戸が戦火に飲まれることを避けるため、大政奉還。
王政復古の大号令。坂本龍馬死す。
しかし、薩摩の西郷隆盛は、戦争により幕府の主導権を完全に失わせようとし、江戸で掠奪を繰り返し、慶喜は我慢に耐えかね、勤皇派と戦争。大政奉還後の主導権争いで、会津藩や庄内藩が抵抗、榎本武揚は函館五稜郭で抵抗するが、完敗。
タダは、愛媛医師の甥の通訳と婚約するが、甥は来日したシーボルトの通訳をしていたため、幕府勤皇派に捕まり、投獄される。その後結婚し、シーボルトの子に日本語を教えたり、監獄医療改革などに取り組むが、死ぬ。
愛媛にいたお稲は、タダにも医学を学ばせようと考え、知人医師に大阪か江戸への送迎を頼むが、その際襲われ、長崎で出産。子連れで長崎で再婚し、更に子をもうける。
お稲は、東京でも、宮中医師などをし、福澤諭吉らと交遊し、70か80で大往生。
明治維新などの流れも分かり、大満足。 -
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文明開化の波が到来した明治期の日本で、時代の先端を行く飛行器の原理を独力で探求し、実現まで残すは動力の問題というところまで辿り着いた二宮忠八の話。
飛行器の研究開発を提案した上申書が陸軍に却下されなければ、ライト兄弟に先駆けて空を飛ぶことができたのか、想像は尽きない。ただ、もし研究開発を続けていれば、資金難や実験失敗による人命の損失などの不幸に見舞われることも十分あり得ただろうから、忠八がその後実業の世界で成功し、子供にも恵まれ、飛行器研究の先駆者として存命中に再評価もされたというのは、運命の綾というか、人生において何を幸せとするかについて考えさせられる。
忠八は、現代に生まれていたとしても、IPS細胞やAI、あるいは自分には思いも寄らない未知の分野で画期的な技術革新をしたかもしれない。今の自分の仕事柄、そういう独創性を持つ現代の忠八のような技術者ともし会うことができたら楽しいだろうなと思った。 -
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「創作する遺伝子」小島秀夫推薦
断崖絶壁の木も生えない火山島で12年余りを過ごし、無事生還した人の記録を掘り起こした素晴らしい作品です。火打ち石が無く、火も起こせない、穀物も植物も取れない、ナイナイづくしの中で生きるすべを編み出し、一人になっても生きる気力を保つ前半部と、後半の帰還への努力と苦悩が深く胸を打ちます。色々なものがありすぎて、すぐに手に入るこの時代にこそお勧めです。
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Posted by ブクログ
日露戦争終結に向け、小村寿太郎はポーツマス講和会議に臨みます。
講話を成立させるために、ロシア側全権ウイッテとの交渉、駆け引きの末に劇的な講和を成立させます。
日本人は交渉下手とよくいわれますが、小村寿太郎の交渉をみると、決してそうとはいえません。
国民の憤懣を呼びますが、日本のために、平和のために、名利を求めず交渉妥結に生命をかけた外相小村寿太郎の物語です。
感動しました!
小村は、欧米殊にヨーロッパ各国の外交に長い歴史の重みを感じていた。国境を接するそれらの国々では、常に外交は戦争と表裏一体の関係にある。外交が戦争の回避に功を奏したこともあれば、逆に多くの人々に血を流させたことも数知れない。そのようなことをくりかえしている間に、外交は、攻めと守りの術を巧妙に駆使し、自国の利益を守るため他国との間でむすばれた約束事を一方的に廃棄することすらある。 そうした多様な欧米列強の外交政策に対して、日本の外交姿勢はどのようなものであるべきかを小村は常に考えつづけてきた。結論は、一つしかなかった。歴史の浅い日本の外交は、誠実さを基本方針として貫くことだ、と思っていた。列強の外交関係者からは愚直と蔑称されても、それを唯一の武器とする以外に対抗できる手段はなさそうだった。 ー 228ページ -
Posted by ブクログ
オランダ語で書かれた『ターヘル・アナトミア』を翻訳した前野良沢・杉田玄白、彼らの作業過程とその後の人生を詳細に描き出した作品。
教科書などでは、この二人がほぼ同列の訳者として記載されているけれど、事実は前野良沢が苦心して翻訳したものを、杉田玄白が整理し文献の形に整えたという風に役割分担がなされていた。
学究肌の良沢は訳を終え、『解体新書』として発行する話を、それはまだ不完全であるからとして喜ばなかった。そのため、『解体新書』の訳者として自分の名を載せるのを禁じた。
そのこともあって、世間の評判は玄白にのみ集中し、彼は八十を超えて大往生を迎えるまで栄華の中にあった。一方の良沢は、傑出したオランダ語の知識がありながら、自らが訳出した他の本についても出版して金儲けすることを浅ましいと考え、老齢に至るまで貧しいままであった。
オランダ語を訳せないながら、蘭医として名声を博した玄白と、オランダ語の権威でありながら貧窮の中にあり続けた良沢。二人の生き方は正反対だけれど、自分は良沢の不器用な生き方の方が好ましく感じられた。