谷川嘉浩のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
書店で見つけて気になり、軽いきっかけで手に取った『スマホ時代の哲学』。
第1章は最初ちょっと入り込みにくさを感じたものの読み進めるほど一気に面白くなっていった。特に「モヤモヤしていること」「はっきりしないこと」「難しいこと」を、すぐ答えにせず、そのまま抱えて進むための視点が印象的。章ごとに“いま自分はどこに立っていて、どんな流れで話が組まれているのか”という土台が示される構成も面白く、比喩や言葉選びも含めて、かなり気を配って書かれている感じがした。
第2章では「自分の頭で考える」という言葉の浅はかさを突かれる。自立しているつもりで、実は空気や借り物の言葉に乗っていないか――その問いが刺さる。
第3章の孤立・孤独・寂しさの整理もとても良かった。孤独のためには孤立が必要、という指摘は、常に“つながる”ことが正義になりやすい今だからこそ効いてくる。情緒を洪水のようにSNSに垂れ流すことで、本当の気持ちと向き合う機会を失っているのではないか、という話もリアルで、ハンナ・アーレントをちゃんと読んでみたくなった。
後半では、趣味=何かをつくったり育てたりして自己と対話すること、そして「自治(自分でルールを作り、守り、育てる)」という言葉が鍵になっていく。ぼーっとSNSを眺めて時間をつぶせてしまうのに、あとからその無駄を嫌悪してしまう――そんな“やわらかな昏睡”から抜け出すための足場として、自治という考え方がしっくりきた。
スマホを悪者にして終わるのではなく、曖昧さを抱えながら、自分の時間と心を取り戻すための言葉をくれる一冊。読後、日々の反射的な閲覧や発信を少しだけ見直したくなった。 -
Posted by ブクログ
・自分の内から起こる、わからないけど、説明しようがないけどなぜかやりたいという気持ちが湧いてきてしまう、非合理的な力。それが衝動。
・偏愛は具体性を持って現れた衝動の一形態。
・知性を持って衝動を理解する。衝動は目的を示す。知性はそこへ向かう方法を計画する。
・自分を多孔質にすることにより、内部・外部と融和し衝動を見つけていくこと。
このあたりの言っていることは、納得感もあったし、実感もあって理解できた。自分も偏愛を丁寧に探していこうと思った。
が、読後感としては、うーんなんか、あまり内容があるように感じなかった。
言っていることは自分の生き方・感覚と近い気はしたのだが、その感覚がうまく言語化できている、という印象を持てなかった。
特に作者が力を入れていた幽霊のメタファーがあまりピンとこなかった。人に取り憑くものとしてのメタファーなのだが、幽霊には理解不能さはたしかにあるが、それが自分の中から湧き上がる情熱であることや、それが大きな力を持って前向きに自分を動かすものである、みたいなニュアンスがないので。
あと、論理の飛躍が多い。そこでそう論を進める必然性なくない?という箇所が多かった。
まず引きたい本がたくさんあって、その本の言っていることをなんとか筋が通るように並べたらこう書けるかな、みたいな書き方に感じた。もちろん作者のオリジナリティの概念や言葉もあるが、既存の本ありきで強引につなげにいっている感をすごい感じた。無理に引用しなくてもいいのに、とか思った。
あと、ここまで長い文章で書く必要のあることだろうか?と思ってしまった。
あえて例を多くしたり回りくどく書いている、と著者自身が書いていた。抽象的な表現を、身に沁みて、しみじみと読者に「ジャックイン」させるためにあえてそうしたとのこと。が、この例これはつまりどのような上位概念を理解するためのインスタンスなんだろう?というのがちょっとわからないことが多かったかな… -
Posted by ブクログ
難しい、理解し難い人や場面に直面した時にすぐに白黒つけたがる節が自分にはある。
モヤモヤした感情を抱えているのはむず痒いし、決断を先延ばしにして時間を無駄にすることもしたくないからだ。
だが、分からないことを深く咀嚼し、モヤモヤを抱えた状態のまま過ごすことで、また新たな(これまでの自分の価値観では到達し得ないような)次元に到達することがある。と言うか、このプロセスを怠ってしまうと、一生自分のステレオタイプに固定され、その反響の中だけで生きて行くことになる。
このモヤモヤを留め、深く咀嚼する能力を著者はnegative capabilityと定義する。
ネガティブ•ケイパビリティを可能にするためには、「余白(孤独)」が重要だ。絶え間なくファストな刺激を提供するスマホから離れ、この余白を手に入れる方法を本書では説いている(=趣味•自分の中の他人と向き合う事)。
抽象的な議論でややわかりにくかったが、所々共感できる部分もあった。もう少し「依存性」について知りたかったが、「哲学」を解く本なので、そのギャップもまた発見かなと。
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•自力思考が平凡なアウトプットに陥るのは、自分がすでに持っている考えを再提出しているにすぎないから。
•今の自分を維持できないほどの大きな衝撃を受けた人は、そこから何らかの問いや謎を汲み上げて、生活を新しく意味づける事で目を背けたい出来事と折り合いをつけ、和解する必要がある。この断ち切れない思いを無かったことにせず、安易に説明をつけずに向き合った経験が優しさである。
•誰かの経験をその人の視点から理解したいと望む時、安易な説明付けや意味づけに回収してはならない。
•寂しさから他者といようとする時、実際に働いているのは「自分への過剰な配慮」であり、「他者への配慮」ではない。
•何かを手に入れたと思っても、そこからこぼれ落ちるものがあることを知っている。「コレだ」と思ったものがもっと深さを持っていて、どこまでも知性を超えて行くと言う洞察が人間の知的探究心を刺激する。
•敵意や強い攻撃性もまた、その他者に対する強い依存の表現に他ならない。 -
Posted by ブクログ
色気ってのは腹が据わった覚悟の有る人間が醸し出すもんだ 知る事の、大切さも無意味さも素晴らしさも恐ろしさも全てこの作品が描いています。 娘ヨレンタがノヴァクの感情の部分に触れる唯一の存在であるのにも関わらず 以降は信念というよりは最早執着 それこそ「アポリア」(相反する二つの見解が等しく成立する場合、解決の糸口を見出せない難問)だと思うんですけど。 ある意味、完全オリジナルを作るという欲望は幻想だったり。もう流石にこの世界には蓄積が有り過ぎるから、どういう組み合わせで更に新しい事があるかなって事を皆探求していると思います。 文化は大きな川の流れであるという事を良く言っているんですけど、文章、文節ってその流れの一部でしかないですよね。 何かにグッと偏ってる 僕には山口さんの世代が、個人と世界を接続する「社会」という中間項を成立させていたように見えるんですよ。 社会性を持つには自分自身のオリジナルな状態を維持しないといけないっていう 人間は結局、回顧主義だから未来のものを懐かしく感じて、過去のものを新しく感じるようなサイクルがずっと続いていく気がする。 地動説への強い憎悪を露わにするノヴァク 自分が『チ。』の物語の悪役だったと気付くところもメタフィクション(フィクションの中のフィクション)的で面白いですよね 『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』という曲を作った時は、サブカルチャーとハイカルチャーを融合させて、日本の詩吟とダンスミュージックとクラシックの三角関係を曲にしようと考えたんだけど、純粋にメロディを作ったり歌詞を書いてる時は、ほぼ「無」でやっていたかも。 尖っている個性の手前にある普遍性をどれだけ腑に落とせているかで その行為を「考古学のようで楽しい」と表現していました 僕の二十代の屈辱が疼くのを感じた 感動させる作品には個々の挫折や劣等感と繋がる瞬間がある気がする 今後の僕等には『チ。』が有る。彼等は僕等が前進する意志と共に戦ってくれる。 今でも多くの国が、天体を国旗のシンボルとして採用し続けているのは、その名残だ。 宗教が信徒に求めるのは教義への「信」だが、科学に必要なのは「信」では無い。寧ろ逆である。科学が求めるのは「疑い」だ。だから『チ。』は「信念」の物語であると同時に、いや、寧ろそれ以上に、「疑念」の大切さについての物語でもある。 叶う方法を探せば道筋は立てられる 昨日礼賛されていた言葉が今日は禁句になっているような毎日なのに 私が変化したという事実からあなたは今何かを受け取ったんです γはその紙資料を所定の位置に戻すと 教会が説く善に従う事は、私達自身の生を断念し、道徳的命令に従う「畜群」として生きる事を暗に意味するからである。 重罰になる可能性をも考慮にいれて 「何故人を殺してはいけないのか」という問いに対して、それを予め封印するような動きを見せる「僧侶」達が私達の周りには今も尚存在しているからである。『チ。』は、フィクションの形をとりながら、現代人がどのような〈嘘〉に隷従を強いられているかを私達に改めて問いただすのだ。 時には手厳しい論駁等も珍しく無かった 〈真理〉は、誤りを無慈悲に宣告する。〈真理〉の正しさは、思いや努力等の人間的な事情とは関係ないところにあるからだ。 朽ちる事の無い静かな衝動を指す事を暗示している 迷いは、変化の兆しがそこにある事を意味している。
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Posted by ブクログ
・文章量が多めで、「読む」ことが必要な本。
・スマホの話が中心だと思ってたいたので、思っていたのとは少し違った。かと言って、がっつり哲学の本かと言われると、そうでもなく。
・エヴァやその他のアニメ・映画を絡めた説明が興味深い。『「エヴァ」は、ポストフォーディズムの経済文化とメンタルヘルスの結びつきを論じた、フィッシャーの議論そのもの』
メモ
・日々の高いストレスに対処する上で、ペン回しや髪いじり、プチプチつぶしのような単純なリズムの繰り返しは意外に心地いいもので、心のバランスをとるのに役立つところがある。私たちは、一定のリズムで繰り返されるインスタントで、わかりやすい感覚やコミュニケーションで自分を取り巻きたがっており、現代の消費環境はそのニーズを支援してくれている。
・即時的な満足を与えてくれる感覚刺激やコミュニケーションにいつでもアクセスできる状況にあって、「消化しきれなさ」「難しさ」「モヤモヤ」といった時間もコストもかかるものは人気がなくなっている。
・常時接続の世界では、〈孤立〉だけでなく〈孤独〉も失われつつある。〈孤独〉は、注意を分散させず、一つのことに集中する力に関係するのに対して、〈孤独〉は自分自身と対話する力に関わる。〈孤独〉が失われると、退屈を耐えきれず、何か刺激やコミュニケーションを求めてしまう。自分自身と過ごすことができない。
・〈寂しさ〉は、いろいろな人に囲まれているはずなのに、自分はたった一人だと感じていて、そんな自分を抱えきれずに他者を依存的に求めてしまう状態。スマホという新しいメディアは、〈寂しさ〉からくる「つながりたい」「退屈を埋めたい」などというニーズにうまく応答してくれる。しかし、〈寂しさ〉からくるマルチタスキングは、いろいろな刺激の断片を矢継ぎ早に与えるものなので、一つ一つのタスクへの没頭がない。そうすると、ふとした瞬間に立ち止まったちき、「あれは何だったんだ」と虚しくなったり、繋がりの希薄さ(つながっていても一人ぼっち)を実感したりすることになる。常時接続が可能になったスマホ時代において、〈孤立〉は腐食し、それゆえに〈孤独〉も奪われる一方で、〈寂しさ〉が加速してしまう。
・現代人は自分を激務で取り巻いて、自分自身と向き合うことを避けているとニーチェは指摘し、オルテガは、いろいろな人の集まる都市空間に生きているはずなのに、誰も互いの話を聞かずに自分こそが意見を言い、判断する資格があると思って軽薄に話していると考えた。同じことを、アーレントは「寂しさ」という言葉で取り上げた。スマホという注意を細切れに分散することをサポートする装置を誰もが持ち歩いている時代にあっては、三者の指摘が印象深く感じられる。人の注目を集めることに気を揉んだり、いいねや既読がつくかを気にしたり、注目を集めているインフルエンサーの様子を必死に追いかけたり、みんなが話題にする流行りをとにかくなぞったりしている。こういう行動の積み重ねは、自分や他人の感情や感覚を理解する能力を減退させる。
・パスカルによると、人間はそもそも虚しくつまらない存在。死すべき定めを持っており、そのことを意識させる退屈や不安に耐えられず、つかのま、それから目を逸らすために様々な活動や交流に手を出してしまう。
・フィッシャー。抑鬱的快楽とは、〈娯楽や刺激、おしゃべりで細かく時間を埋め合わせることで「快楽的なダルさ」に浸り、「やわらかい昏睡状態」となり、一抹の安楽を得る〉というメンタリティを指す。
・諸々の刺激から切り離されると、私たちは「退屈」を感じる。しかし、刺激で自分を取り巻いているとしても、心のどこかで何か足りないという感覚が響いてもいる。出口がない、底の見えない不安がぐつぐつど足元で煮えたぎっている。
・まずは退屈になってみる。スマホを通じてもたらされるファストでインスタントな刺激から距離を置き、快楽的なダルさから身を引き剥がす。その代わりに生じてくる退屈や不安に、足元をそっとつけてみる。
・「孤独のつくりかた」は、趣味をもつこと。ただし、「何かを作ったり育てたりする活動」に限定される。社会生活などとは切り離された自治の領域において、人に見られたり見せたりするためではなく、自分なりに試行錯誤しながら何かを作り上げることでなければならない。趣味の試行錯誤は問題解決のようなものではない。そこには「反復」がある。趣味は遊びなのだから、特定の目標が達成されたくらいで手放されるものではない。「反復練習さ。同じことを何度も繰り返す。自分がいいなって感じられるまでね。それしかない」というカヲルの言葉は、趣味の終わらない楽しさを適切に表現している。 -
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ネガティヴ・ケイパビリティの魅力と実践可能性についての対談(3人だから鼎談?)を書き起こした本。
正直、このレベルの会話ができることが尊敬。文字で追っていてもかみ合っているのか何なのか、分からないところもあったり。
ネガティヴ・ケイパビリティを扱うだけあって、これだ、という結論はなく語りは続く、という終わり方だった。
以下メモ
・ナラティブの危険性
「物語的誤謬」何かもっともらしい物語に落とし込むことで、過去にあったはずの多様な出来事、ありえたはずの無数の姿を見落とし忘れてしまう。
・陰謀論が力を持つ背景
世界を少しでも良くしたい
わからないことを知りたい
・コミュニケーションのモードが社会の秩序性(意味内容の秩序だったやり取り)から、つながりの社会性(場の空気を維持しつつ、つながりあうこと自体を目的とするもの)に変化している。
・マスターアーギュメント
これだけで何でも説明できます、とうたう理論や基準のこと。
・ネガティブ・ケイパビリティは、事実や理由に拙速に手を伸ばさず不果実さ、謎、疑いの中にいることができる力。
・若者のキャラ化 自分をデフォルメする
表情や声色、目線などの情報が見えずらいインターネットを介したコミュニケーションが支配的になった結果、予測可能なキャラに落とし込むようになった。
・「従順さのどこがいけないのか」という本を読み、従順ではいけないと思う。それは、この作者に自分が従順になっている?自立を促すメッセージの持つ矛盾。
・SNSで何かをカミングアウトすることはその弱さに寄り添うではなく、アテンションを集め瞬く間に周囲を敵と味方に分断する機能を持ってしまっている。
・個人の自己決定が大事とされる一方で、どんな帰結も各人の自業自得になる。今はどんな選択にも究極的に保障してくれるものがない。根拠が不安で多様な権威に確認を取り続ける。 -
Posted by ブクログ
面白かった。対談している3人が楽しそうだから、読んでいて楽しく面白いのも当然。言語に乗っ取られている、という表現があり、納得する。例えば医療者同士の会話の時、関係者以外が聞いたらギョッとするようなこと。それに気がつかないと、元吉野家の専務のような発言を講演でしてしまう。内輪ウケ、みたいな話かなぁと思う。
3人の会話は時に、私にとってものすごく簡単なことをめちゃくちゃ迂回して辿り着いたりしている。いかに、自分が直感的に物事を見ているかと気づく。
ネガティヴ・ケイパビリティ。何度読んでも素敵な概念だ。そして、とても難しい。宙ぶらりんで耐える。それは言うほど簡単ではない。ポジティブ・ケイパビリティの中で生きているから、つい白か黒か、YESかNOか。そんな単純な答え、簡単な答えで満足してしまう。でも、世の中は、世界はそんな単純明快ではない。答えを出さない、という答えがある。
自分の人生に対しても、焦らず、慌てずに、よく観察して、ゆっくり答えを見つける。そして、その過程を楽しめる友人がいること、その友人と言葉で共有できること、意見が言えること。簡単な答えに飛びつかない。
良い本だった。