先が気になって一気読みした!物事の大きさに反比例して、人々の動きは静かで、でも静かなる力がこもるお話だった。淡々とという意味ではなく、静かに自省をさせられている感じ、というか。だんだん上手くなっている気がするな、カツセさん。今まで読んだ中で1番好きだった。最初からは予想がつかない展開だったが、タイトルにつながる部分は多くあって、とても洗練されたお話だった。
p.82 でも、得意先もいて、会話の流れもあったし、こっちもさらっと受け流せたからそんなに不快でもないというか」
「あ、長谷川さん」
入谷さんが挙手するように軽く右手を持ち上げて、声を少し、尖らせた。
「傷ついた事実は、嘘にしなくていいですよ。この場ではもう、傷自体を隠したり、軽傷に見せかけたり、しないでいいです」
ピシャリ、という言葉が似合った。急に研ぎ澄まされた鋭い声が、部屋の中で緊張感を持って回遊した。
「無理に笑顔を作る必要もないし、自分の発言が相手の機嫌を損ねてしまうかもとか、考えないでください。私たちは、長谷川さんが一番大事です。会社として何ができるか、最大限の支援ができるように、まずは気持ちをそばに置きたい。だから自分の悲しみや傷は大したことないものなんだとか、絶対に思わないでください」お願いします、と入谷さんが軽く頭を下げた。
僕も、同じように頭を下げるしかなかった。テーブルを間近に見ながら、自分はハラスメント被害の相談に対する覚悟なんて全然できていなかったことを、思い知らされていた。
長谷川さんはしばらく考え込んだような顔をして、それからゆっくりと俯いた。ポケットティッシュを取り出すと、静かに鼻をかんで、すみません、と小さく笑った。
長谷川さんは、別に大丈夫なんかじゃなかった。
p.90 ないです」と強く答えた。それでも、長谷川さんの顔にかかった影は溶けない。
「わかんないです。わかんないですけど、私がこの告発をしたことで、私がただ弱いだけだったと、周りからそう言われることが、今はもう、怖いんですね」また涙が落ちて、そこで入谷さんが、何かに気付いたように背すじを伸ばした。
「じゃあ、やめましょ!」
今日一番、大きい声に思えた。驚いて横を見ると、例の黄色のピアスが小刻みに揺れている。
「長谷川さんが後ろめたくなることは、一切やらないでよしですよ!第三者になんて絶対に関与させないです。それに、さっき言ったじゃないですか。今日この場は、自分なんかって思わないでいてください。耐える必要もないものを耐えてきたのは、環境のせいであって、つまり、土方さんを野放しにしてたことや、これまでの状況を放っておいた私たちのせいであって、絶対に長谷川さんのせいじゃないです。長谷川さんは、少しも悪くない。悪くないですから」
誰かを勇気づける、でも、同情しているようには見せない、背中を押すための笑顔と言葉。
入谷さんの言動一つひとつが、僕には到底できそうもないものばかりで、そのことが憎さを覚えるほど歯痒い。入谷さんがいなかったら、今日の僕に、一体何ができただろう。
長谷川さんは少しだけ笑いながら頷いて、何度かそうした後、やがて顔を伏せるように、下を向いた。ありがとうございます。と言ったのだろう。その言葉は、もう僕にはうまく聞き取れなかった。
p.131 ていた?
「守くんはさ」
ずっと低くなっていた声のトーンを戻すように、翠さんはゆっくりと話し始めた。
「今も、世の中の流れそのものみたいに、ネットで仕入れた情報そのままみたいな言い方で、ペットショップは良くないとか、ハラスメントがどうとか、薄っぺらく主張してる気がして、たまにそういうの、すごく怖くなるよ。表層的なものだけ掬い取って、大切なことは何ひとつわからないまま、動いてる気がする」
翠さんの両手で握られた空き缶が、ゆっくりと回っている。僕は、時計回りに動くその空き缶しか、見ていたくなかった。
「そんな人が、ハラスメントの窓口になってるのも、どこまで被害者に寄り添えるんだろうって、やっぱり怖く感じるよ」
「うん」
「その証拠に、守くんの口から、その課長の話は出てきても、被害者の女性の話は全然聞かないもん」
「いや」
「いやじゃなくて、そうだよ。一番傷ついていて、一番ケアしなきゃいけない被害者のことを、きっとどこかで軽視してる。今、この瞬間も、その被害女性は、不安で仕方ないはずだよ。告発したことで、自分の未来がどうなるんだろうって、心底心配してるはずだよ。その気持ちに心から寄り添っていたなら、きっとこの場でも、その人の話は出てるはずだよ」目を閉じて、長谷川さんのことを考える。長谷川さんの心の傷は、土方課長の処分が決まったところで簡単に癒えるものじゃない。そんなことはわかっている。わかっているけれど、まずは、加害者を切り離さないと。
僕は僕で、正しい選択をしたはずで。
「人は変われるって私も付じたいけどさ。過去にあんなひどいことをした人が、まるで正義の象徴みたいな顔して人を裁くようなことをしてるの、私からしたら、やっぱりとんでもないって思っちゃうよ。だから、さっきの話もそうだね。その課長の言動よりも、私に向かって聖人君子みたいな顔している守くんの方が、私はよっぽど怖かった」
どうして。どうして「そんなつもりじゃない」と、面と向かって否定できないのだろう。翠さんの言っていることが、図星だから?翠さんの言うとおり、僕は上澄みだけを掬って、流行りの音楽でも聴くように、ハラスメントを語っているだけなのか?
「人ってそんな簡単に変われないし、変わったからといって、オセロみたいにこれまで黒かったものが白に裏返ることもないよ。だから、守くんが今、必死に変わろうと努力していることは伝わるけど」
もう、何も聞きたくない。何も考えずに、いたかった。
「それでも、昔から善人でした、みたいな顔だけはしないでよ。私や誰かを、傷つけてきた過去まで、消そうとしないでよ」
p.224 「たぶんだけどさ」
恥ずかしい。でも、頭の中の答えは、これだ、と光り続けている。
「恋が終わったら、その先は、愛が引き継ぐんじゃないかって思う」
熱を冷やすように風が吹いた。繋いだ手の隙間を抜けて、すぐに後方に流れていった。
「めっちゃくさいこと言ってるのはわかってるんだけど。でも、たとえばだよ」
翠さんは口を閉じたまま、ゆっくりと頷く。
「翠さんや僕が、もしも病気になって、大きな手術とかが必要になったとして。そのときに夫婦じゃなかったら、僕らはただの他人で、大事な決断は、両親とかがすることになる。あの両親がだよ?僕にとって、翠さんは一番大事な人のはずなのに、その人の一番大事なときにそばにいてあげられず、もしかすると、看取ることすらできないかもしれない。そんなの、絶対に嫌だなあって思って。これは、この感情は、恋とはまた別のものが引き継いでいる感じがするなってずっと思ってた。それで、きっと、夫婦になるのがいい。これからもそばにいるために、そうしたいって思ったんだよ」「・・・・・・それで、プロポーズしたの?」
「プロポーズしたとき、ここまできちんと考えられてたかはわかんない。でも、気持ちとしては、変わってない。だから、翠さんがまだ恋を望むなら、断るだろうなって思ったし、その先を望んでくれるなら、受けてくれると思った。そういう意味では、僕からしても、賭けではあったかも」